第一話 晴明さん、猫を助ける(2)

 琵琶湖の上空から比叡山へ、夕焼け色に染まった雲が渡っていく。

 二月の冷たい夕風は、空だけでなく地上にも容赦なく吹きつけてくる。

 桃花は制服のスカートを押さえた。冬の寒さには強い方だが、ひだの多いスカートは風をはらむと膨らんでしまうから面倒だ。

「桃花ちゃん、高校どこ行くか決めた?」

 隣で同じようにスカートを押さえて歩きながら、親友のが言った。同じ中学三年生だが、童顔だと言われる桃花と違って顔立ちが大人おとなびている。

「ええとね」

 桃花は背後を振り返った。れた田んぼと琵琶湖と住宅地が見えるばかりで、人影はない。前方を確認してみる。こちらも、誰もいない。

 ──今なら、うっかり泣いてしまっても大丈夫。

 言うなら今だ、と桃花は思った。

「あのね、里奈ちゃん。わたし」

「何? 泣きそうな顔しちゃって」

「……お父さんの、仕事の都合でね。高校から京都へ引っ越すの」

 そう打ち明けたとたん、里奈は「だめだよっ」と肩をつかんできた。

「わわっ」

 桃花はよろけながら立ち止まる。

 ──ごめんね里奈ちゃん。小学校から一緒だったから、さびしいよね。わたしもさびしいよ。

 そう思うと、涙がこみ上げてくる。

「京都なんてだめ。心配だよ!」

「里奈ちゃん、京都と大津なら、電車ですぐだよ。土日に会えるよ?」

 桃花は半分自分を励ますつもりでそう言った。しかし、里奈は「心配してるのはそこじゃない」と首を振った。

「あのね桃花ちゃん」

「うん、何?」

「あんたは素直すぎる。外見も中身も」

 里奈の人さし指が、びしりと桃花に向けられる。

「まん丸くてでっかい目、ちょっと垂れた眉、そしてぷにぷにのほっぺ」

 里奈は、そう言いながら頰をつまんできた。

「わああ」

「おお、あいかわらずのすべすべもち肌。太ってるわけじゃないのに何なのこの柔らかさ」

「やめてよー」

「とにかく」

 里奈の指が離れ、二人は再び歩きだす。

「あんたはもう見るからに、だましやすそうなベビーフェイスなのよ」

「ベビーって。そりゃ、里奈ちゃんみたいに大人っぽくないけど」

「桃花ちゃんが京都人に悪さをされないか、私はとても心配」

「心配って、そっち?」

「何だと思ったのよ」

 仮定とはいえ悪い予想を口に出したくなくて、桃花は一瞬戸惑った。

「会えなくなって、友だちじゃなくなったらどうしよう、って心配じゃないの?」

「何それ。その時はその時」

 きっぱりと里奈は言った。基本的にあり得ない、と言いたげな口調で。

「京都人ってさ、いけずなんだよ。よく言ってるじゃない。テレビとかネットとかで」

「まあ、聞いたことぐらいはあるけどー……」

 桃花も里奈も、京都に知り合いはいない。二人の住む滋賀県大津市と京都市街の間には、山が壁のように連なっている。直線距離ならほんの数キロだが、ある意味別世界だ。

「桃花ちゃん。滋賀県生まれだからって京都人にいけずされないように、気をつけて」

「あ、ありがと。でもさ里奈ちゃん。京都の人ってそんな、悪い人たちじゃないと思うよ? 夏休みに遊びに行った時だって、親切だったでしょ? お土産みやげさんとか、バスの運転手さんとか」

 桃花は比叡山を見上げながら言った。山頂から西側は、もう京都市だ。

「さあ、どうかなあ。お金を落としていってくれる観光客にだけ、親切なのかもよ?」

「り、里奈ちゃん……。辛辣……」

 小説で読んだ「辛辣」という言葉を、桃花は初めて使った。相手が読書好きの里奈なら、安心して難しい言葉を使える。

「辛辣じゃないよ、雑誌に載ってたもん。お呼ばれに行って長居すると、『ぶぶ漬けでもどうどすか?』って言われて、真に受けて『はい』ってごちそうになったら、『ずうずうしい』って笑われるの」

「ああ……」

 里奈が言っているのは、都市伝説のようなものだ。

 ぶぶ漬けは、京都の言葉でお茶漬けのことだ。「お茶漬けでも食べていきませんか」と口では言っても、裏の意味は「そろそろ帰ってください」。言われた方は長居したのを察して帰るのが正解らしい。

 赤信号で立ち止まると、里奈は二の腕をつついてきた。

「桃花ちゃん、『ぶぶ漬けどうどすか?』って聞かれたら、ちゃんと帰るんだよ?」

「うん」

「いけずされたら、私に言いなさいよ? やっつけてやるから」

「そんなに、里奈ちゃんに迷惑かけられないよ」

「いいって。京都人が桃花ちゃんをいじめたら、京都に流れてる琵琶湖の水を止めてやるから」

 里奈は、顔をくしゃくしゃにして笑った。その目尻に涙が浮かんでいるのに気づいて、桃花はハンカチで拭いてやる。

 近くの家の石塀から、早咲きの白梅が枝を伸ばしている。吹きつける夕風の中で、けなげに花を咲かせている。

 梅が散り、桜が咲く頃にはもう自分は山の向こうにいるのだと思うと、桃花は少しだけ心細くなってくるのだった。



 襖が再び開く音で、桃花は追憶から覚めた。

 和菓子屋の名前が入った紙袋を手に、晴明が板の間を歩いて戻ってくる。

「粒あんは好きか」

「甘い物はみんな好きです」

「そうか」

 渡された紙袋には、薄紙で包まれた一口大のまんじゅうがいくつも入っていた。

「ありがとうございます」

「白あんとうぐいすあんもあるが、こしあんはない」

 残念そうな響きを感じ取って、桃花はしくなる。こしあんが好きなのか、それともおすすめなのか。

 ──さっきは冗談を言われただけなのに、いけずかと思っちゃった。ごめんなさい晴明さん。

 気がつけば自分も心の中で「晴明さん」と呼んでしまっているのは、この青年にどこか面白みを感じているからかもしれない。

「天文の研究もなさってるんですか?」

 大きな望遠鏡を見ながら桃花が言うと、晴明は「いや」と否定した。

「大きな望遠鏡があるから、てっきり……」

「専門はこっちだ」

 晴明が棚の引き出しを開いた。

 目の前に広げられたのは、何十羽ものからすが描かれた紙だった。

「何ですかこれ?」

くま神社のおうほういん

「ごおうほういん?」

「昔からある護符だ。他にこういう、土を焼いた人形もある」

 次に出てきたのは、白い馬に乗った狐の人形だった。狐は袖のたっぷりしたころもをまとい、すまし顔をしている。

「可愛い。これは?」

ふし人形だ。江戸時代の子どものがんで、子どもの成長を願う心が込められている」

 晴明は、伏見人形を手に載せてくれた。子ども向けなのもうなずける軽さだ。

「こういうのを研究されてるんですねー」

 桃花の言葉になぜか晴明は答えず、

「晴明神社で私に会ったそうだが」

 と聞いてきた。

「あっ、それは、よく似た人ですよ絶対。わたしが赤ちゃんの頃って、十五年前ですもん。その人はもう、四十過ぎくらいのはずですよ」

「あの時、水色のリボンがついた白い帽子をかぶっていなかったか?」

「え、帽子? ……あっ」

 桃花は、以前両親に見せてもらった古い家族写真を思い出した。水色のリボンがついた、白い帽子だ。両親の話では、赤ん坊だった自分はそれをとても気に入っていたという。

「泣きやんだ後、私がリボンを褒めたのを覚えているか? 『よく似合う』と」

 知らないはずの情景が、脳裏に浮かぶ。

 目の前にかざされた大きな手、琥珀色の瞳、唇にたたえられた微笑。

「よく、分かりません……。今、ぼやっと、思い出したような、空想しただけのような……」

「そうか」

 晴明の声は少しだけ残念そうで、こんなおかしな状況なのに桃花は申し訳ない気持ちになる。

「……でも、どうしてわたしがかぶってた帽子を知ってるんですか? あなたは、いったい」

「陰陽師、安倍晴明。あの親子にまた会うとは思わなかったな」

「……そんなに真面目な顔で、陰陽師だなんて映画みたいなこと言われても……」

 父親である良介は冗談を言う時必ず笑顔になるが、この青年は真顔でとんでもない冗談を言う癖があるらしい。どう言葉を継いだものかと戸惑っていると、ミオを呼ぶ両親の声が聞こえてきた。

「ミオーッ。帰ってこーい」

「ミオーッ」

 ──何、何があったの? 帰ってこいってことは、逃げちゃったの?

「家の戸締まり、したっけ……? お父さんが居間の窓を閉めるところを、見ただけだった……お父さんに任せっきりで」

 気がつくと、独り言が口をついて出ていた。晴明が一方の眉を神経質そうに上げる。

「ミオとは、家の猫か」

「はい……心配だから、帰ります! 失礼します!」

 帽子の件はまだただしていないが、ミオのことを考えればそれどころではない。水色のリボンがついたベビー向けの帽子など、ありふれている。適当に言った冗談がたまたま当たっていただけに違いない。

 桃花は玄関を出て庭をまっすぐ駆け抜け、門の格子戸を開けるのももどかしく道路へ出てすぐ右に折れ、自宅の門を通って前庭に入った。両親の声は建物の向こう、つまり裏庭から聞こえてくる。

「ミオがどうしたの!」

 家の脇を駆け抜け、裏庭へ出た。帰ってこいということは、まさか。

「お父さん、お母さん」

「桃花……」

 父親が申し訳なさそうな顔で振り向いた。母親は大きな声でミオを呼び続けている。

「すまん、桃花。台所の窓から出たみたいだ」

 裏庭からは、台所の窓が見える。高い位置にあるそれは、十センチほど開いていた。

「お父さん、あそこ開けっ放しにしてたの?」

「すまん。ミオはもう大きいから狭い場所は通れないと思って、五センチくらい開けて空気の入れ換えを……」

「お父さん……ミオは賢いから、前足で押して開けちゃったんじゃない?」

「うっ、そうか」

 母親がきつい表情で振り返る。

「今はとにかく、呼びながら探しや! 桃花は敷地の外! 良介さんはキャットフード開けて、お皿何枚かに分けて持ってきて」

「わ、分かった。おびき寄せるんだな」

 父親が台所へ駆け込んでいく。

 桃花も、はじかれるように前庭へ出た。

 ──まだそんなに遠くへ行ってないはず。まわりをよく見なきゃ。

「逃げたのか、猫が」

「えっ」

 不意に声をかけられて、桃花は後ろを振り返った。低い生け垣の向こうに、晴明が立っている。

「どんな猫だ」

「三毛猫でしっぽは長くて、目は茶色です! 見ませんでしたかっ?」

「見ていないが、一緒に探そう」

「えっ」

 ありがたい申し出に、桃花は思わず晴明の目を直視した。髪と同じ、琥珀色の目が陰鬱そうにこちらを見返している。

「陰陽師だと言ったろう」

 淡々としている晴明の後ろで、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開く。出てきたのは、十歳ほどの少年だ。まるでどこかの私立小学校の制服のような、白いシャツとベージュのスラックスを身に着けている。

 ──他にも人がいたの? 全然物音がしなかったけど。

「親戚の子ですか?」

 桃花が聞くと、晴明は答えずに少年を振り向いた。

「猫を呼べ。名前はミオ」

 簡潔な指示に少年はうなずくと、すぐに「ミオー!」と声を上げて呼んだ。

 裏庭の方から、両親の「えっ」という声がする。予期せぬすけに驚いたのだろう。

「写真があると助かるが」

 晴明に言われ、桃花は居間へと駆けこんだ。荷解き途中の段ボール箱から四角い写真立てをつかみ出して戻ってくると、「早いな」と感心する晴明に見せた。

「これ、ミオです」

「ああ」

 晴明の手には、なぜか筆と和紙があった。

「猫の生まれた日は分かるか?」

「一年前の四月十日です。ミオをもらったおうちから聞きました」

 答えた後で、これって聞く必要あるのかな、と気づく。晴明は筆で和紙に何か書きつけている。

「そうか、この家は里親か。生まれた場所は?」

「滋賀県大津市の、からさきです」

「よく食べていたものは?」

とりのささみです」

 答えながら桃花はだんだん不安になってきた。急いでミオを探したいのに、なぜそんなことを聞いてくるのだろう。

「今更だが、君の名前は」

「桃花です」

「よし」

 晴明が和紙をたたんだ時、良介が前庭へ出てきた。

「あ、お父さん。あの子がわけを聞いて、呼んでくれてるの」

 桃花が男の子を指さす。

 澄んだ声で「ミオー」と呼び続ける男の子を見て、良介は晴明に「すみません」と頭を下げた。

「引っ越して早々、お騒がせして……」

「大変!」

 良介の言葉を、葉子の悲鳴がさえぎった。青い顔をして、早足で歩いてくる。

「どうしたの、お母さん!」

「足ふらついてるぞ、葉子さん」

 良介が心配げに走り寄り、葉子はすがるようにその手を取った。

「今さっき、ミオを呼んでたら、ご近所の方に話しかけられたんだけど……」

 葉子は手を頰に当て、首を振る。信じたくない、とでも言うように。

「何て言われたんだ?」

 良介がうながした。

「最近、猫が虐待される事件が、左京区や隣のきた区で続いてるって……この間も、刃物で傷つけられたねこが何匹も保護されたって……」

 足元で砂利が鳴る。

 自分の体が震えていることに桃花は気づいた。

「交番に届けよう。ミオの写真を印刷して、貼り紙も」

 良介が力強い声で葉子に話しかけ、二人は玄関に入っていく。

 置いていかれたような気分になって、桃花は鼻の奥がツンとした。泣きだす直前によく似た感覚だ。

 自分の脚を見る。震えは止まらない。今しも自分の身に刃物が迫っているような強い不安にとらわれて、声も出せない。

らちものがいるようだな」

 そのつぶやきに引き上げられるようにして、桃花は顔を上げた。

 生け垣の向こうで、晴明は怒気をはらんだ目つきをして立っている。その隣では、男の子が無表情にこちらを見守っていた。

「私にできることがあれば、何でも言ってほしい。このあたりの見回りもしておく」

「えっ、あ、ありがとうございます」

 親身な言葉をかけられて、桃花はおろおろしながら礼を言った。晴明の怒った顔は恐ろしいが、これは顔も知らぬ犯人に向けた感情なのだろうか。

「それから、これを。気休めにしかならないが……よければ持って帰って玄関に貼るといい」

 晴明が差しだした和紙を、桃花はいぶかりながら受け取った。

 裏返すと、何か文字が書いてある。

  立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとしきかば 今帰りこむ

「和歌、ですか?」

 百人一首かるたで見かけた覚えがある。「松」の木と「待つ」をかけた歌だ。こんな時だからか、「帰」という字がひどく頼もしく見える。

「昔から用いられている、猫を呼び戻すためのまじないだ。本当に、気休めですまないが」

 晴明は、励ましてくれているらしい。表情にはかげりがあるが、声があたたかい。

 書きつけられた和歌を見つめる。

 現実的に有効な手段は何一つ取っていないのに、なぜか震えが止まっていた。

 まるで、よく効く薬を飲んだかのようだ。

「晴明さん」

 足元の地面を確かめるような思いで、桃花は目の前の青年を呼んだ。

 返事の代わりに、晴明は琥珀色の目で見返してくる。

「まさかとは思いますけど、本当に、陰陽師なんですか……?」

 晴明は黙っている。

「もしかして本当に、昔わたしを泣きやませてくれた人と同じ人なんですか……?」

 陰陽師だから、十五年前からとしを取っていないのか。いや、あまりにも非現実的だ。

「……なんて、そんなわけ、ないですよね。ミオがいなくなって、心配で混乱してるのかも。お父さんとお母さんが昔あなたと似た人に出会ったから、あなたのことを何か不思議な存在だと思いこみたいのかもしれないです」

 晴明は何か言おうとしたようだが、おだやかに目を細めただけだった。

 かすかに笑みを浮かべる晴明の顔に、桃花はつかの間見入った。晴明神社で見た安倍晴明像とは似ても似つかないが、憂いを含んだ眉だけはそっくりな気がする。

 短い沈黙を、桃花は肯定と受け取った。十五年間姿の変わらない人間も、現代の陰陽師も、いるわけがない。

「……ありがとうございます。このお札、きっと効きます」

 桃花はおじぎをして身をひるがえしたが、すぐ足を止めた。

「忘れてた、ザルと缶入りのめんつゆ! お札を玄関に貼ったら、持ってきますね」

「あまり急ぐと転ぶぞ」

 真顔で晴明が言うので、桃花は脱力してしまう。まだ、何者なのか警戒はしてしまうのだけれど。

「そうだ、あなたも、ミオを呼んでくれてありがとう」

 桃花に礼を言われて、男の子は「はい」と返事をした。

 足早に家の玄関へと向かう。早く、捜索のために動かねばならない。




【次回更新は、2019年8月22日(木)予定!】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る