番外編「きつねのひな祭り」後編

「晴明様、晴明様」

 二学期までの簡単なおさらいを終えた頃、男女の声がそろって庭から聞こえてきた。庭を守っている式神夫婦、縦石と横石だ。

「双葉どのが帰っておいでです」

 縦石が言い、横石が「もう一人」と言い添える。

「男の子を連れておいでですよ。双葉どのよりもうちょっと年下、七歳くらいの子が、流し雛を抱えて」

 桃花は、本を読んでいた晴明と顔を見合わせた。

「狐の子どもか」

 晴明が尋ねると、縦石が「さあ、そこまでは。子どもの格好ですが、人でないことは分かります」と慎重な口調で言った。

「わたくしどもには、確たる正体は分かりかねまする。されど……」

 淡々と報告する横石の口調は、途中で優しくなった。

「双葉どのが、手をつないであげています。まるで兄弟のよう」

 子どもを見守る母親のような調子で横石が言うので、桃花は緊張を和らげた。少なくとも、双葉が触れていても問題ない相手なのだ。

「分かった。門を開けていい」

「承知いたしました」

 式神夫婦が声をそろえ、遠くで門の格子戸が動く音がした。だんだんと、双葉の声が近づいてくる。

「がまん、がまんできている」

 ――何、何を我慢しているの、双葉君?

 立ち上がって玄関に向かう晴明の後に、桃花はついていく。

「ご苦労だったな、双葉」

 晴明が上がりかまちから声をかけると、玄関の引き戸が開いた。

白い長袖シャツを着た双葉が、七歳くらいの男の子と手をつないでいる。男の子はもう一方の手で、流し雛が乗った舟を持っていた。青いトレーナーの胸に、ぎゅっと押しつけるようにして。

 黒くまん丸い目に涙が浮かんでいるのを見て、桃花は頭をなでてやりたくなる。

「ただいま戻りました、せいめいさま」

 双葉は主に挨拶してから振り返り、男の子の手を引いて土間に引き入れる。後ろでぴしゃりと引き戸が閉まった途端、男の子の目元と口元が歪み、泣きそうな顔になった。双葉の言っていた「がまんできている」とは、泣くのを我慢できている、という意味だったらしい。

「ほら」

 促すように双葉が手を離す。すると、男の子のズボンの後ろから、ふっさりとした狐のしっぽが現れた。

 ――あっ、やっぱり狐?

 男の子は、晴明を見上げて口元をわななかせる。

「ごめんなさい」

 謝罪の声を絞り出す男の子のしっぽは、怯えるかのように震えている。

「下鴨神社の、流し雛を、烏に化けて持っていったのは、ぼく、です。左京区宝ヶ池たからがいけの、狐の権田市助ごんだいちすけといいます。みんなにはゴンイチと呼ばれます」

 ――ごん、おまえだったのか。下鴨神社の流し雛を持っていったのは。

 桃花は思わず、昔読んだ童話『ごんぎつね』によく似た台詞を心の中で叫んでいた。ごんという狐が、こっそり人間の元に食べ物を運んでいたと判明した場面だ。

「誰かに叱られたか」

 晴明が冷ややかに言う。ゴンイチはこくりとうなずく。

「うちの父さんと、母さんに叱られました。『これでは穢れが流れず京都にとどまってしまう』と」

「うむ。狐もよく分かっている」

 晴明が相槌を打ち、ゴンイチはうつむいたまま言葉をつむぐ。

「『真如堂のそばにお住まいの、陰陽師の安倍晴明様に謝りにゆけ』と言われました。もう、いたずらは、しません」

 青いトレーナーの袖で、ゴンイチは目元をごしごしとこすっている。

「うむ、よくいえた」

 双葉がまるで晴明のような口調で言って、ゴンイチの背をさすってやる。

「せいめいさま。おおせの通りに、ひなまつりの京を見回っていたところ、この狐の子を見つけたのです」

「そうか」

「ごりょうしんに叱られて、おうちを追いだされたそうにございます」

「……狐の子。なぜ流し雛を盗った」

「……烏に化けて、流し雛をとっていったら、みんなびっくりしておもしろいと、思いました」

 男の子の唇がとがり、桃花は(確かにすごい)と思う。化けた上に、水路に流れる流し雛をさらっていくという離れ業を披露したのだから。投稿写真へのコメントにも、面白がる好意的なものがいくつもあった。

 ――この子、まだ小さいのに天才?

 大人になったら一体どんな狐になるのだろう、と桃花は想像する。

きっと、周りの狐たちから尊敬を集めるのではないだろうか。たとえば、人間のトップアスリートのように。

 晴明がため息をつく。

「本当なら、狸谷山たぬきだにさんどういんにいる明王みょうおうに一人で会ってこいと言うところだ」

「う、うすさまみょうおうさま!」

 名を聞いただけで、ゴンイチの身体が震えだす。

「知っているようだな。不浄を焼き尽くす恐ろしい明王だ。水で流せなかった流し雛の穢れは、火で焼かねばならん」

 ゴンイチの短い黒髪から、ふさふさした両耳が飛びだした。おびえる猫と同じように、耳を伏せている。

「……だが、なぜいけないかをすでに理解している上に、こうして私のところへ詫びに来ている。さらに烏枢沙摩明王の元へ行かせるのは、屋上屋おくじょうおくを重ねるようなもの」

 ――晴明さん、小さい子に『屋上屋を重ねる』は分からないですよ。

 と、桃花は思ったが、幼な子に合わせて簡単な言葉ばかり使う晴明は(らしくないな)とも思う。

「烏枢沙摩明王には、私から処理を頼んでおこう。もういいから、その流し雛をよこしなさい」

 晴明の陰鬱な表情に魅入られたかのように、ゴンイチは両手を斜め上に伸ばして晴明に流し雛を渡した。

「大した穢れは宿っていない。しかも穢れは雛人形が抱えているから、狐たちに移ったりはしていないな」

 受け取った晴明がそう判じた直後、ゴンイチが桃花の視界から消えた。いや、茶色のふわふわとした毛の、幼い動物に――子狐に戻ってしまったのだった。うるんだ丸い目は、人間に化けていた時とそっくりだ。

「あんしんして、気がぬけてしまったようです」

 双葉が子狐を抱えてやると、茶色のしっぽが力なく垂れた。

 ――ああ、いいなぁ双葉君、子狐を抱っこできて……。

 わたしも抱っこする、と言って土間に下りたい衝動を、桃花は必死で抑えた。今は、陰陽師としての晴明の仕事中なのだ。

「宝ヶ池の権田と言ったな。ご両親に少々手紙を書くから、それまでに人間に戻っていなさい」

 奥へ戻っていく晴明を見送りながら、狐のゴンイチはキュウと鳴いた。「少々」ならすぐ戻ってくると思ったのか、双葉の腕からさっと抜け、土間に座って着地する格好で人間の姿になった。

「桃花。さっきの雛あられを分けてやっていいか」

 晴明はすぐに戻ってきた。手に持った手提げ袋の中に、ゴンイチの両親への手紙と雛あられが入っているようだ。

「もちろん、いいですよー」

「あ、ありがとうございます……」

 男の子の姿で、ゴンイチは礼を言う。

「どういたしまして」

 この子が家であんまり怒られませんように、と桃花は祈った。

「晴明さん。ご両親へのお手紙には何て書いてあるんですか?」

「今、この子狐に話したようなことだ。それと『宗旦狐そうたんぎつねの茶室を親子で訪ねろ』と」

「宗旦狐さんに?」

 著名な狐である。江戸初期には茶人・千宗旦に化け、今は哲学の道に「吉報庵」という茶室を建てて、観光客向けの茶道体験会などを開いている。

「双葉。家まで送っていってくれるか」

「うけたまわりました。宝ヶ池ですね」

「双葉の分の雛あられも取っておこう。交通機関を使っていい」

 懐から財布を出しつつ、晴明は「バスと叡山電車えいざんでんしゃだったか」とつぶやいた。

 桃花はすかさず「はいっ」と手を挙げる。

「203系統の市バスで出町柳でまちやなぎ駅まで行って、そこから叡山電車で行けますよ」

「すごいです、ももかどの。バスのばんごうまで」

「あはは、友だちと遊びに行くとき、使う路線だから。全部は無理だよ」

 しきりに感心した双葉は、晴明から託された財布だけでなく、手提げ袋も「わたしがもちます」と声に出して主張した。お兄さんぶりたい男の子ってこんな感じかな、と桃花は思う。

「ごめんどうを、おかけいたしました」

幼い外見からは想像できないほどきちんと挨拶して、ゴンイチは双葉に連れられて出ていった。閉まった引き戸の向こうから「気をつけてゆけ」「気をつけてね」と式神夫婦の声が聞こえる。

「晴明さん、思ったより優しかったです」

 桃花がこぼした感想に、奥へ行きかけていた晴明は「は?」と振り返った。何を言っているんだ、という白けた顔である。

「ゴンイチ君に『自分一人で烏枢沙摩明王のところへ行きなさい』って言うかと思いました」

「屋上屋だと言っただろう。それに」

 晴明はまた前を向いて、和室へ戻っていく。

「幼い身に才気があり余れば、危うい。理解者が必要だ」

「あっ、だから、宗旦狐さんに会いに行くよう手紙に書いたんですねー。フィギュアスケートする子も、早めにいいコーチに出会うのが肝心らしいですよ」

 晴明の向かいの座布団に座って、古典の教科書を開く。

 ――晴明さんは、幼い頃から才能があったから、お師匠様から「瓶の水を移すように」教えを受けたって、『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』に書いてあった。苦労したのかな。

 そんな気遣いをおくびにも出さず、桃花は「じゃあ、授業の続きですね」と言った。



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