第12話 彼女の事情

 クラゲの触手がゆらゆらと揺れている。

「その日は満月でしたが彼の誕生日で、私はこっそりと家を抜け出しました」

 その横顔に似つかわしくない言葉に戸惑う。

「夜景の綺麗な横浜のホテルに泊まって、目覚めたら…彼はいなくなっていました」


 隣の部屋ではゴマフアザラシが水中ショーの最中だ。幼い子供達が拍手をしている。彼女が母親を失ったのはあれ位の歳の頃だろうか。

「彼は君の姿を見てしまった…」

 彼女は頷く。

「ホテルのメモ用紙には『別れよう』とだけ書かれていました」

 それはどれ程の驚きだったろう。俺に彼氏を責めることは出来ない。

「私には訳が分かりませんでした。自分が眠ると兎になるなんて知らなかったから…彼とは連絡がとれなくなり、それきりです」

 彼女が男性に距離を置いているのはそのせいか。突然の別れは自分にも経験がある。俺の場合は愛した女のアッシー君だった。要するに二股だ。あれ以来厚化粧の女は魔性だと思うようになった。



 ひときわ大きな歓声があがる。ゴマちゃんが輪っかをキャッチしたようだ。

「だから、木村さんにも知られたら嫌われると思って…」

 彼女は下を向いてもごもごと言った。俺は彼女の頭をポンポンと撫でた。

「ないない。おやっさんも君もかっこいいよ。兎の君はとても癒される色合いだった。わら半紙みたいな素朴な色だ」

 精一杯褒めるが、何しろ人生で一度も兎を誉めたことがない。例えがおかしくなる。

「何ですか?わら半紙って」

 おっと。ラッキーな事に通じなかった。俺は苦笑する。

「学校でお馴染みの消しゴムですぐ敗れる紙だよ。紫外線に弱くてすぐ薄茶色になるんだ」

「うーん。生成りの紙は使ってましたけど、そんなにすぐには破れなかったかなあ。今度教えてくださいね」

 彼女は笑ってまた俺の袖を引く。


 ペンギンの水槽の前は、子連れで混雑していた。俺たちは一番端の隙間に潜り込んだが、そこからは人工の岩が邪魔してペンギンが見えなかった。

「私も魔物に食べられるのかなあ」

 彼女が呟く。俺はかぶりを振って彼女の両肩を掴んだ。

「大丈夫俺がちゃんとする」

「ちゃんと?」

 彼女は上目遣いでこちらを見る。顔が近い。

「穴があれば顔を突っ込んで隅々まで見るし、大きな木の上にもよじ登る。それに変な輩が入らないようにバリヤーを張るよ」

 言いながら彼女の手を引っ張って人混みを抜ける。通路は緩やかなスロープになっていて、丸い窓から深海の生き物が見える。

「何ですかそれ。ほんと木村さんて可笑しな人」

 笑いながら彼女はくるりと回った。ワンピースの裾がふわりと広がって膝頭が見える。

「それなら、満月の夜は木村さんの帰りを待ってから寝ますから、朝まで一緒にいてくださいね」






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