第17話 不幸の連鎖

 霧沢が五十歳の時、自殺と鑑定された洋子の一人娘・愛莉は二十二歳になっていた。大学を卒業し、西陣織のデザイナーとして勤め始め、社会人としての第一歩を踏み出していた。

 また遼太は大学へと入学し、キャンパス生活をエンジョイし始めていた。そして霧沢自身も働き盛りを迎え、仕事に一番油が乗っていた。

 霧沢と妻のルリ、それに子供たちの愛莉と遼太、この四人の家族は黙々と前に向かって立ち止まることなく進んでいく。

 そしてその後も平和な日々を一日一日と刻み、歳月は大過なく流れていった。


 愛莉はそのセンスの良さから、伝統ある西陣織に新世代の新しい風を吹き込み、世間からも注目を浴びるようになった。

 また遼太は大学を卒業し、地元優良メーカーに就職した。サラリーマンとして働き出したのだ。遼太も立派に育ち、なかなかの好青年となった。

 今、この四人家族の暮らしは順風満帆で、まるで晴れ渡った初夏の海原を、白い帆に薫風を集め、流麗に走り行くヨットのようだ。


 かって京都駅のプラットホームで、霧沢とルリは一分という短い時間差の中で、離れ離れになるところだった。だが霧沢は、あの時博多への新幹線に乗り込まなかった。

 あの一瞬の決断、それは間違っていなかったのだと最近思う。そして霧沢とルリは、その結んだ赤い糸をもつれさせず、また切ってしまうこともなく、それからも慎ましく暮らしてきた。

 そして時は止まることもなくさらに流れ、霧沢は五十八歳となった。


 振り返れば三十六年前の二十二歳、大学を卒業し、海外へと羽ばたいた。そしてそれ以降、あまりにも速く人生という旅路を走り続けてきた。それを今思えば、白駒の隙はっくのげきを過ぐるが如し、一瞬の出来事だったようにも思える。

 あと一年半もすれば定年退職となる。そこから第二の人生が始まるのだ。

 たとえ再就職するにしても、仕事の第一線からは身を引くことになる。残りの人生はゆっくりとした歩調で歩みたい。そして楽しみたい。

 霧沢はまだ具体的に何をしようという案は持ってはいなかった。だが朧気おぼろげに、ルリと二人でのんびりと、絵でも描いて暮らしていこうかとも思っていた。


 さらに季節は巡り行き、五十八歳の秋も深まった。ふらっと訪ねた京都御苑ぎょえんの大きな銀杏の木、それもすっかり黄色く色付いていた。

 もうすぐ冬の訪れを知らせる風が吹き、それは葉を散らし、地上を黄金色の世界に変えていくことだろう。

 そして時は容赦なく瞬刻を刻み行き、慌ただしい師走へと移ろいつつあった。

 そんな頃に、また事件は起こったのだ。


 老舗料亭・京藍の女将、花木桜子が熱海温泉に向かう新幹線こだまの車中で殺害されてしまった。

 そんなニュースが霧沢の目に飛び込んできた。霧沢は腰が抜けるかと思うほど驚愕仰天した。


 そして思い出したのだ。それは遡ること二十八年前の出来事だった。

 宙蔵がマンションで事故死し、続けて洋子が首吊り自殺をした。そんな悪夢がまざまざと蘇ってくる。

 それらに加えてこの現下、今度は桜子が殺されてしまったという。

 そして、この事件でさらに、滝川光樹と桜子の関係は長年続いていたことを知ることにもなったのだ。


 新聞には『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』と派手に見出しが踊っていた。

 霧沢はとりあえずさらさらと一読し、その犯行が複雑そうで、「うーん」と唸り声を上げてしまった。

 その内容とは、およそ次のように書かれてあったのだ。


 老舗料亭・京藍の女将、花木桜子(五十八歳)は、京都が紅葉で賑わう季節も過ぎ、保養のためか画廊経営の滝川光樹と熱海への温泉旅行をする予定だった。

 しかし、光樹は仕事との折り合いが付かず、同伴できなかった。

 それでも桜子は、折角取った予約のためか、骨休めにと一人出掛けた。


 京都からは最近隠れた人気のある新幹線こだま号。

 それはいつも空いていて、乗り換えなしでゆっくりとした旅が楽しめる。

 桜子は、京都駅・午後二時〇五分発のこだま六六二号に乗車した。

 名古屋駅(午後二時五八分発)を過ぎ、そして次駅の三河安城駅に到着し、時間通り(午後三時十一分)に発車した。

 そして、次の豊橋駅(午後三時二七分着)の手前辺りでその遺体が発見された。


 その殺害場所は、遺体がカーテンの閉められたグリーン車の化粧ブース内にあったことから、そのブース内での犯行か、もしくはその周辺と思われる。

 そして死亡推定時刻は、名古屋駅から豊橋駅までの間と推察される。

 さらに三河安城駅で、その車輌に数人の乗降はあったが、その犯行の目撃や遺体の発見がなかったため、三河安城駅後の三時十一分から豊橋駅着の三時二七分の時間帯の可能性が高い。


 また死因については未だ確定していない。

 しかし、致命傷には至っていないが、後ろから鈍器で殴打された形跡があり、一旦気を失った模様。

 他に、その化粧ブース内には、西洋で安楽死に使用される塩化カリウム、その薬品の入った注射器が落ちていた。

 また首には、絞殺しようとした痕跡も見られた。


 不確定ではあるが、捜査当局は犯人が桜子に塩化カリウムを静脈注射し殺害した。

 その確度が高いと見ている。

 しかし、現在捜査当局は犯人を必死に追っているが、未だ捕まっていない。

 また一方で、知人や関係者への事情聴取が順次執り行われ始めた。


 新聞はこのような内容で、センセーショナルに報じていた。

 そして、そこに書かれてあった通り、一週間後に古い友人として霧沢とルリにも警察から呼び出しが掛かった。


 霧沢には確固たるアリバイがあった。

 また当然ルリにもアリバイがあった。

 しかし、ルリの場合、それは偶然のことなのだろうか、ルリはその時間帯に友人でもあり光樹の妻でもある沙那と、桜子が乗るこだまとは反対方向に走る下りのこだまに乗車していた。

 それは最近流行りの宿泊ホテル付きこだま往復旅行パッケージ。これで二人は、東京で開催された高校の同窓会に前夜出席していたのだ。

 そしてその翌日、東京からゆっくりと二人で京都へ帰ってきた。時間帯として、事件はその途中で起こった。


 ルリと沙那が乗った新幹線は、東京駅・十二時五六分発の新大阪行きこだま六五七号。京都駅には午後四時三八分に到着する。

 桜子はこれとは反対に熱海へと、上りのこだまに乗っていた。

 そして名古屋駅を過ぎ、一駅先の三河安城駅近辺から次の豊橋駅までの間で殺害されたと言う。そして豊橋駅到着前に発見された。

 この事件が起こった時間帯、ルリと沙那は一体どの辺りを走っていたのだろうか。

 時刻表から確認すると、三河安城駅より東、つまり東京寄りの浜松辺りを西へと向かって走るこだま内にいたことになる。


 また警察のアリバイの裏取りで、二人が東京駅の十九番線ホームのキヨスクで買い物をした。そして、そこから六五七号のこだまに乗車した。そんなことをキヨスクの店員がよく憶えていたのか、そう証言した。

 それに加えて車掌や車内販売員によって、東京駅を出てすぐに、また名古屋駅辺りで指定された座席に座っていたことが確認された。さらにルリも沙那も、二人とも互いに同席していたことを申し述べた。

 このようにして、ルリと沙那をも含めて、すべての知人や関係者のアリバイは成立し、『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』は藪の中へと入って行った。


 その後、通り魔事件としての観点からも捜査されたが、その解決は難航している。

 犯人が捕まらないまま、あっと言う間に二週間が過ぎ去ってしまった。街の商店街ではクリスマスを前に、ジングルベルのメロディーが賑やかに鳴り響き始めていた。

 そんな頃のことだった。

 滝川光樹と沙那の夫婦が観光の時期外れではあったが、多分鮮魚や蟹を買い求めてのことだったのだろう。日本海に面する若狭へとドライブに出掛けた。


 二人が車で駆けた道、それは周山しゅうざん街道。御室おむろ仁和寺にんなじから紅葉の名所・高山寺こうざんじの前を通る。

 そして難所・栗尾峠を越え、さらに美山の茅葺かやぶきの里の辺りを抜け、若狭小浜おばまへと通じる。

 かって明智光秀は、信長に丹波、丹後の平定を命ぜられ、何度となくこの山間街道を通った。

 そんな周山街道、ついこの間まで山々は燃えるように紅や黄に色付いていた。

 しかし今は枯葉散り、灰褐色にくすんでいる。その上に光樹と沙那が出掛けた日は、冬の到来か平地でも運悪く初雪が舞っていた。


 高山寺を越え、一旦は山里へと下るが、その後さらに奥へと山道が続く。光樹と沙那はその道の先へと車を走らせ、待ち構える難所・栗尾峠へとエンジンを噴かせて上って行った。

 するとそこは落葉後の山のくすみは消え、真っ白な銀世界が現出していた。そんな峠越えの道で、車は大きくスリップをしてしまったのだろうか、光樹が運転する車は深い谷底へと落ちて行った。そして二人は帰らぬ人となってしまったのだ。


 つい二週間ほど前のことだった。学生時代から知る桜子は、熱海へと向かうこだまの車輌内で殺害された。

 そして今回続け様に起こった光樹と沙那の事故は、報道によれば、『画廊経営夫妻の周山街道・自動車落下事故』と呼ばれている。

 冬の暗い空から、煌びやかな結晶、その冷たく白い六花が舞う山で、光樹と沙那は谷底へと吸い込まれるように落ちて行ってしまった。そして二人は息を引き取ったと言う。


 これは一体どういうことなのだろうか? 

 まさに不幸の連鎖が起こったのだ。

 霧沢とルリはこの知らせを受け、身の毛がよだった。


 約三十八年前、キャンパスは学生運動で揺れていた。だが未来に夢を抱き、ただひたすらに生きようとしていた仲間たち。

 六十歳を前にした霧沢、その前からみんな消えていってしまったのだ。


 霧沢の友人たちの中で、一体何が起こってしまったのだろうか?

 結婚する前のルリは霧沢に、いつも「なぜなの?」と訊いた。そして今、霧沢は自分自身に一人呟くのだった。

「なぜなんだろう?」と。


 そして、霧沢には『画廊経営夫妻の周山街道・自動車落下事故』に対しても一杯疑問が吹き出してくる。

 なぜ二人は、突然逝ってしまったのだろうか?

 それは本当に事故だったのだろうか?

 ひょっとして、心中だったのではなかろうか?

 しかし警察は、光樹が朝の出掛けに商談のアポイントメントを客に取り付けようと電話していたこと。また事故前に、沙那が息子に夜の七時には帰るというメールを入れていたこと。

 さらに遺書はなく、また雪道で判別は難しかったが、ブレーキ痕が発見されたこと。

 これらの事実で、光樹のハンドル操作ミスと警察は判定し、雪の山道での自動車事故だと発表した。


 だが、霧沢は本当にそうなのだろうかと疑ったし、またこんなことにまで至ってしまった根本の原因がわからない。

 学生運動で荒れていたキャンパスに、宙蔵と光樹と亜久斗、そして桜子とルリがいた。この五人は美術サークルに所属し、青き青春を共に過ごした。

 そして、それを取り巻くように、洋子と沙那がいた。

 この霧沢を含めて七人の仲間たち、霧沢が三十歳の時に、宙蔵と洋子は黄泉の国へと旅立ってしまった。

 そして今回は桜子、さらに光樹と沙那の三人が続けて帰らぬ人となってしまった。


 二十歳前に、互いに縁あって知り合った友人たち。みんな若くて、キラキラと輝いていた。

 その五人がもうこの世にはいない。今はルリと二人切りになってしまった。

 これが霧沢亜久斗にとってのデスティニーだったのだろうか。それとも霧沢に絡む儚き縁とも呼ぶべきものだったのだろうか。霧沢にはわからない。

「なぜなんだろう?」

 しかし、霧沢はどうすることもできなかった。

 ただ時が流れるままに任せるしかなかったのだ。



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