第14話 愛莉

 霧沢亜久斗、三十一歳の春、古都京都の染井吉野桜が春爛漫と咲き誇っていた。そして花の命はあまりにも刹那で、あっと言う間に散り終わった。

 そんな後に、仁和寺の中門内の約二百本の御室桜おむろざくらが満開となる。

 淡いピンクの桜は低木で、遅咲きの八重桜。木の下は岩盤で根が張れず、また栄養分が少ないため背が低い桜になると言い伝えがある。

 また別名、花(鼻)が低いため、お多福桜とも呼ばれている。

 四月二十日頃ともなれば満開。境内一帯が薄紅色に染め上げられる。

 そんな花の宴が今にも開かれようとしていた頃に、洋子は誰もいないクラブ内で首吊り自殺をした。そして洋子の初七日も終わり、時節は卯月から皐月へと移り変わっていった。


 洋子の突然の死ですっかり落ち込んでいたルリ、霧沢が一所懸命支えた甲斐があったのか、徐々に元気が戻ってきたようだ。

 そんなある日、ルリが瞬きもせず、まるで何かを訴えるかのように霧沢に話す。

「アクちゃん、洋子のことは本当に辛かったわ。だけどいつまでも悲しんでられないし、これからの私たちのこともあるからね。少し気晴らしをしたいの、だから、この時期植物園のチューリップが真っ赤に咲いているでしょ、それを見に行ってみたいの。お願い、アクちゃんも一緒に来てくれない」


 京都府立植物園は大正十三年(一九二四年)に開園された。賀茂川の清流の東に位置し、北大路通りと北山通りの間に約七万二千坪の広大な敷地を有し、そこに約十二万本の植物が植えられている。

 そして四月から五月は真っ赤な絨毯を敷き詰めたかのように、チューリップが華やかに咲き乱れる。

 ルリはそんな中に身を置いて、傷付いた心を癒し、霧沢との将来に向かってもっと元気を取り戻したいと言う。

 霧沢はたとえこんなささやかなルリの望みであっても、それにしっかりと応えてやりたい。少しでも婚約者、ルリのためになることならば、それを断る理由はない。

 こうして霧沢は、次の日曜日の昼前に植物園の入口でルリと待ち合わせをした。


 その日の天候は五月晴れ。春光うららかな青空に、鯉のぼりの真鯉、緋鯉、子鯉が仲良く泳いでいる。ポカポカと暖かく、植物園のチューリップを見て歩くには絶好の日和だ。

 霧沢は約束の時間より少し早めに行き、正面入口の横で待機した。ルリを待つ時間、それがゆっくりと流れていく。しかし、霧沢はそれが苦にはならない。

 八年間もルリの前から消え、そして一年前に再会した。そして京都駅で、東と西への反対方向へと走り行こうとする新幹線に、それぞれが一分差で乗車するところだった。

 しかし、霧沢はそれがルリとの生涯の別れになるのではと感じ、博多行きの新幹線に乗車できず思い留まった。そしてルリも東京行きの新幹線に乗れなかった。

 霧沢はルリがいる上りプラットホームへと駈け上がり、泣くルリをしっかりと抱き締めた。そして心に誓った。これからはルリと共に生きて行こう。そしてルリを絶対に幸せにしてみせると。


 霧沢は今植物園の入口で、二人を結び付けた強い縁を感じながら、ルリがやって来るのをじっと待っている。

 そんな中、時は漠然と流れてはいくが、こんな時間の費やし方もルリのためだ。それだけで充分意味のあることなのだ。そして霧沢は急に思い付いたのか、どういう順路で園内を歩こうかと案内板へと歩み寄った。

 園内地図を頭にたたみ込んだ後、ふと振り返ると、遠くの方から入口に向かって歩いてくるルリが見える。ルリの方も霧沢を見付けたのか、大きく手を振る。

 しかし、その歩みは決して早くない。ゆっくりと、そしてゆっくりと、霧沢の方へと歩み近付いてくる。

 なぜならば、それはルリ一人ではなかったからだ。

 ルリは幼い女の子と手を繋ぎ、横で空のベビーカーを押している。

 霧沢は遠くからでもすぐに気付いた。その幼児が誰なのかを。


 クラブ・ブルームーンのママ洋子は「この子、愛莉って言うのよ」と言っていた。

 だが、そのシングルマザーの洋子はもういない。愛莉一人が残されたのだ。

 そしてまた洋子はルリのことを親友だと言っていた。

 そんなルリが幼い愛莉を不憫に思い、一日遊んでやろうと植物園のチューリップを観に連れてきたのだろう。それは充分あり得ることで、納得もできる。

 霧沢はそんなルリの愛莉への温もりある思いやりを感じ取り、歓迎の意味を込め、駆け足で二人のもとへと走り寄って行った。ルリがそんな霧沢に明るく声を掛けてくる。

「アクちゃん、お待ちどうさん。いいお天気になって、ほんと良かったわ」

 霧沢は「ああ、そうだね。今日は最高だよ」と手短に返し、愛莉の目線までしゃがみ込んだ。そして愛莉に微笑み、「今日はお姉さんと一緒なんだね、良かったね。中で真っ赤なお花を見ながら、みんなでお弁当食べようね」と話し掛けた。

 愛莉はルリの方へと寄り添い、少し恥ずかしげに「うん」と小さく頷いた。


 そんな愛莉の仕草から、どうも自分のことを憶えていてくれるのではないかと、霧沢は勝手に解釈する。そして、それでさらに気を良くしたのか、「愛莉ちゃんは、おいくつになったのでちゅか?」と赤ちゃん言葉で歳を聞いてみる。

 愛莉がきょとんとしている。そこでもう一度笑みを増して尋ね直してみると、愛莉は「みっちゅ」と言いながら小さい指を三本立てた。

「わあ、愛莉ちゃん、かちこいなあ」と、霧沢は思わず声を上げてしまった。

 そんな様子をそばで見ていたルリが「アクちゃん、今日はゴメンね。なにか子守りみたいになってしまうのだけど」と申し訳なさそうな表情をしている。

「別にいいんだよ、俺、愛莉ちゃんとは昔からの友達なんだから。さっ、みんなで行こうよ」

 霧沢はそう答えながら立ち上がった。そして幼い愛莉を霧沢とルリの間に挟み、愛莉の歩調に合わせてゆっくりと歩き始めた。

 植物園の入口まで少し時間は掛ったが、別に慌てることではなかった。春の暖かな木洩れ日、それが差し込む並木道を、三人はまるで五月の風にゆらゆらと揺らされながら歩を進めた。そしてやっと三人は入口へと着き、入場券を買って園内へと入った。


 中央正面にある広場は、真っ赤なチューリップで埋め尽くされている。その原色の赤はいかにも派手で、気持ちをぱっと明るくしてくれる。ルリはそんな世界に身も心も埋没させ、はしゃぐ愛莉と遊んでいる。

 霧沢はそんな二人の姿を見ながら、洋子のことを思い出した。そして「母親が首吊り自殺をしてしまうなんて、罪なことだなあ」とつくづく思うのだった。そのためか、一人残された幼子の愛莉が止めどもなく哀れに思われる。

「ルリが最初に言ってたように、今日はルリとのデートではなく、愛莉の子守りに徹しよう」

 霧沢は改めてそう思い直し、それからは精一杯愛莉と遊ぶのだった。

 中央広場のチューリップに埋もれ愛莉と随分と戯れ、そしてそれに飽きて、今度はゆっくりと広い園内を散策する。

 結果、充分エネルギーを使い空腹となり、大きな樫の木の下で、ルリが持参してきたサンドイッチをみんなで摘んだ。


 風薫る五月、ぽかぽかと暖かく、周りに様々な春の花が咲き乱れている。そんな世界に三人は埋没し、楽しくランチを取る。

 霧沢は「こういう有り様を、きっと幸せと言うのだろうなあ」とふと思った。そして、もしこんな様子を外から眺めたとしたら、それはピクニックに来た暖かい家族のようにきっと見えていることだろうと想像した。


 霧沢はルリとこの六月に結婚する。

 そしてその内に、自分たちにも子供ができるだろう。いつの日か、自分たちの子供を連れて、この時節にもう一度植物園を訪ねてみたいものだとぼんやりと思う。

 周りでは、絶えることなく家族連れのはしゃぐ声が飛び交っている。きっとそれらがララバイのような優しい歌声になったのだろうか、霧沢が何気なく横を見てみると、愛莉がいつの間にかベンチの上ですやすやと眠っている。さすがに疲れてしまったのだろう。


 霧沢はお茶を飲んでランチを終えた。そしてもう一度愛莉の寝顔を覗く。きっと楽しかったのだろう、満足そうな顔をしている。

 霧沢はそのほっぺにちょっと触れてみた。幼子のきめ細かで張りのある肌の感触が伝わってくる。

「この子、可愛いね」

 霧沢はルリに聞こえそうもない小さな声でぽつりと呟いた。だが一方で考えてみると、愛莉は生まれてこの方、母の洋子と、そして父の宙蔵と親子三人で一緒に外で遊んだことは果たしてあっただろうか。

 霧沢はそんなことをとりとめもなく思い、愛莉が不憫で堪らなくなってきた。そんな時に、そばにいたルリが声のトーンを一段と低く落として話す。

「ねえ、アクちゃん、私、アクちゃんに一生のお願いがあるの」

 ルリがこう言って、真剣な眼差しで霧沢を見つめる。


 霧沢は何事が起こったのかと、びっくりする。

「お願いって、何なの? 遠慮なく言ってみて」と軽くルリを促した。

「この六月に私達結婚するでしょ、だから……」

 ルリはなぜか最後の言葉を飲み込んでしまった。

「ああ、俺たち結婚するよ。それで?」と霧沢は聞き直した。

 ルリがいつの間にか手を霧沢の手に絡ませてきている。そこからルリの異常に緊張した気持ちが伝わる。

 霧沢は次の言葉を待っていると、ルリが気持ちを落ち着かせるためなのか、一つ大きく息を吸った。そして思い切りそれを「ふう」と吐く。

 あとはまるで覚悟を決めたかのように、しかし声を震わせ、ルリが言い切る。

「私、アクちゃんの所に、……、愛莉ちゃんを連れてね、……、お嫁に行きたいの」

 ルリは霧沢の手を握ったまま黙り込んでしまった。霧沢はこれがどういう意味なのかがわかる。


 霧沢は半年前の十一月半ばに洋子に呼び出され、クラブ・ブルームーンを訪ねた。その時に口惜しそうに、「私、シングルマザーなんよ。パパは愛莉を認知してやろうと約束してくれてはったのにね、嘘吐かれちゃったわ」と嘆いていた。

 それは不幸にも、誰かから何らかの抵抗があったのだろう。愛莉は父の花木宙蔵に認知してもらえなかったということなのだ。

 その結果、母の洋子の死で、愛莉は幼ない身で天涯孤独となってしまった。


 ルリが必死の覚悟で、「愛莉ちゃんを連れて、アクちゃんの所へ、お嫁に行きたいの」と懇願してきた。

 その意味は、結婚と同時に愛莉とは養子縁組をし、愛莉を引き取る。そして、この三人が家族になるということなのだ。

 愛莉はルリにとって、親友だった洋子の子。そして霧沢にとっても、長年の友人、宙蔵と洋子の子。多分幼い愛莉には頼る身寄りがないのだろう。

 しかし、あくまでも他人の子だ。霧沢にとって、事はそう簡単なことではなかった。


 だが霧沢は思った。これはルリが愛莉の新しい母親になるということ。そして霧沢が父親となるということだ。

 それは結婚という扉をこの三人で開け、新たな人生をみんなで築いていこうとするものなのだ。

 霧沢にはわかる、ルリがよほどの決意をしたのだと。そして、その覚悟のほどはなみなみならぬものだと。


 霧沢の八年間の空白の後、再会したルリ。青薔薇二輪の絵にA/Rとサインを入れていた。そして霧沢もルリも東と西に向かう新幹線に乗れなかった。霧沢に、そんなことが思い浮かぶ。

 しばらく重い沈黙が続く。二、三分の時間が流れた。

 霧沢は真正面にルリに向き合う。そして静かに、ルリに一言だけ告げた。

「そうしよう」


 ルリはじっと黙り込んだまま、霧沢のこの決断を聞いた。そしてその言葉を噛み締めるように深く頷き、「アクちゃん、ありがとう」と小さな声で囁き返してきた。

 その後ルリからはそれ以上の言葉は発せられてこない。

 だが、霧沢の手に力が込められてくる。そして、いつまでも続く沈黙の代わりに、春爛漫の光り輝く陽光の下であるにも関わらず、ルリの目から大粒の涙がハラハラと落ちる。

 そんな様子を見て、霧沢は口を開く。

「ルリ、俺たちの未来は、これで変わったかもな。それとも初めからこうなるように運命づけされていたのかも知れないなあ。だからその流れに逆らわず、この新しい扉を、愛莉ちゃんと一緒に三人で開けてみよう、――、それで良いよね」

 霧沢はこう囁いて、ルリをそっと抱き締めた。

 ルリは「うん、愛莉ちゃんと一緒にね」と小さく繰り返す。


「ルリ、もう泣かなくていいよ。この道は、今、二人で決めたのだから」

 霧沢はそう言って、ルリの涙を拭いてやる。

 その一方で、ベンチの上ですやすやと眠っていた愛莉はいつの間にか目を醒ましている。機嫌が良くなったのか、霧沢とルリに柔らかく微笑んでくれる。

「さっ愛莉ちゃん、もう一度、真っ赤なチューリップを観に行きましょ」

 ルリはベンチから愛莉を抱きかかえた。そして頬擦りをしながら花園へと歩き進んでいった。霧沢はそんな二人の後ろ姿を目で追い掛ける。


 花園にいる二人、いつの間にかルリと愛莉が真っ赤に染められ、燦々さんさんと輝いて見える。

 そんな二人を眺めながら、天国へと旅立ってしまった宙蔵と洋子に、霧沢は報告をするのだった。

「宙さんと洋子さん、ルリと俺があなたたちの代わりになって、愛莉ちゃんを立派に育ててみせるからな、――、これで安心してくれ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る