第四話 おサル戦線異状なし(6)
拾翠亭を出て、京都御苑を歩く。すでにあたりは暗く、通行人の姿はない。
「京都御苑、もしかしてすごく広い……?」
桃花の独り言めいた疑問に、晴明が「街だからな」と答えた。四匹の猿たちが、「街でござる」「さようでござる」と口々に言う。
「街?」
「かつて
桃花たちの行く手には、闇に浮かび上がる白壁がある。御所を囲む瓦屋根付きの壁だ。長方形の京都御苑の中に、同じく長方形の敷地を持つ京都御所──かつての帝の御座所があることになる。
「この白壁の北東角が、猿ヶ辻でござる」
猿ヶ辻清麻呂が御幣を振る。
「あれ、ここ、角になってない。へこんでる?」
角になっているはずの場所が、
「北東は縁起の悪い鬼門ぞな。こうして角を切り欠いて、北東角の存在をなかったことにするメソッドぞな」
塀の瓦屋根に飛び乗って、猿ヶ辻清麻呂が説明する。何やらへりくつっぽい気もするが、こんなに元気な猿が住み着くのだから意味のあるまじないなのだろうなと桃花は思った。
「桃花。今日言っていた動物の式神だが、着想は悪くないぞ。キリンやライオンは要らんがな」
晴明がまた白い紙片を取り出した。何も書かれていないそれに、指先をすべらせる。
「ここに『犬』と書く」
文字を書き終えた紙片を宙に放つ。
風にひらめきながら地面に落ちる直前、紙片は白い一匹の子犬になった。首には首輪とリードまでついている。
「わ、わんちゃん……」
思わず桃花がしゃがみ込んで呼ぶと、子犬は「わん」と一声鳴いて
猿たちが「犬ぞな」「犬じゃ」とざわめいた。赤山禅右衛門が「居ぬはずの犬じゃ」と駄洒落を言って、出雲路猿田彦に背中をたたかれている。
そんな猿たちの騒ぎを、子犬は尻尾を振って嬉しそうに眺めている。
「晴明さんっ」
桃花は子犬の頭を撫で回しながら晴明を見上げた。
「なんだ桃花」
「この子うちで飼っていいですか? お父さんとお母さんはがんばって説得しますからっ」
「落ち着け。これは式神だ」
砂利に落ちたままだったリードを晴明は拾い上げ、桃花に手渡した。
「この子犬は、桃色の猿たちの匂いを追っていく。桃花は飼い主の振りをするように」
「自分で持たないんですか? わたしに任せちゃっても大丈夫ですか?」
「こういう格好で犬の散歩をさせていたらおかしいだろう」
晴明はスーツの襟を軽くつまんでみせた。
「すごいっ、晴明さん。現世の雰囲気、分かってきてるじゃないですかっ!」
「早く行きなさい」
眉間に皺を寄せて晴明が言い、桃花は子犬と一緒に駆けだした。
──せっかく褒めたのにな。
背後から猿たちの「がんばれ」「はげみなされ」という声援が聞こえ、桃花はリードを持っていない方の手を軽く上げた。
*
御所の北側の住宅地を、子犬は走る。高い塀に囲まれた防犯カメラ付きの屋敷もあれば、古い木造家屋もある。小さな地蔵堂に花が供えられている。店じまいした茶道具店の入り口に、祇園祭で配られる
京都らしさをそこかしこに漂わせる暗く静かな住宅街を、子犬は嬉しげに
「待って、ゆっくり、ゆっくりね」
言い聞かせながら早足で歩くうちに、晴明がついてきているのに気づいた。
「あれ、途中で追いついたんですか?」
「ああ、たった今な」
「途中っていえば、わたし問題集の答え合わせも済んでないんですけど」
「済まん。何か考えておく」
──め、珍しい。晴明さんが謝ってる。
動揺のあまり、桃花は夜の住宅街に視線をさまよわせてしまう。
「見つけたようだな」
「え」
言われてみれば、子犬の進む勢いがゆっくりになってきている。
「わん」
ごくありふれた一軒家の前で子犬は止まり、一声だけ鳴いた。
「お猿さんがいるようには見えないけど」
街灯に照らされた瓦屋根や、コンクリート造りの塀を観察する。次に窓を見た時、桃花はわずかな既視感を覚えた。
カーテンが少しだけ開いて、室内が見える。窓辺に吊した紐に、四つの身代わり猿がついている。色はどれも桃色だ。
「道に迷ってた人がバッグに付けてたのは、赤と白だったんですけど……桃色のもあるんですね」
「違う。あれは奈良町の身代わり猿が日光にさらされて桃色になっただけだ。よく見ると色に少しむらがある」
「あ、ほんとですね。色が
桃花は座りこんで、子犬をなでてやった。標的を見つけたご褒美のつもりだ。なでているとハッハッ、という本物の犬そっくりの声がして、怖がるよりも抱きしめてやりたくなる。
「身代わり猿を軒先に飾ってる奈良町から、京都に引っ越してきた……ってことで、合ってますよね?」
「本人たちに聞けばいい」
晴明は子犬に手を伸ばし、両手で抱き上げた。さかんに尻尾を振る子犬を、目の高さに持ち上げる。晴明が見ているのは、色褪せた四匹の身代わり猿であった。
「この通り、お前たちの居場所は犬がかぎつけた。猿ヶ辻の猿は気にかけているぞ。迷惑をかけたと思うなら、出てこい」
身代わり猿を吊す紐がわずかに揺れる。まるで、了解したという返事のように。
「あーっ、ちっちゃいわんちゃーん!」
甲高い子どもの声に、晴明も桃花も振り返る。若い両親に連れられた幼い女の子が、子犬を指さして幸せそうに顔をほころばせている。
「こら、大きい声、めっ」
母親が小声で注意し、父親が「すみません」とこちらに
幼い女の子は、声を小さくして「わたしになでさせてくださーい」と桃花と晴明に手を振った。
「あの、良かったらなでちゃってください。ね、いいよねお兄ちゃん」
お兄ちゃんと呼ばれて晴明の頰がピクリと引きつったが、それは一瞬だけだった。
父親に抱き上げられた女の子に、「口に触らないように」と言って子犬を差し出す。ただし、いつもの憂鬱な表情で。
「すみません、うちのお兄ちゃん無愛想で」
桃花が小声で詫びると、母親が「とんでもないです、こちらこそすみません」と微笑んだ。幼い女の子は、「かわいいねー、かわいいねー」と言いながら、晴明の抱いた子犬をなでている。自分がされてきたことをそのまま子犬にしてやっているのだと桃花は思い、胸があたたかくなった。
「ほら、もう、おにいちゃんおねえちゃんにありがとうしなさい」
父親が、女の子の体をゆすって諭す。
「わんちゃん、おにいちゃん、おねえちゃん、ありがと!」
四度目の「お兄ちゃん」に、晴明は薄い笑みで応えた。
──てっきり機嫌悪くなると思ったのに。
晴明の秘密を一つ知ったような気分で、桃花は歩き去っていく親子に手を振った。
「さっそく来たな」
親子が角を曲がってから、晴明が言った。
「え?」
晴明の視線にしたがって、桃花は家の方を振り返る。
塀の上で桃色の小猿たちが身を寄せ合い、こちらをおっかなびっくり観察していた。
【次回更新は、2019年10月10日(木)予定!】
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