第26話 木村、優子さんを襲う
「木村さん!死なないで」
目を覚ますと、背中の痛みが襲った。俺は…まだ狼のままだった。
傷口を手で塞いでくれている。自分の血の匂いと、彼女の汗の匂いが交じってくらくらする。
「優子さ…」
名を呼ぶと彼女は安堵した様子で微笑んだ。艶やかな唇が「木村さん」と聞こえない音を紡ぐ。
途端に彼女を襲いたい衝動に駆られ、がばっと起き上がる。前足で彼女の胸辺りに飛び付き、そのまま押し倒して組伏せる。
「駄目。早く止血しないと…人間に戻って!」
瞳と唇を豪快に舐めてから、首筋を舐め回す。唾液が迸り、彼女の白い肌にまとわりついて怪しく光る。乱れた髪の隙間から美味しそうな耳が見える。
「木村…さ…ん、ハウスッ」
彼女が声を絞り出す。
「ハッ…フッ」
自分の呼吸がやけに明瞭に聞こえる。俺は興奮しているのか、それとも命が危ないのか…背中の痛みはもう麻痺していてわからなかった。
仄かに紅い頬から耳へと舌を這わせ、柔らかな二の腕を甘噛みする。
「ハウス!穴に戻れ」
毅然と命令されて、ようやく理解する。それは犬を小屋に戻す時に使う合言葉ではないか。
極上の躰は涙の味か汗の味か、随分としょっぱく感じた。我に返った俺は、逃げるように樹洞へ向かった。
自分で包帯を無茶苦茶に巻いて、彼女の運転で診療所へ赴いた。ハンドルを握る手は震えていて、まだところどころ赤く汚れている。
目を合わせる勇気はなかった。俺は傷に感謝すらしてうずくまり、無言を決め込んだ。
「木村くん、縫うから局所麻酔するよ」
「う…」
注射針の痛みに悶えながら、同じく麻酔を打ち込まれた魔物に思いを馳せる。
彼の願いを叶えてやれたのだろうか?
そのまま息を引き取ったなら、おやっさんから連絡がくるはずだ。そこに亡骸がないのであれば神が隠したか、或いは失敗してどこかで苦しんでいるかのどちらかだろう。確かめなくてはならない。
「あと数分遅かったら危なかったよ」
佐久間先生はそう言うと、三日間の安静命令を出した。俺は魔物の生死を確認出来ないまま、診療所に泊まり込んだ。
「また明日来るね」
優子さんが笑う。俺は罰が悪いまま彼女を帰すことが出来ず、意を決して謝った。
「その…ごめん。舐め回して…」
下を向いてぼそぼそと言う。卑怯だ、自分でも器の小さい男だと思う。
だが彼女はあっけらかんとして言った。
「狼の唾液はPH値が高いのかしら?お肌がツルツルなの。定期的にお願いしようかしら?」
女神だ…と思った。その晩黒右衛門の夢を見た。
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