第22話 しきたり

「あら…そこは新右衛門しんえもんじゃない?」

 おケイはココアに乗ったホイップクリームを匙で掬いながら「蜷川様は初恋の人なの」と言った。

「漆黒の毛並みだったんだ。だから黒右衛門が良いかと…」

 月明かりに照らされた魔物は、雄々しく悠然としていた。

「何故現れたの?」

「俺が呼んだ。御神木のてっぺんに魔物の気配を感じたんだ」

「凄い!野生の力ね」

 おケイは目を輝かせる。彼は爽やかな白いTシャツに革紐の首飾りをしている。先端には木製の勾玉のような物がついている。



「良いことばかりじゃないさ。優子さんが欲しいと思った。もしも彼女が兎だったら、牙を立てていたかも知れない」

 かろうじて理性を保った。気を付けなければいけない。

「それでクロティは何て?」

 黒右衛門だから、クロティ。分け隔てなく愛称で呼ぶ、彼の軽さが羨ましい。

「噛み殺してほしいと」

「親父さんが言った通りね」

「うん。俺はまだ噛みついたことがない。きっと苦しめてしまうから、もう少し待ってくれと返事したよ」

 苦し紛れに言ったが、魔物は納得した様子だった。

「もしクロティが死ねば、二人はしきたりから解放されるのかしら?」

「さあ。あの神の事だから、新しい標的をさがして魔物に仕立てあげるかも」

 きっとそうに違いない。こう言っちゃ何だがあの神は少々イカれている。

「諸悪の根源は六百年前の戦よね?あたし、クロティはもう充分に罪を償っていると思うわ」



 夕方道具屋へ戻ると、優子さんは棚の埃を掃除していた。少し髪が伸びて、仕事中は後ろで束ねている。後れ毛が色っぽくて良い感じだ。

「お帰りなさい。竹下さんはお変わりなかった?」

 目の周りが仄かに赤い。泣いたのだろうか?

「うん。おやっさんは?」

「ちょっと喧嘩して…二階にいるわ」

 俯いてモゴモゴと言う。彼女がこういう態度の時は何かある。

「喧嘩のわけは?」

「父が…木村さんと結婚しなさいって言うもんだから」



「え…」

 驚いてお土産に買った珈琲豆を落とす。

「大丈夫よ。ちゃんとお断りしたわ」

 彼女は珈琲豆の袋を拾うと、堰を切ったように話し始めた。

「父は兎家の血を絶やしてはいけないと考えている。だから焦っているの。でも私たちは神の道具じゃないわ。尊厳を失ってまで先祖の呪縛に囚われる必要はないと思う。たとえずっと独りでいたとしても私の自由でしょう?」

 彼女はしゃがんでボルトとナットを手に取り、くるくると嵌める。玩具で遊んでいた彼女を思い出す。

「きっとこれみたいに、ぴたっと嵌まる瞬間があるわ。悪しき慣習は断つべきよ」

 俺はそこまで聞くと、彼女の口を手で塞いだ。

「わかったから、それ以上は言うな。は神社に近すぎるよ」

 動悸が彼女に聞こえないように、平静を装うので精一杯だった。







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