おとなりの晴明さん ~陰陽師は左京区にいる~

第一話 晴明さん、猫を助ける

第一話 晴明さん、猫を助ける(1)

 物心ついた時から、ももは髪を飾るリボンが好きだ。

 中学校の地味な制服に程良くなじんでいた藍色や黒のリボンも、子どもっぽいのでつけなくなったピンクのリボンも、冬のお出かけに大活躍する赤いベルベットのリボンも、一本一本きれいに巻いて大切に箱にしまってある。十歳の誕生日プレゼントに両親からもらった、くるみの木でできたアクセサリーボックスだ。

 指輪やネックレスはまだ早いけれど、桃花の大好きなリボンを大事に取っておけるように、と。


 ありがとう。お父さんもお母さんも大好き。

 そう言ってはしゃぐ十歳の桃花に、両親はなつかしさを隠せない様子だった。

 父親のりようすけは「赤ちゃんの時から、桃花はリボンが好きだったな」とにこにこ寿がおになり、母親のようは「覚えてないやろけど、リボン付きの帽子をえらいこと好きになってしもて、かぶったのを両手で触ってキャアキャア笑ってたんやで」とアルバムを持ってきてくれた。

 写真を見ると、確かにぷくぷくのほっぺをした赤ん坊の自分が、水色のリボンがついた白い帽子をかぶり、つばの部分を両手で握って幸せそうに笑っている。

 ただ、なぜそんなにリボンを好きになったのか、思い出せない。

 生まれ故郷のおお市を離れ、きよう市内に引っ越す今日この日になっても。



 新しい家は、京都市きよう区の東のはずれ。芽吹いたばかりの春の緑がまぶしい、小さな丘のふもとの借家だ。

 家の西側にある、その丘の正式名称は分からない。両親が大家から聞いた話では、丘にある寺院の名前を取って「しんによどう」だとか「くろだにさん」などと呼ばれているらしい。

 この春から通うのは、市内の中心部に近い共学の公立高校だ。自転車で通える距離なのがうれしい。

 ──滋賀県から来た子は、京都の人たちにいけずされる……って、ほんとかな?

 親友からの忠告を思い出して少し心細くなったが、ひとまず忘れておくことにする。

 新居に荷物が運び込まれて引っ越し会社のトラックが引き揚げた後、桃花はまず最初にアクセサリーボックスの無事を確認することにした。

 段ボール箱を開封し、通称プチプチ、気泡入りのこんぽうざいを丁寧に剝ぎ取る。

 六年近く愛用して艶の現れてきた木肌には傷一つなく、蓋もなめらかに開閉できる。もちろん中身のリボンも無事だ。

「よしよし。長旅おつかれさま」

 桃花はアクセサリーボックスを膝に載せ、いたわるようにでた。とんで丸まっている三毛猫のミオが、「みゅーう」と甘えた寝言を漏らす。

 桃花は、(ミオがわいくてたまらない)という顔をした両親と目を合わせて笑った。

「あれー? ミオ、わたしが『よしよし』って言ったから、自分が撫でられてる夢見たの?」

 小さな家族がことさら可愛く思えて、桃花はミオの額の毛をそっとなぞった。

「桃花、高校でも美術部に入るんやんな? 油絵でミオちゃん描いてや」

 葉子が、大きな鍋から梱包材を引きはがしながら言った。家族全員見かけによらずよく食べるのでいと家の鍋類はどれも大きい。

「ミオは毛並みがなめらかだから、パステル画でもいいと思うなあ」

「せやな。油絵の道具は高いし」

「そういえばお母さん、高校の制服、しわにならないようにしてくれた?」

 高校の制服は今時珍しいセーラー服だが、襟が大きめで可愛いので気に入っている。

「大丈夫、大丈夫。引っ越しの業者さんが、私らのスーツと一緒に専用の衣装ケースで運んでくれはったで。奥の部屋のクローゼットにかけてあるよ」

 葉子は包丁に巻きつけていたキッチンペーパーを外し、ためつすがめつしている。

「葉子さん、新手の剣の舞か?」

 良介が、空になった段ボール箱をたたみながら言った。四十代になっておなかが出てきたと最近ぼやいているが、その割に動きはテキパキしている。

「そんなわけないやろ。そろそろ研ぎに出さなあかんと思って」

「こっちにも、いい研ぎ職人さんがいるんじゃないか? 滋賀県にもいたんだから」

「せやな」

「京都でもおいしい料理お願いします」

 良介が拝むように両手を合わせ、葉子は「あっ」と声を上げる。

「おいしい料理って言えば、東隣のセイメイさんに引っ越し蕎麦そば持っていくの忘れてたわ。ほどきする前に挨拶するつもりやったのに」

「セイメイ?」

 桃花は「生命」という字を思い起こしたが、さすがに違うだろう。

「どういう字?」

「晴れるに明るいと書いて、せいめいさんや」

「え、それってまさか……」

 桃花は、小学生の頃母親に付き合って見にいった映画を思い出した。

 主人公は、人気俳優が演じる安倍あべの晴明だった。

 へいあん時代の高名なおんみようしきがみと呼ばれる不可思議な者たちを使役し、星の運行から吉凶を占ったという。その人気は、死後千年以上った現在も衰えずにいる。

 桃花は、まだ眠っているミオの丸まった胴体をさすった。

「大変だー、ミオ。お隣さん安倍晴明だって。ミオ、式神にされちゃうかもよ?」

「そっちの晴明さんなわけないやろっ」

 桃花の期待通り、葉子は笑顔で突っ込みを入れてくれた。

「でも、下の名前は漢字まで一緒やで。さっき郵便受けをちらっと見たら、ほりかわ晴明って書いてあってん」

「だったら『お隣のセイメイさん』じゃなくて『お隣の堀川さん』でしょ」

 桃花の指摘に、葉子は舌を出した。

「そやけどうち、安倍晴明のファンやからな。晴明さんって呼ぶ方がテンション上がるわあ」

「ただのお隣さんを下の名前で呼んだら変だよ」

「ええやんか、陰でこっそり呼ぶだけや」

 葉子は映画の原作となった小説を全巻そろえ、安倍晴明をまつる京都のせいめい神社のお守りも何種類か持っている。生まれ故郷のおおさかに、晴明ゆかりの神社があるから信心しているらしい。

「晴明さんと言えば、桃花が赤ん坊の頃に三人で晴明神社に行ったよな」

 良介が、眠るミオをスマートフォンで撮りながら思い出話を始めた。

「あの頃はまだ安倍晴明ブームの前で、境内が閑散としててさ。桃花の泣く声がわんわん響き渡ってたよ」

「せや、そんなことあったわ」

 と、葉子が同調する。

「すごい泣き方やったで。社務所でやくけのお守りいただいた後、本殿の前の晴明様の像の前へ連れていったんやけど」

「あ、その像知ってる。中二の時、友だちと京都へ遊びに来たもん。平安装束で、ちょびひげ生やしてるおじさんだよね」

 眉をひそめ、憂いを含んだ表情に覚えがある。

「あんた、あれ見た途端火ぃついたみたいに泣きだして、腕ばたばたさせて。うち、落っことすかと思ったわ」

 葉子が、赤ん坊を抱えているような手つきをしてみせた。

「えー、さすがに覚えてないけど、そんなにギャン泣きしたんだ?」

 良介が「うん、すごかったぞ」とうなずいた。

「あの時は通りすがりの男の人が、桃花をあやしてくれたんだよ。そしたらぴたっと泣きやんだ」

 意外な展開に、桃花は荷解き作業する手を止めてしまった。

「それって、どんな子守り名人? いきなりやってきて、よその赤ちゃんを落ち着かせるなんて」

「せやねん。不思議やったわあ」

 葉子は箱から剝がしたガムテープを丸めてゴミ箱へ放ったが、ふちに当たって落ちてしまった。そこへ、いつの間にか目を覚ましていたミオが「にゃにゃっ」と飛びかかる。

「ミオ、触ったらあかん。毛にくっつく」

「ほらミオ、それちょうだい?」

 桃花はガムテープの玉を拾い上げて、ゴミ箱に入れた。おもちゃを取られて不満そうに見上げてくるミオを、よしよしと撫でてやる。生まれてまだ一年なので、この猫はまだまだ遊びたがりだ。

 ──晴明神社で、赤ん坊だったわたしをあやしてくれた人。覚えてないけど、頑張ったら思い出せるような……。

「その男の人、どんな人だったの?」

 なぜか妙に気にかかるので、念のため聞いてみる。葉子は口元に指先を当てて、「うーん」と困惑気味に言った。

「昔のことなのに、なんか印象に残ってるんよねえ。年齢はあの頃のうちらと同じくらい……二十五、六歳で、ぴしっとしたスーツとネクタイやった。髪の色が明るめで、ちょっとり目のイケメンやったわ。十五年前にはそんな言葉なかったけど」

 良介が「そうそう、今で言うイケメン」とうなずく。

「おれもなぜかよく覚えてる。あの人がスッと近づいてきて桃花の額に手をかざしたら、すぐ泣きやんだ。びっくりしたよ」

「せやせや。催眠術でもかけられたんかと思て『今、うちの子に何しはったんですか?』って詰め寄ってしもた」

「お母さん、心配してくれたんだ。その人なんて答えたの?」

「それがな、笑えるねん」

 葉子は眉を軽く吊り上げた。

「こんなキリッとした真顔でな、こう言うねん。『驚かせてすまん。赤ん坊が石像を怖がって泣いていたから手で屋根を作ってやった』って」

 良介が「あー、そうそう」と合いの手を入れる。

「おれ、おばあちゃんの知恵袋的なもんかなあと思った。たとえば、しゃっくりが止まらなかったらびっくりさせろ、みたいな」

「うん、手で屋根を作るって、育児法っていうよりまじないみたいで不思議やったわ。でも実際、効いたんよ」

「ふーん……」

「面白い人だったよな。おれたちがお礼を言ったら、ちょっと困った顔で『たいしたことはない。それよりこのあたりで昼からめる店を知らないか』って」

「あの時確か、ガイドブックに載ってた有名な蕎麦屋さんを教えたんやったねえ。昼からお酒が吞めるって書いてあったから」

 良介が、パン、と自分の膝を打つ。

「蕎麦って言えば、引っ越し蕎麦。お隣に持っていくんだろ」

「あっ、すっかり話がれてもうたわ。ちょっと待ってや、ジャジャーン。えいざんようたしの蕎麦やで」

 葉子が段ボール箱から紙包みを取り出した。今まで住んでいた滋賀県大津市では有名な店の蕎麦だ。

「お隣さんは一人暮らしみたいやから、この量で充分やろ」

「確か、大学の先生だったか?」

 良介が言った。

「そうやで。まだ若い先生で、今は研究のために長期休暇取ってはるって大家さんが」

「なら、おれもご挨拶行くわ。うまくしたら、桃花の進路相談に乗ってくれるかもしれん」

「ちょっと待ってお父さん、わたしまだ高校入学前だよ? 大学も学部も決めてないよ? 京都にある大学も把握しきれてないし」

「だから親しくなっておくんじゃないか。さ、行こう行こう。ミオが出ないように窓を閉めて、っと」

 居間の大きな掃き出し窓を閉める良介の背中を見て、桃花も葉子もため息をついた。

「お父さん、ちゃっかりしすぎ」

「ほんまやわ」

「ミオ。おとなしく留守番しててね」

 桃花の言いつけにミオはしっぽを左右に振って不満を表したが、子猫のぬいぐるみを座布団に置いてやると、「みい」と一声鳴いてぬいぐるみを抱えた。この三毛猫は、今も赤ん坊らしさを残しているのだった。


 隣の敷地との間には、低い生け垣がある。

 生け垣で囲まれた庭付きの一戸建てが、二軒くっついている形だ。

「めんどくさいから生け垣をくぐっていこう」

「一人でやらはったら?」

「お父さん、犬や猫じゃないんだから」

 良介の冗談に母子おやこで突っ込みを入れつつ、一家は隣家の屋根付き門の前に立った。

 もんは目の粗いこうになっていて、植木の点在する庭や古風な二階建ての木造家屋が見える。

 桃花たちの家は平成の初めに建てられたらしいが、この家はもっと古いようだ。窓枠がサッシではなく木でできている。

「こりゃ、建てたの昭和二十年代か三十年代じゃないか?」

「でも庭が立派やねえ、かえでとかなんてんとか植わってて。うちもやってみる?」

「大家さんに相談しないとなあ。あっ、京都の植木屋さんって高いのか?」

いちげんさんお断りやろ。知らんけど」

「二人とも、インターホン押すよ?」

 ボタンに手を伸ばしかけた桃花は、あっ、と声を上げた。

 りガラスのまった玄関の引き戸が開くのが、格子戸越しに見える。

 出てきたのは、シルエットの細長い、背の高い男性だ。こちらへ歩いてくる。はくいろの髪をいくらか後ろに流しスーツを着た姿は、二十代後半の青年と思われた。

「ちょうど出かける時に来ちゃったのかな?」

 ひそひそ声で言いながら両親を振り返ると、二人はそろって口を開けていた。

「どうしたの、すごい顔して」

「そっくりやわ」

 葉子が言う。無言で良介がうなずく。

「誰に?」

「さっき話してた、晴明神社で会ったイケメンに」

「でも十五年前の話でしょ?」

 そう言っている間にも、長い足をよどみなく動かして青年が近づいてくる。

 門の格子戸が開いた時、桃花は「きつねだ」と思った。青年の色白で端整なほそおもてと切れ長の目は、いなの社を守るびやつに似ている。

「うちに何か?」

 立ち尽くしている親子を、琥珀色の目が不審そうに見返す。

「突然すみません。隣に越してきました、糸野と申します」

 良介が言い、葉子と桃花は「初めまして」と声を揃えておじぎした。

「ああ。よろしく」

 低い、陰鬱な声で青年は答え、典雅な身のこなしでおじぎをした。かっこいいけど憂鬱そうな表情、と桃花が思っていると、葉子が笑顔で蕎麦の包みを手渡した。

「これ、滋賀県の大津市で人気の蕎麦です。よかったらどうぞ」

 よかったらと言いながらも、葉子は相手の胸元にずいっと蕎麦を差しだしている。

「ありがとう」

 さほど嫌そうではなく、かといって嬉しそうでもない表情で青年は礼を言い、蕎麦を受け取った。

「どういたしましてー。大学で歴史か何かの研究をしてはって、今はそのための休暇中って、大家さんに聞きましたけど……大変ですよね、研究のお仕事は」

 ああ、と青年はあいまいな調子でうなずく。良介が身を乗り出した。

「うちの娘、この春から市内の高校に通うんですよ。進路に迷うことがあったら助言してやってくれませんか」

「お父さんっ。初対面の人に何言いだすの」

 桃花に肩をぐいぐい押されて、良介は「おおう」と軽くよろめいた。

「二人とも、漫才しなや。すみません、やかましゅうて」

 いや、と青年はあいのない調子で返事をした。

「せや、やかましいって言えば、うちにはミオっていう猫がいてるんです。もし鳴き声が大きかったらすみません」

 青年の細面に、かすかに微笑が浮かぶ。

「気遣いありがとう。猫は嫌いではないから、気にならない」

「あの、堀川さん」

 良介がまた身を乗り出した。

「いきなりですけど、年上のご親戚で、あなたそっくりの男性がおられませんか? 十五年前、晴明神社でよく似た方にお会いしたんですけど……」

「いや、そういう親戚はいない。なぜ?」

「よう似てはるんですよ」

 葉子が桃花の両肩を後ろからつかむ。

「赤ちゃんだったこの子を晴明神社に連れてったら、晴明様の像を見た途端怖がって泣きだしてしもて」

「お、お母さん、ちょっと待ってよ。関係ない人にそんなにしやべったら迷惑でしょ」

 恥ずかしさで顔が熱くなるのを自覚しながら、桃花は言った。しかし青年は、「いや、聞きたい」と言いだした。

 勢いを得たように、葉子が続きを話しはじめる。

「あなたによう似た人がすーっと近づいてきて、この子の額に手をかざしはったら泣きやんでくれたんです。びっくりしたけど、ほっとしました」

「妻の言う通りです。本当に、助かりました」

 まるで恩人本人に話しているかのように、良介が目の前の青年に言う。あるいは、両親ともに初対面の青年に魅入られているかのようだ。

 ──うちのお父さんとお母さん、初めて会う人にここまでれ馴れしかったかな?

 桃花は疑問に思ってしまう。

 青年は「なるほど」と短くコメントして、手に持った蕎麦の包み紙に目を落とした。印刷された店名や、創業二百年の老舗しにせだという由来を読んでいるようだ。

「せや、失礼ですけど堀川さん、蕎麦をゆでる時の鍋とかザルとか、持ってはります?」

 葉子が言うと、青年は軽く小首をかしげた。なめらかな額に、琥珀色の前髪が一筋かかる。

「鍋はあるが、ザルはない」

「やっぱりそうやった!」

 葉子はクイズに正解したかのように、ポンと両手を打った。

「男の一人暮らしってそんな風になりやすいんですよね。実家の弟と、うちの旦那も昔そうやったんですー」

 葉子に肩をたたかれ、良介は「いやあ」と照れくさそうに頭をかく。

 ──やだ、お父さんとお母さん、「バカップルモード」に入ってる……。初対面の人の前で……。

 桃花は恥ずかしさでまた顔を熱くした。

「ほな晴明さん、ザルとか缶入り蕎麦つゆとか持ってきますし、待っててくださいね」

 陽子の申し出に、青年がさすがに意外そうな顔をする。

 ──お母さん、「関西のおせっかいなおばちゃんモード」だ……。晴明さんって呼んじゃってるし。

「いや、そんなに色々もらっては悪い」

「いえいえ、ご遠慮なく! ザルは京都で老舗のええの買おうと思ってましたし! 良介さん、台所用品の箱開けるの手伝って。ケーキの型やらかき氷器やら、めっちゃカオスやねん」

 あけっぴろげに言うと、葉子は風のような勢いで良介を連れて家へ戻っていってしまった。

 玄関先に取り残された二人の間に、沈黙が降りる。桃花は、そっと晴明の横顔を盗み見た。琥珀色の髪と瞳が陽光を浴びて艶めいている。額からりようにかけての硬質なラインが、唇のあたりで急速に柔らかくなる。

 ──この人を描くなら、使う画材は透明水彩がいいな。透明感があって、発色が良くて、ぼかすと瞳や唇が色っぽく描けるの。

 心の中の独り言を聞きつけたかのように、琥珀色の瞳が桃花を見下ろした。

 思わず肩をすくませ、なぜか心臓のあたりを両手で守りながら桃花は口を開く。

「あ、あの。すみません。うちのお母さん、じゃなかった、母はたまに押しが強いですけど、人の世話するのが好きなだけなんです」

「そのようだな。昔も、昼から吞める店を教えてくれた」

 低く心地の良い声に桃花はぼうっとしかけたが、内容に気がついて「えっ」と声を上げた。あの思い出話で、葉子はガイドブックに載っていた蕎麦屋を教えたと言っていなかったか。

「今、何て?」

「何でもない」

 さらりと流すと、晴明は後ろの玄関口へ目を向けた。

「さっきも言ったが、もらってばかりでは悪い。家族の分まで茶菓子でも持っていくといい」

「え、いいんですか?」

「ああ」

 背を向けて晴明が玄関へ歩いていく。敷石を踏む歩幅が大きい。植えられた青い楓が、晴明がそばを通った時だけしなやかにうねった気がした。

「来ないのか?」

 晴明が振り返る。桃花は「いえっ」と言いながら後を追う。後ろ姿に見入っていたなどと、とても言えない。

 ──でも、会ったばかりで家に上がりこむなんて悪いかも。玄関先で待っていよう。

 しかしその遠慮は、晴明が引き戸を開けた途端に霧消してしまった。

 土間を上がってすぐの板の間に、大きな天体望遠鏡が設置されている。他にも陶磁器を収めた戸棚、観葉植物、山積みの本などが所狭しと置かれている。その中でも、天体望遠鏡は抜群の存在感を誇っていた。

「すごい! バズーカみたい!」

 桃花は感嘆しながら板の間に上がった。興奮していても、靴を揃えるのは忘れない。

「これって、土星の輪っか見られます? プレアデス星団の星も一個一個見られます?」

 立て続けの質問を、晴明は少し嬉しそうな微笑で受け止めた。

「ああ。見られる」

「すごーい!」

「しかし、バズーカというのは、何だ?」

 切れ長の吊り上がった目を持つ晴明がきょとんとした幼い表情で尋ねてきて、桃花は二重の意味で動揺した。

「えっ……。バズーカって、ご存じないですか?」

 まさかと思いつつ桃花が聞くと、晴明は無言で首肯した。

 ──映画や漫画で見たことないのかな?

 うそでしょう、と思ったが、いざ説明しようとするとうまくできない。困惑していると、晴明が口を開いた。

「携帯用の対戦車ロケット砲。円筒形の砲身に弾丸を詰めて、肩に乗せて発射する」

 辞書を読み上げるような口調だ。桃花はまた顔が熱くなるのを感じた。

「知ってるじゃないですかっ」

「うむ。冗談だ」

 真面目まじめな顔つきで言うと、晴明はふすまを開けて奥の部屋へ入っていった。

 ──わたし、今、いけずされた……?

 その場に立ち尽くす桃花の脳裏に、が波立つ懐かしい光景が広がりはじめた。

 あれは二月の上旬、京都への旅立ちを親友に告げた日のことであった。



【次回更新は、2019年8月15日(木)予定!】

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