第29話 月の兎

 森の木々が斑に色付いて、橙や黄色の葉っぱが秋風に揺れている。今日は年に一度の狼兎神社の祭神事である。


 道具屋稼業のほうは、大体のことが一人で出来るようになった。最近では近隣のホームセンターの価格調査や、新規顧客の獲得にも力を入れている。再来月にはネット販売に着手する予定もある。

 神社のほうは未だ見習いである。今宵も俺は縁者達から少し離れた鳥居にもたれて、巫女の舞いを見つめる。

 初めて彼女を見た日が懐かしく蘇る。千早ちはやの緑兎の刺繍が、去年とは違って趣深く感じられる。


 遥か昔インドから伝わった仏話に、月の兎が登場する。

 空腹のお坊様にあげる食べ物のない兎が、自分を食べてもらおうと火の中に飛び込む話だ。ところがお坊様のおこした火は熱くなかった。実はお坊様は神様の仮の姿で、動物達を試していたのだ。

 神様は兎の徳が後世に語り継がれるよう、月に兎を描いた。


 静寂の森に琴の音が鳴り響く。優雅に舞う兎家の巫女は、やはりいつもとは別人に見える。神楽鈴の音に感極まって、涙が出そうになるのをぐっとこらえる。

 見上げると月が眩いばかりに輝いている。昔の日本人は望月を眺めながら兎に何を思ったのだろうか。



 滞りなく神事が終わると、次は俺の出番だ。

「夜回りに行ってくるよ」

 あの夢の後、神と魔物の声は聞かなくなったが、夜回りは続けている。

 あの時、黒右衛門が『怯えなくて良い』と言ってくれたように、彼もまた人間を殺めなくても良いように最善を尽くそうと優子さんと話した。


 俺はズボンのポケットからナットを取り出す。

「優子さん」

 しわくちゃのTシャツとジーンズに着替えた彼女がこちらを向く。

「ごめん、来年のみどりマラソンまで待てなくなった」

 彼女の華奢な手首を取り、それを掌に載せる。

「なあに?これ」

「俺の気持ち。もしぴたっと嵌まりそうだったら、君の指に嵌めてくれるかい?」

 彼女は首をかしげ、自分の掌をまじまじと見つめている。

「うちのバラ売りのナット?」

 うん。下から二段目の一番右……じゃない。

「つまり、その…つ…付き合ってほしぃんだ」

 途端に恥ずかしくなって、しどろもどろになる。変な脇汗が出て、顔と耳が焼けるように熱い。

「……え?」

 彼女は困惑している様子だ。

「とと…とにかく夜回りに行ってくるよ」

 狼狽えてなぜか敬礼して、そそくさと御神木の樹洞へ向かう。

 その日の夜回りは戻る勇気が持てなくて、森の隅々までくまなく回った。



 深夜になって戻ると、優子さんが樹洞の前に立っている。鼓動が速くなり、そっと背後から近付く。

 彼女は…御神木に話しかけていた。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る