第三話 優しい鬼(2)

 何事もなく夜が明けた。

 いつも通りに制服を着て髪にリボンを結び、いつもと同じ時間に玄関を出た桃花は、生け垣越しに隣の庭を覗いてみた。

 ──いた。晴明さん。

 縁側に腰かけて、晴明が本を読んでいる。

「おはようございます、晴明さん」

「ああ。これから学校か」

 晴明が顔を上げてこちらを見る。

「昨日の賭けですけど」

「答えが分かったか?」

「全然です」

「堂々と言うではないか」

 無表情で晴明は言ったが、もしかしたら呆れているのかもしれない。

「うちのお父さんが、えんのぎようじやのお使いをしている前鬼と後鬼のこと教えてくれたんですけど」

「あれらも『悪くない鬼』だが、違うな。京都にいるのを探さないと」

 ──ってことは……その鬼の本拠地は京都ってことだよね。

 何かを思い出しそうな気がするが、はっきりと形になってくれずもどかしい。

「晴明さんは分かっているんですか? 正解」

「目星はついているが、確認のために西陣に双葉を飛ばした。……見ろ」

 晴明が空を見上げた。

 滑空する黒い小鳥と、はばたく緑褐色の小鳥が降りてくる。ツバメとウグイスだ。

「あっ、双葉君? お帰り……そっちのウグイスさんは?」

「部下の茜だ」

「鳥さんだったんですか?」

「いや。へんが得意でな」

 晴明が伸ばした手に、ツバメが止まった。背中にはあの五芒星がある。

 ウグイスは、庭木に止まった。良い声で、ほうほけきょ、と鳴いてみせる。

「分かった。報告は茜から聞く」

 晴明がウグイスに目配せをした。

「桃花、双葉を連れていってくれるか?」

 ツバメがくうに舞い、一匹の白いちようになる。ふよふよと飛んで、桃花の通学バッグに止まった。

「学校という物を教えてやってくれ。何、教室周辺を遊ばせておくだけでいい。世間を広く知るためだから」

「えっ、世間を広く知るためだったら、晴明さんも来た方がいいですよね? 蝶か何かになって」

「ほう」

 晴明が眉を寄せた。ウグイスが、けきょけきょけきょ、と笑い転げるように鳴く。

「いえ、悪い意味じゃなくて……。休暇の理由は現世を知ることって聞いたから……」

 けきょけきょけきょ、とウグイスが鳴き、晴明は無表情で前髪をかき上げた。

「私のことはいい。早く学校に行きなさい」

「はーい」

 白い蝶とともに、桃花はあわただしく舗道に出た。

 ──あー、賭けの手がかり、何か聞きだせば良かった。

 バス停へ向かう道の途中で後悔する。

 ──鬼って、悪いものしか思い浮かばないよ。節分で追い払われる鬼、おおやましゆてんどう……。いばらどうっていうのも本で読んだかな。

 つらつら頭の中で列挙していると、通学バッグに止まっていた白い蝶が、急に舞い上がって先へ先へと飛んでいく。

「どうしたの、双葉君……」

 式神の変じた白い蝶が止まったのは、町内の掲示板に貼られたポスターだった。紫の地に白い字で、「じようしゆうだいほんざん」とある。

「お寺の行事のお知らせじゃない。何かあるの?」

 蝶になった状態では、双葉は喋れないようだ。ポスターから離れてはまたくっつくという動作を繰り返している。

 ──もしかして。

 白い蝶に近づいた。止まっている場所は、「浄土宗大本山」の「本」の字だ。

「双葉君。本を読めって言ってるの?」

 白い蝶がふわりと飛んで、桃花の通学バッグに戻ってきた。やれやれ、やっと伝わった、とでも言うように。

「そうだよね。この前も、本で調べろって晴明さんに言われたもんね」

 白い蝶が、今度は腕時計に止まる。

「あ、ありがと双葉君。遅れちゃうね」

 早足でバス停に向かう。今日の美術部での予定はせつこうデッサンだが、顧問に言って早めに帰らせてもらおうと決める。

 バス停に着くと、桃花は学校帰りに寄れる書店をスマートフォンで調べはじめた。



 にぎやかな書店の検索機の前で、桃花は困っていた。

 ディスプレイには、「検索結果が100件を超えました。表示しますか?」という文字が出ている。キーワード検索で「鬼」とだけ入力したのだが、ヒットする書籍や雑誌が多すぎるらしい。

 ──双葉君。「京都にいる悪くない鬼」、どうやって探そう?

 双葉は、白い蝶の姿で店の壁に止まっている。桃花に「動け」と伝えるかのように、少しだけ壁をよじ登った。

 ──うん。自分で動いて探してみるね。

 桃花は「鬼」の一字を求めて広い店内を歩きはじめた。

 小説や漫画に「鬼」の字を使った作品が多い。だから検索結果が百件を超えてしまったのだろう。

 学術系文庫の棚で『鬼の研究』というタイトルを見つけて、手に取ってみる。著者はあき、プロフィールを見ると歌人で文芸評論家とある。

 ──難しそう。

 気後れした時、ふと晴明の言葉を思い出した。「辞書や索引を引く癖を、今からつけておくといい」。

 ──索引が役に立つなら、目次も役に立つんじゃない?

 さっそく『鬼の研究』の目次を開いて目で追っていくと、「3章 王朝の暗黒部に生きた鬼」とある。「悪くない鬼」ではなく、悪事を働く鬼のことだと推測された。

 ──うーん、ちょっと違ったかあ。もうお店に来て二十分経っちゃった。

 壁の時計を見た桃花は、エプロンを着けた女性店員が近くにいるのに気づいた。書棚の下の引き出しを開けて、在庫整理をしているようだ。

 ──ダメモトで聞いてみようっ。

「すみません」

 おそるおそる声をかけると、店員が顔を上げた。母親の葉子と同じ年頃の女性だ。

「京都と鬼に関する本を探してるんです。この本みたいな……」

 両手で『鬼の研究』を差しだす。

 店員は宝物を見つけたような顔で「ああ!」と言いながら受け取った。

「読んだことあるんですか?」

 せんぼうと感嘆の入り交じった桃花の声を、店員は微笑で受け止めた。

「有名な本ですよ。これに近い内容でしたら、こちらへどうぞ」

 店員は桃花を店の入り口近くへ導いた。京都の神社仏閣を紹介するガイドブックや写真集、京都の年中行事を解説する本などが、三畳ほどのスペースに陳列されている。

「この雑誌のバックナンバーにあったんですよ、鬼の特集。お待ちくださいね」

 店員が足を向けたのは、薄い雑誌がずらりと並んでいる棚だった。タイトルは『月刊 京都』。背表紙に「特集 祇園祭の歩き方」「特集 外国人から見た京都」などと記されている。

しらかわしよいんっていう地元の出版社さんが作ってるんで、詳しい内容まで載ってますよ……あ、これ、いかがですか?」

 店員が一冊抜き出した。表紙に「特集 鬼の正体、鬼門の謎」とある。ふらふらと導かれるように、桃花は雑誌を受け取った。

「このコーナーで、他の京都関連本を見てもいいと思います。どうぞごゆっくり」

「ありがとうございますっ」

 エプロンがしいプロの仕事着に見える。店員は軽くしやくすると、元いた場所へ戻っていった。

 ──えーと、特集はどこ?

 何度かページをめくった時、突然光が差すようにそれは現れた。



 カーディガンの肩に白い蝶を止まらせ、満面の笑みで玄関に入ってきた桃花を、晴明はいとも退屈そうな顔で迎えた。

「家の人にただいまは言ったか」

 予想以上の子ども扱いであった。

「言いました! うがいも手洗いもして晩ご飯も食べました!」

「そこまでは聞いていない」

 平然と返して、晴明は和室に戻っていく。

「わたし、答えが分かりました。京都にいる、悪くない鬼」

「ほう?」

 晴明が振り返った。

おにがわらでしょう?」

 琥珀色の瞳に安心したような光が浮かぶのを、桃花は見た。肩から双葉が飛び立って、晴明の手に止まる。

「当たりだ」

「でしょう? 双葉君も本屋の店員さんも、ヒントをくれたんですよ」

 桃花は晴明の対面に座り、座卓の上で『月刊 京都』を開いた。あの店員が薦めてくれた「鬼の正体、鬼門の謎」を特集した号だ。

「この写真で、鬼瓦だって気づいたんです」

 青空を背景に、灰色の大きな鬼瓦が写っている。どうもうな目は陽光を照り返し、らんらんと光を発しているかのようだ。

「それから、クラスの女の子から聞いた話を思い出しました。むねの一番端は家紋がついてても鬼瓦と呼ばれるけど、やっぱり魔除けには鬼の顔が一番だって」

 晴明は満足げに「そうだな」と相づちを打った。

「そして京都には、家紋ではなくしっかり鬼の形をした鬼瓦が多い。鬼の顔を作るには技術と経験がいるから、専門の『おに』という職人がいるほどだ」

「あっ、それ、載ってる本見つけたから買っちゃいました! おばあちゃんのくれた図書カードで!」

「ほう」

 桃花はバッグから、カラフルな表紙の『京都の職人たち』という本を取り出した。

 表紙には作務衣姿の職人のまわりに、色々な工芸品が描かれている。

 提灯、反物、つづみうるしぬりわんつぼ、そして鬼をかたどった鬼瓦。

「鬼瓦が表紙にあるから試しに開いてみたら、『鬼師』って項目があったんです」

 桃花は鬼師を紹介している頁を開いた。

 見開きの一方に、鬼瓦の写真がある。太く短い眉は下がり気味で、目は大きくまん丸い。恐ろしい鬼の顔ではあるけれど、笑っているようにも見える。

「優しい鬼さんですよね、この顔」

 隣の頁にはこの鬼瓦の作者として、黒っぽい作務衣を着た六十歳くらいの男性が正面を向いて写っている。意志が強そうでいてあいきようのある顔は、本人の作った鬼瓦によく似ていた。太く短い下がり気味の眉、大きくて丸っこい目、豊かな頰。

 鬼師の写真の横には、本人のコメントが添えられている。

《師匠と違って、どうも私の作る鬼瓦は顔が優しいと言われます。お客様からお客様へとうちの鬼瓦の評判が伝わって、ちゃんと注文が来ますので、家の魔除けはできてるんやと思います……》

「いい本だな。作り手も、鬼瓦が届いた後のことを重視している」

「あっ、いい本っていえば、もう一冊買ったんですよ。店員さんが有名な本だって言ったし、頑張れば読めそうかなって」

 桃花が『鬼の研究』を取り出すと、晴明は唇の一端をかすかに上げて笑った。

「こづかいは足りたか?」

「おばあちゃんのくれた図書カードで充分足りましたっ」

 歳の離れたお兄ちゃんがいたらこんな風かな、と桃花は思う。

「晴明さん、教えてくれますよね。陰陽師の術」

「まだ足りないな。鬼瓦が何をしたいのか当てなければ」

「あーっ、忘れてた。そこまでが問題でしたよね……おまけしてもらえません?」

「却下する」

 晴明は座卓に行儀悪くほおづえをついた。

「却下ですか……。うーんと」

 作務衣を着た、大きな鬼の姿を思い出しながら考える。

「あの鬼は通りゃんせを歌いながら、北野天満宮へ通ってた……。それから、『この地は、長き戦の地。われに力を与えよや』とも言ってた」

「目的はなんだと思う」

 晴明は書道の道具を出して、墨をすりはじめた。呪符でも作るのだろうか。

「えーと、戦があった土地にある北野天満宮に、力を借りようとした?」

「では、何のために鬼は力を借りようとしたか、分かるか?」

 矢継ぎ早の質問に、桃花はたじろぐ。

「晴明さんは、分かってるんですか?」

「分からなくもない」

「あの作務衣を着た姿ですよね。なんで作務衣なのか不思議なんですけど」

「そこは不思議ではないな」

「えっ?」

 晴明は墨をすり続けている。かぐわしい墨の香りがただよう。

「鬼瓦を作るのは、鬼師と呼ばれる職人だろう。職人の姿に影響されて、同じ作務衣を着ていたに違いない」

「はあ。作務衣よりもっとこう、虎の毛皮とかひようの毛皮の方が怖いのに」

 晴明はなぜか、にやりと笑った。

「なんですか?」

「怖いとは、いいところを突くと思っただけだ」

 桃花が「ほんとですか?」と声を弾ませると、晴明は視線を外した。どうして「怖い」が「いいところ」なのかは、教えてくれないようだ。

「鬼瓦の鬼が持つ力は、その家から魔を退けることだ。そこは分かるな?」

「分かりますよー。住んでる人を守るんですよね?」

「だとしたら、鬼が北野天満宮に行くのはおかしい。鬼瓦が助力を求めるとしたら、同じ家に棲むかまどがみしきがみのはずだ」

「台所や家の神様ですか?」

「見えないだけでどの家にもいる。それらの存在と協力できないということは、鬼瓦が守りたいのはその家の住人ではない」

「えー」

 桃花は座卓に突っ伏した。

「全然分かりませんよう」

 わざと情けない声を出してみせたが、晴明は黙っている。

 気まずくなって起き上がろうとした時、玄関の戸を遠慮がちに叩く音がした。

「おお、来たな」

 晴明が立ち上がる。

「客人だ。桃花、茶を三人分淹れてくれ」

「人使い荒いです」

「双葉は今、使いに出しているからな。よろしく頼む」

 晴明は玄関へ行ってしまい、桃花は仕方なく台所に向かう。

 ヤカンを見つけて火にかけていると、晴明と低い男性の声が聞こえてきた。

「安倍晴明様のお宅ですかの。われは、首途かどではちまんぐうのそばに住まうすみ家の鬼瓦」

「では三隅の鬼と呼ぼう。西陣の茜に言われて来たか」

「はい、晴明様にお頼みすれば話が早いであろう、と」

 たった三人分の水はすぐに沸騰した。きゆうに沸騰した湯を注いでいると、二メートル近く身長のありそうな、がっしりした男が晴明に連れられて茶の間に入ってきた。

 着ているのは作務衣だ。

 年齢は三十代半ばくらいだろうか。

 彫りの深い顔立ちで、短く太い眉と大きな目の辺りに何とも言えない愛嬌がある。

「や、これはどうも。お嬢さんは、われが北野の天満宮へ通うところを見たとか」

「えっと」

 どう答えようか桃花がしゆんじゆんしていると、男の生えぎわからめきめきと角が生えてきた。

「わ、わ、鬼に戻ってるっ」

「おお、気を抜くとつい」

「桃花、騒いでいる場合か。茶が濃くなってしまうぞ」

 急須に湯を注いだままなのを指摘されて、桃花は慌てて中身を湯吞みにいだ。


 体の大きな三隅の鬼が湯吞みを持っていると、まるでさかずきのようだ。

 ──この人、じゃなかった鬼さん、もとは鬼瓦なんだよね……。ひょっとして、本で見かけたあの職人さんの作品かも。そっくりだもの。

 桃花が鬼の顔を見守っていると、晴明が口を開いた。

「お前が守りたい者たちは茜から聞いている。勝てそうにないのか」

「はい……」

 沈んだ顔で三隅の鬼は湯吞みを置く。

「北野天満宮に通っていたのは、祭神から力を得るためか。あれは学問の神なのだが」

 晴明は三隅の鬼を見て苦笑している。

「しかしですな、あの天神様は応仁の乱で西軍の本陣のそばにあったのです。闘う気迫を知っておられるのではないかと」

「祭神から返事はあったか」

「いえ、十日以上も通いましたが、何も」

「そうだろうとも」

 ──え? 何? 三隅さんちの鬼瓦さんは何と闘ってるの?

 上七軒を通って北野天満宮に通っていた理由は分かったが、誰を何から守りたいのか、桃花にはまるで分からない。

「隣に来い。手元が狂わないように」

 晴明が三隅の鬼を呼び、筆に墨を含ませた。

「は、もしやわれの顔に」

「お前の顔はどうも優しすぎる。職人の癖だろうな」

「どうやらそのようで」

「職人には悪いが、迫力を加えてやろう。嫌か」

「望むところでございます。われはあやつを追い払わねばならぬ」

 三隅の鬼が、晴明の隣にどかりと座る。

 その太い眉に、晴明が筆を伸ばす。まるで、正月の羽根つきの敗者にするように。

 筆を幾度か左右に往復させて、晴明が筆を置く。

「鏡を貸してやろう」

 晴明がたんの引き出しを開ける。三隅の鬼の表情がいかつくなっているのに気づいて、桃花は「あれっ?」と声を漏らした。

「桃花どの。われの顔、恐ろしくなっておりましょうか」

「う、うんっ。目がさっきよりぎょろっとして眉が長くなって、すごい迫力」

「自分で見てみろ」

 晴明に渡された鏡を覗きこむと、三隅の鬼は上下の歯をむきだしにして笑った。笑顔なのに、大変な迫力だ。

「これで、あやつに勝てそうですわい」

「勝てそうではない。勝つのだ」

 晴明は無表情で右の拳を突き出す。三隅の鬼はにっかりと笑みを深くして、晴明の拳に自分の拳を軽く合わせた。

「この春は思いがけず守るものが増えましたが、せいぜい気張りましょうぞ」

 いかつい顔に自信をみなぎらせて、三隅の鬼は晴明の家から辞していった。

「さて、桃花」

 晴明がこちらを振り返る。

「教えてくれるんですねっ? どういう事情なのか」

「子細を教える前に予習復習だ」

 有無を言わせぬ口調であった。

「はぁい……」

 すごすごと座卓に戻る。持ってきたトートバッグから教材を出していると、白い蝶に変化したままの双葉が励ますように周囲を飛び回った。



 実は最近数学が苦手なんです、と桃花が告げると、晴明はノートに例題をいくつか書いて、「教科書を見ていいから解いてみろ」と言いだした。

 やってみるとどれも構造が似通った問題で、解法のパターンがつかめてきた。晴明は、繰り返し例題を解くことによって今の単元を理解させようとしているらしい。

 ──晴明さん、どうして現代の勉強が分かってるんだろ? 本で知ったのかな。

 いぶかりながら問題を解く。勉強をしているうちに夜も更けてきて、糸野家の門限もだんだん近づいてきている。

「晴明さん、例題これで終わりましたけど」

「ああ」

 くたびれたのか、晴明は畳の上に寝転がっている。教師とは思えない態度だ。

「起きてくださいよー。答え合わせっ」

 自分で問題を出しておいて、晴明は気乗りしない調子で起き上がると赤ペンを取った。さらさらさらと例題全てに丸をつけ、無言で赤ペンを置く。

「晴明さん。全問正解なんですけど」

 褒めてくれないんですか──と、桃花は表情で訴えかける。

「どれも似た問題で、教科書を見ながらだぞ。桃花の理解力なら解けて当たり前だ」

 冷たいと不平を言えばいいのか、信頼されていると喜べばいいのか分からず、桃花は話題を変えることにする。

「……三隅の鬼さんが誰のために何と闘っているのか、教えてくれるんですよね?」

「ああ」

 晴明は本棚の一角を指さした。一冊の鳥類図鑑がするりと本棚から抜け、ふよふよと桃花の元に漂ってくる。

もうきんるいの頁を開け。フクロウの頁がいい」

「もう慣れてきましたよ、あんまり説明してくれないところ」

 座卓の向こうから、「ふっ」と笑い声が聞こえた。笑われたのが悲しくて、

「索引を引くんですよね」

 と言ってみる。

「習ったことを覚えているな。偉いと言いたいが、当たり前だ」

「分かってますよー。歴史の資料集でも引くんだから」

 ぶつぶつ言いながら巻末の索引を開き、フクロウが載っている頁を突き止める。

 白と茶色の羽毛に大きな目玉を持つフクロウがカラー写真で載っていた。

「そのフクロウを見ていろ」

 と言いながら、晴明が起き上がる。

「術のやり方は教えないぞ、正解できなかったからな」

 晴明はそう言ってから、小声で呪文らしきものを唱えだした。

 ──日本語じゃないみたい。どこの言葉だろう?

 こんな時、自分の知識不足をもどかしく思う。

「もういいぞ、こちらを向け」

「はーい……わ、かわいい!」

 晴明の腕に一羽のフクロウが止まっていた。図鑑に載っているものと同じ種類だ。

「目がくりくりしてる! 術で呼んだんですか? この子、触ってもいいで、す、か」

 舌がもつれて、視界がぼやける。

「あれえ?」

 目元をこする。まぶたを大きく開いた時、そこにあったのは白い手の甲だった。

 ──ん? でっかい手。

 首をめぐらせると、晴明がこちらを見下ろしていた。

「桃花は今、フクロウになっている」

 ──なんでですかーっ!

 叫んだつもりだったが、口から出たのはホウホウという鳴き声だった。

 ──ひどい! なんてことするんですかっ。

 抗議の声は、やはりフクロウの鳴き声になってしまう。

「空を飛んでみたくないか、桃花」

 ──え。

 子どもの頃、飛んでみたいと思ったことがある。今も時々空を飛ぶ夢を見るほどだ。

「危ないことはないぞ。私の術で、三隅の鬼の所まで導くからな」

 ──あ、答えを見に行けってことですね。

 桃花は首を上下させた。仕草が面白かったのか、晴明が唇の端をかすかに上げる。

「いい夜だ。烏も休んでいる」

 晴明は立ち上がると、庭に面した大きな掃き出し窓を開けた。あたりに街灯は少ないので、風に揺れる庭木は黒々としている。

「羽は勝手に動いてくれる。行きなさい」

 足元がぐわりと持ち上がり、桃花は夜風の中で上昇した。

 眼下に晴明の家の庭がある。池の水面が揺れ、二つ寄り添った庭石から「行っておいで」「行っておいで」と声がする。晴明の式神となった縦石と横石には、フクロウの正体が桃花だと分かったのだろう。

 風が吹いて、体が上昇する。

 街を取り囲む山々が見える。

 によたけには「大」の字があり、北の方に並ぶ二つの山には「妙」「法」の字がある。

 さらに西には、船を描いた山と鳥居を描いた山、小さな「大」の字。夏にざんの送り火を燃やす火床が、夜だというのにはっきり見える。

 ──なんで見えるの? フクロウだから?

 疑問に思っているうちに、西の山にある「大」の字──通称ひだりだいもんがどんどん大きくなってくる。フクロウの体が、西北西へと飛んでいるのだ。

 ──首途八幡宮の近く、って三隅さんちの鬼さんは言ってた。西陣の北の方だ。

 やがて体が、丘に建つ神社へと下降していく。鳥居には「首途八幡宮」とあった。

 ──あっ、ここで降りるの?

 桃花は、首途八幡宮の境内にある庭石に舞い降りた。幼い頃から知っているようななめらかさで、両翼がたたまれる。

(桃花)

 晴明の声が耳元で聞こえて、桃花は庭石から落ちそうになった。

 ──ち、近くにいるんですか晴明さん?

 桃花の口から、ホウホウホウと鳴き声がこぼれる。

(鳴き声をたてるな、心の中で喋るだけでいい。私は家にいる)

 どうなってるんですか、と言いそうになったが、くちばしを閉じた。

(斜め下を見ろ。三隅家の鬼瓦が見える)

 晴明の言葉に従って、丘の下を見る。大きな瓦屋根の家があり、棟にはあの鬼瓦があった。太い眉に、迫力のある両眼。晴明によって描き直された、迫力のある顔だ。

(耳を澄ませろ)

 何だろうと思いつつ、耳に意識を集中させる。鬼瓦の近くの瓦が一枚ずれていて、隙間がある。そこからピイピイと、鳥のひなのような声が聞こえた。

(瓦の隙間に目をこらせ)

 真っ黒に見えた瓦の隙間が、だんだんと薄明るくなる。うずくまる一羽のすずめと、まだ羽毛も生えそろわない三羽の雛が見えた。

(雛が時々目を覚ましている。敵の気配を感じているのだろうな)

 桃花の見聞きしている光景を、晴明も感じ取っているようであった。

(屋根をよく見ろ)

 月明かりを受けて光る瓦屋根に、うねりながら進んでくる青く長い生き物がいる。

あおだいしようだ。知っているだろうが、鳥の雛や卵を食う)

 そこまで聞いて、桃花は理解した。

 瓦屋根の隙間に巣を作った雀は、三隅家の住人ではない。屋敷神や竈神にとって、守る対象ではない。しかし鬼瓦にとっては、まさに懐に飛び込んできた窮鳥だ。

 鬼瓦の背後から青大将がい、巣に近づいてくる。桃花は助けたい衝動に駆られた。

(桃花、見ていろ。フクロウではあれほど大きい蛇には勝てない)

 晴明に命じられて、仕方なく見守る。

 瓦の隙間に這い寄っていく青大将が、ふと動きを止めた。首をもたげて屋根から身を乗り出し、鬼瓦を覗き込むような格好をする。

 その直後、青大将の体が揺らいだ。鬼瓦の視線に打たれたかのように、落ちていく。

(家人以外も守りたいとは、見上げた鬼瓦だ)

 晴明は感心しているらしい。庭の敷石にビタンと派手な音を立てて落ちた青大将は、うねりながら敷地の外へと這っていく。

(痛い目を見たから、もう来ないだろう)

 晴明の口調は、安堵を含んでいるようだった。

(あの鬼瓦は、巣が青大将に狙われていると気づいて北野天満宮に助けを求めたのだ。命の営みに、あれほどの神が動くわけには行かなかったのだろうな。私の知己である桃花を、西陣に呼び寄せたわけだ)

 ──でも、西陣で食事をしようって言ったのはうちのお父さんで……。

 待てよ、と桃花は思った。

 良介は確か、「同僚にいい店教えてもらったよ」と言っていた。それは、北野天満宮に祀られる神のはからいだったというのか。

(もう帰れ、桃花。今日の授業は終わりだ)

 翼が勝手に開いて、体が浮き上がる。少し離れた位置から見ても、鬼瓦の迫力ある顔はよく目立つ。

 この家は大丈夫だ、と桃花は確信する。

 三隅家が次第に遠ざかり、月夜の空が視界に広がった。

 風に乗って、桃花の体は西陣の南へ運ばれていく。

 ──あ、あれ? 東じゃない? まっすぐ家に戻るんじゃないんですか?

(茜が桃花に興味を持っている。顔を見せてやってくれ)

 ──か、顔って、今フクロウなんですけど?

 瓦屋根の家が密集する区域へ、桃花は運ばれていく。一軒の町家の屋根に、一羽のウグイスがいるのを桃花は認めた。

 ──なんで夜にウグイスが? もしかして、この間晴明さんちに来た……。

 体が下降して、屋根に近づく。ウグイスが突然消えたと思った直後、そこには和服姿の若い女性が脚を投げ出す形で座っていた。

 藤色のもんと抹茶色の帯はゆったりした着付けで、家でくつろいでいるかのようだ。桃花よりもかなり背が高いが、体はほっそりしている。

 年齢は、二十二、三歳か。ゆるく結い上げた黒髪を、真珠を連ねたかんざしが飾っている。切れ長の目と真紅の唇でえんぜんと微笑み、しなやかな首が色っぽく傾く。

 ──あ、あなたが茜さんですか。晴明さんちに来てましたよね。

 その女性が差しのばしてきた腕に、桃花は思わず着地していた。

 ホウホウと鳴く桃花を、楽しそうな笑みが見つめる。

「こんばんは、陰陽師のお弟子さん」

 ──こんばんは! ……って、弟子っ?

「髪のリボンが可愛かったねえ。今度私の店においでよ、先生の晴明様も一緒にね」

 ──店って、どんな? ああ、あと、先生って言っても学校の勉強の先生ですから。

 翼をばたつかせる桃花を、風がふわりと持ち上げる。

「また会うだろうね。遠出をさせられて気の毒に。今夜は早めにお眠り」

 体が羽毛になってしまったかと思うほど、強い風が桃花の体を押し流す。

 ──お、お休みなさい。

「ああ、お休み」

 手を振る茜の姿が遠くなり、山に囲まれた京都の夜景が眼下に広がる。

 西の大文字から東の大文字へと、桃花は軽々と運ばれていく。

(茜の言う通りだな。今夜は早く眠るといい)

 晴明の声が耳元で聞こえる。桃花は、青葉の香りを含んだ夜風を心地よいと思った。


第三話・了


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