第15話 万感の思い

 霧沢、三十一歳は、ルリと予定通り六月に結婚した。そして愛莉を養女として迎えた。

 その後、二人は愛莉に一杯の愛情を注ぎ、実子のように育てた。そして結婚して一年後に、愛莉に弟の遼太ができた。こうして四人家族となった。


 霧沢はとにかく一所懸命家族のために働いた。またルリは好きな絵を描くことを中断し、子育てに没頭した。その甲斐あってか、愛莉も遼太もすくすくと育った。

 光陰流水、月日の流れは早い。

 季節は幾度とも巡りゆき、霧沢は五十歳となった。

 結婚してからここに至るまでの十九年と言う長い年月、いろいろなことがあった。子供たちの反抗期に手を焼いたこともあった。また、ルリとの夫婦喧嘩にエネルギーを使った時期もあった。


 だが霧沢は、あの時京都駅の新幹線ホームで、ルリが「どうしても東京に帰れなかったの」と泣いたのをしっかりと憶えている。

 霧沢はそんなルリに応え、「これからは、辛い気持ちにはさせないから、ずっと僕はそばにいるよ。そして絶対に幸せにしてみせるから」と約束した。そして、ルリは「これでアクチャンは、本当に私の守護神になってくれたのね」と言い、霧沢は「ルリをずっと愛し、守っていくよ」と答えた。

 その誓いを果たすため、霧沢はルリにできるだけの協力をし、家族四人慎ましく、そして平和に暮らしてきた。それが報われたのか、息子の遼太はこの春に霧沢とルリとが共に過ごした同じ大学に入学し、今学生時代を満喫し始めている。

 そして、植物園のベンチですやすやと眠っていた愛莉は、同じ学校を卒業し、京都伝統の西陣織のメーカーにデザイナーとして就職し働き出した。


 新しい世界に入って行った子供たち、最初は少し戸惑いがあったようだが、すぐに慣れ、今は活き活きと通っている。

 霧沢はそんな姿を横で見ていて、「ああ、やっとここまで辿り着けたか」と嬉しい。

 そして季節は春から初夏へと変わり、五十歳の六月のことだった。霧沢とルリとが結婚してから十九回の春秋を経ていた。


「なあルリ、今年の結婚記念日は二人で温泉にでも行って、ここまでやってこれたお祝いでもしようか?」

 長年の子育てで奮闘してきた妻、ルリをいたわってやりたい。

「そうね、私たちここまで頑張ってきたのだから、一度温泉にでも出掛けてみたいわ」

 リビングでこんな夫婦の会話を交わしながらくつろいでいた。そんな時だった。愛莉がつかつかと入ってきた。そして二人の前にかしこまって座った。


 霧沢は突然何事が起こったのかと驚き、「愛莉、どうしたんだよ?」といつもの調子で尋ねた。

 すると愛莉は一度深く頭を下げ、「お父さん、お母さん、ここまで育てて頂いてありがとうございます。これ、結婚記念日のプレゼントです」と、突然そんなことを仰々しく言う。

 そして赤いリボンで結ばれた一つの筒を差し出すのだ。しかし霧沢にはわかっている。なぜ愛莉がこんなことをするのかが。

「ありがとう、愛莉、だけど、愛莉はお父さんとお母さんの大事な娘なんだよ」

 霧沢は少し戸惑いながらもそう言い切った。

「わかってるわよ、お父さん、正直言って、私も随分悩んだこともあったわ。だけど今は、感謝の気持ちで一杯なの」

 横にいるルリがこれを聞いて余程嬉しいのか、もう涙腺が緩み出している。


 愛莉が養女であることを本人に特に隠してきたわけではない。

 ある日突然に、愛莉が自分の出生のことを知って動転しないように、小さい時から折りにふれて話してきた。

 それは詳細には語らなかったが、実の父母は自分たちの友人だと。そしてその友人は不幸にも亡くなり、単に養父と養母として、愛莉を育ててきたのだと伝えてきた。

 だが一方で、愛莉の気持ちが歪まないように、愛莉には真剣に向き合ってきつく躾け、また褒め、笑い、怒り、泣き等の感情も隠さず、その若い人格の人間味ある情操を育んできた。


 しかし、それは唐突のことだった。愛莉が「感謝の気持ちで一杯なの」と言ってくれた。この言葉が霧沢とルリの胸にじーんと沁み行き、本当に嬉しい。

 だが霧沢は若干複雑な気持ちで「そうか」と返し、しばらく考える。

 十九年前の春の陽光うららかな昼下がりに、大きな樫の木の下で、花一杯に包まれながらすやすやと眠っていた愛莉。あの幼くて可愛かった愛莉を、今、目の前にいる一人の女性として成長した愛莉に重ね合わせる。

「そうだなあ、お父さんたちの結婚記念日は、愛莉にとっても、我々の家族になってくれた喜ばしい記念日なんだよね」

 霧沢はそんなことをぼそぼそと呟いた。そして、「愛莉はもう立派な社会人になったのだから、一度きっちりと愛莉の出生について話しておいた方が良いかなあ? なあルリ、お母さんはどう思うの?」と、いきなりではあったがルリに聞いてみた。


 ルリは涙を拭きながら「そうね、愛莉ちゃんさえ良ければ……、愛莉ちゃんは、どう?」と質問を愛莉に振り、じっと見つめる。

「お母さん、私大丈夫よ、厳しく育ててもらったから、お陰様で強くなったわ。だからお父さん、本当のことをもっと教えて」

 愛莉はしっかりとした口調で返してきた。

 その言葉からは、真実をきっちりと知る覚悟を決めたことが窺い取れる。

 霧沢は「うん、わかった。じゃあ愛莉に話そう、いいな?」と確認し、お茶をごくりと一口飲んだ。それから「はい」と愛莉が頷くのを見て、妻のルリに「間違いがあったら、横から訂正してよ」と声を掛ける。

 ルリがコクリと頷く。

 その後、霧沢はぽつりぽつりと、約三十年前の学生時代まで遡り、何があったのかを語り始めるのだった。


 霧沢とルリは同じ美術サークルに所属していた。

 その頃の二人の共通の友人は花木宙蔵、桜子、滝川光樹だった。

 またそれ以外に、ルリの友達は沙那だった。

 そして、愛莉の母の洋子は霧沢の女友達だった。

 その洋子は、当時霧沢の下宿の近くのスナックでアルバイトをしていた。


 時は流れ、霧沢は卒業後友人たちとの縁を切り、仕事で海外へと飛び出した。

 それから八年の月日が経ち、霧沢が京都に戻ってくると、花木宙蔵と桜子は結婚していて、老舗料亭の京藍を引き継いでいた。

 一方、ルリのルームメイトで親友となっていた洋子は、祇園のクラブのママとなり頑張っていた。

 宙三と桜子の夫婦は不仲だったためなのか、宙蔵とママ洋子は恋に落ちた。

 そして、その間に愛莉が生まれた。


 父の宙蔵は愛莉の認知を洋子に約束をしていたが、それは不幸にも果たされなかった。

 残念なことだが、霧沢が三十歳の時の六月に、宙蔵はマンションの密室で消化器二酸化炭素の急性中毒により亡くなってしまった。

 さらに、非常に悔やまれることだが、愛莉の母の洋子は、年が明けて四月にクラブ内で首吊り自殺をした。

 こんな不幸で、独りぼっちになってしまった幼い愛莉を、霧沢とルリは結婚すると同時に養女として迎えた。


 霧沢はここまですべて包み隠さずに愛莉に伝えた。

 愛莉にとって、特に実母の洋子の首吊り自殺、その事実は残酷なものだった。

 しかし、愛莉はいつか知っておくべきことだと霧沢は思っていた。

 当然のことだが、愛莉は辛そうにしている。されど気丈にも、「お父さん、話してくれてありがとう」と答えてくれた。

 それに霧沢は念を押すように、「愛莉、これだけは伝えておくよ、どういうことがあっても、我々は愛莉の父と母だよ。だから愛莉がこれからも幸せになって行くためには何でもするし、そして幸せになることをいつも願ってるんだよ」と話し聞かせた。

 愛莉はこれをじっと聞きながら涙を零している。そして、その涙を溢れるるままにして沈黙している。

 しかし、しばらくして一言だけ悲しそうにぽつりと呟くのだ。

「なぜなの?」


 かって霧沢は、ルリから何回ともなく「なぜなの?」と尋ねられた。そして今、大人になった愛莉が同じ言葉で「なぜなの?」と問うてくる。

 その愛莉の「なぜなの?」は、母の洋子がなぜ首吊り自殺をしてしまったのか、それが理解できない、きっとそういう問い掛けなのだろう。

 洋子の遺書にはプリントされた活字で「疲れた」の一言だけがあった。霧沢にも愛莉の「なぜなの?」の答が見つからない。

「正直に言うとね、お父さんもよくわからないんだよ」

 霧沢はじっと黙り込んでしまっている愛莉に、無念ではあるがこんな返事しかしてやれなかった。

 愛莉はそんな父を気遣ってか、「お父さん、わかったわ、その内に理解できる時がきっとくると思うわ」と殊勝に言ってくれた。

 霧沢はそんな愛莉を見ながら思うのだった。いつの日か、必ず娘の愛莉のためにその答を見付けてやろうと。


「さっ、このお話しはこの辺で終わっておきましょ、それで愛莉ちゃん、私たちに何をプレゼントしてくれたの? これ、開けるわよ」

 ルリは無理に明るい口調でそう言い放ち、筒に結ばれてある赤いリボンを解き始めた。そして丁寧に包装紙を外し、筒を開き一枚の織物を取り出した。

 それは西陣織の金襴緞子きんらんどんすの壁掛けだった。

 その図柄は現代風であり、四季折々の花々がふんだんに散らばめられ、織物の面全体が艶やかなものだった

「わあ、華やかで素敵だわ、愛莉ちゃん、これどうしたの?」

 ルリが思わず声を上げた。愛莉は母・ルリのこんな反応に、自分の暗い気持ちを吹っ切るかのように真正面を見据える。

「私、学生時代から今の会社でアルバイトしてたでしょ。その間ずっとこのデザインを創作してきてたのだけど、職人さんがね、これどうするんだと訊くから、お父さんとお母さんにプレゼントしたいのと言ったらね、親切に俺が織ってやるよと言ってくれはってね。今回やっと出来上がったの。私の初めてのデザインが、この金襴緞子の織物になったのよ」

 愛莉はそう話し、満足そうに笑う。


 霧沢は「愛莉、素晴らしい作品だね」と感激しながら、それを手に取ってもう一度よく眺める。そこには、霧沢とルリの学生時代から今日までのいろいろな出来事、それらの周りで咲いていた花々が織物に織り込まれてある。

 祇園の枝垂れ桜に白川の宵桜、そして御室桜も。

 さらに三室戸寺の紫陽花に、植物園のチューリップまである。

 そして驚くことに、青薔薇まで優美に咲き誇り、気品良く全体がデザインされている。

「愛莉、ありがとう、これはお父さんたちの宝物になるよ、大事にするからな」

 霧沢は愛莉にそう感謝しながら、はたと思い付いた。

「そうそう、愛莉に、お父さんからのお返しでプレゼントがあるよ、ちょっと待っててね」

 霧沢はそう言い残し、さっさと二階へと上がって行った。そしてしばらくして一枚の絵を持って下りてきた。

 それはママ洋子がクラブ内に不釣り合いながらも飾っていた〔青い月夜のファミリー〕の絵。

 その絵は、宙蔵の死後、一旦女将の桜子により買い上げられ、料亭の京藍に保管されていた。


 二十年前の初秋、宙蔵の四十九日が終わった頃、霧沢は桜子を訪ねた。その時、その絵を形見分けとして桜子より譲り受けた。

 それを一旦洋子に返却したが、洋子の自殺以降引き上げ、その後ずっと手元に置き、今まで保管してきたのだ。


「これは、洋子さんが大事に飾っていた宙蔵さんの絵だよ。愛莉見てごらん、ヨットに三人乗っているだろ、その真ん中にいる小さな子が愛莉だよ」

 霧沢はそう話しながら、その絵を愛莉に手渡した。愛莉はしばらく何も言葉を発せず、それに見入っている。そしてその後、そのキャンバスの裏側に書かれてある〔青い月夜のファミリー〕の文字を読み、涙ぐむ。

「お父さん、ありがとう、これ大事にするわ」

「そうしなさい」

 霧沢はそう軽く答えてはみたものの、もう後は言葉にならない。万感の思いで胸が締め付けられてくるのだった。



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