第三話 優しい鬼

第三話 優しい鬼(1)

 げいや舞妓の住む花街に、鬼が出るといううわさがある。

 花街といっても、おんではない。

 京都市街の北西部、西にしじんと呼ばれる織物の町の一角。京都最古の花街・かみしちけんのことだ。上七軒はきたてんまんぐうの門前に位置し、周囲は住宅街となっている。そのため、祇園よりも静かでしっとりした雰囲気が漂う。石畳の道に並ぶまちの風情を愛する京都市民は多い。

 深夜、この石畳の道を、角の生えた大きな鬼が歌いながら歩くという。


  通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ……


 このあたりで天神様といえば、学問の神様北野天満宮だ。境内にさまざまな梅のを植えていることでも有名である。

 鬼が、北野天満宮に何の用か。

 じようじゆしたい学問があるのか。

 それとも、何か悪いたくらみがあるのか……。


「と、そういう話が最近あるんですわ。ここら周辺にね」

 喫茶店のマスターが話し終えると、桃花はカウンターの上でミルクティーのカップを握りしめて「怖い……」とつぶやいた。

「怖いことあれへんって。そういう噂話がある、ってだけやんか」

 母親の葉子が明るく言った。

「んー」

 桃花は曖昧な答え方をして、甘いミルクティーをすすった。

 ──そりゃ、ちょっと前のわたしなら、お母さんと同じように考えるけど。

 晴明に関わってから、式神にも疫神にも付喪神にも遭遇した。噂とはいえ、鬼と聞けば本当にいるのではと警戒してしまう。

「なんかの見間違いやろ。酔っ払いが歌ってるのを見て、誰かが鬼やって言いだしたんちゃう?」

「ああー、そうかもしれまへんねえ。見た方も酔っ払いやったりして」

 マスターは、葉子の推測にいくらか納得した風である。

「糸野さんの旦那さん、そろそろ来はるんちゃいますか?」

「せやねえ」

 葉子が壁の時計を見る。

 時刻は夜の六時。

 紅茶のおいしいこの喫茶店で待ち合わせてから、同じ上七軒のレストランへ行こうという計画だ。

「琵琶湖の方から引っ越してきはったからご存じやろうけど、今はホンモロコみたいなぎよがおいしいですよねえ。私も家族でどこか食べに行こかな」

「へー、どっかにいい店知ってはるんですか?」

 マスターと葉子は市内のレストランについて情報を交換しはじめ、手持ち無沙汰になった桃花は外を見た。

 提灯のほのかな明かりに照らされた夜道から、野太い歌声が聞こえてくる。


 通りゃんせ、通りゃんせ……

 ここはどこの細道じゃ……


 桃花は暗い夜道に目をこらした。

 店の外をゆっくりと横切っていく、一つの大きな影がある。頭に生えているのは、牛のような角だ。

 ──あ、あ、やっぱり、ほんとにいた。

 怖がると同時に納得するという自らの反応に、桃花は自分でも驚いた。

「マスター、鯉料理のお店って知ってはりませんか?」

「食べに行くよりも、にしきいちうてますわ」

「買うて、自分でさばかはるん?」

「いやいや、煮付けのおいしい店があるんですわ」

「へえー、教えてもろていいですか?」

 葉子とマスターは、歌声に気がつかない様子だ。京都のにしきどおりにある食品市場にすっかり話題が移ってしまっている。

「どうしたん桃花、外なんか見て怖い顔して」

「う、うん。ちょっとね」

 鬼が北野天満宮の方角へ去っていくのを見届けながら、バッグを探る。

「用事思い出しちゃった。友だちに電話するから、外に出るね」

 ここで話してもかまわないと言うマスターに「いいんです、うるさくしちゃうから」と断って外に出る。

 まわりに人影も鬼の姿も見えないのを確認して、晴明の家の固定電話にかけた。

《どうした》

 すぐに、晴明の低い声が聞こえてくる。安堵の息をつくひまもなく、桃花は訴えた。

「上七軒で鬼を見ちゃったんです。『通りゃんせ』を歌う鬼っ。近所でも噂になってるってお店の人が」

《ほう》

 桃花からことのあらましを聞いても、晴明は普段通り平静そのものだった。

《上七軒と言えば、西陣の南の方だな》

「そうですけど」

 むろまち時代、おうにんの乱で京が戦乱のさなかにあった時、西軍が本陣を置いた場所を西陣という。のちに西陣の一角にできた花街が上七軒だ。

《西陣にも私の部下がいる。探らせておこう》

「は、はい……」

《見張りに、双葉を送る。危なければ私のところへ飛んできて知らせるように、な》

「ありがとうございます」

《気にするな。近所づきあいは大切だと、篁から言われている》

 冗談なのか本気なのか、真面目な口調で晴明は言う。

《だから桃花は安心して、いくらでも食べるといい》

「太るから嫌ですっ。そこは普通に、食事を楽しめとか言いましょうよ?」

 電話の向こうから、クックック、と悪役めいた笑いが返ってくる。

《桃花は篁に似ているな》

「男の人ですよね? 篁さんは」

《外見ではない。小言の細かさが似ている》

「ああもう、切りますよっ。双葉君によろしくお伝えくださいっ」

 また悪役めいた笑い声が聞こえる。桃花はそのまま電話を切った。

「おーい桃花、お待たせー」

 北野天満宮とは反対の、大通りの方から良介が歩いてくる。

「迎えに来てくれたのか? 葉子さんは店ん中?」

 早く酒と食事を楽しみたいのか、良介の話し方はせわしない。

「うん、お母さん、マスターと錦市場の話してたよ」

「錦市場なあ、行ってみたいなあ。今日は授業で何やった?」

 聞いてくれるのが嬉しくて、桃花は急いで授業の内容を思い出した。

「数学で因数分解とか、物理でリンゴと鳥の羽根を同時に落とす動画とか」

「おー、真空にリンゴと羽根を落としたら同時に着地するあれな! お父さんが高校の時にもやったよ、懐かしい」

「そうなんだ?」

 父親にも高校生の頃があったなんて、当たり前のはずだけど不思議だ──と思いながら桃花は店の扉を開けた。

「お母さーん、お父さん来たよー」

「おつかれー、良介さん」

「いらっしゃいませ。旦那さんは何か飲んでいかれますか?」

「じゃあ、アイスティーお願いします。あー喉渇いた」

 大人たちの会話を聞きながら、内緒内緒、と桃花は思う。

 晴明は単なるお隣さんで家庭教師のようなもの、と両親は思っているので、鬼だの式神だのと事情を話すわけにもいかない。

 喫茶店を出て目的のレストランへ歩いていると、一羽のツバメが飛んできて桃花のまわりをくるくると旋回した。目で追っているとツバメは上昇し、宙をキャンバスに数字の「2」をえがいてみせた。

 ──2……ふたつ……ひょっとして双葉君?

 ツバメの細い背中に白いぼうせいが記されているのを、桃花は見た。すさまじい速さで、しかも薄闇の中で飛ぶ姿を正確に捉えられるのを、自分でも不思議に思う。

 ──晴明さんの式神だから見えるんだ。わたしは普通の女の子。うん間違いない。

 自分に言い聞かせていると、前を歩く良介たちがツバメの姿に気づいた。

「ツバメが低いとこを飛んでるなあ。雨が降るらしいよこういう時は」

「知ってるて。虫が低いとこ飛ぶからやろ?」

 そうではない。このツバメは、餌を求めて飛ぶ普通の生き物ではない。

 ──もうわたし、お父さんやお母さんとは違う世界を見ちゃってるんだ。

 そう思うと楽しくもあり、心細くもある。



 帰り道、父親の車の後部座席で桃花はうっとりしていた。

 ──おいしかった。今度いつ行けるかなあ。

 京都盆地の土で育った柔らかなまつと日本海のイカのパスタ、近江おうみぎゆうのソテー、そして何より、冷たくまろやかなアルバラシンチーズのタルト。

 舌だけでなく体全体に、美味の余韻が残っている。たとえ鬼を見てもおいしいものはおいしいのだ。

 ──大丈夫。だって晴明さんには事情を話したし、これから西陣を離れるところだもんね……。

 信号待ちで止まった車の中で、うとうとと眠りかける。外ではきっと、ツバメに変化した双葉が追ってきてくれているだろう。

 前の座席では、両親が話している。明日の天気、今日食べた食事、今度はバスかタクシーで来てワインを飲みたいこと。

 とりとめのない和やかな会話をぼんやりと聞いていると、聞き覚えのある声が突然割りこんできた。

 ……この地は、長き戦の地。われに力を与えよや。

 ──あの鬼の声だ!

 眠気に耐えながら、桃花は声の聞こえる方を見た。車の左側だ。

 人が行き交う歩道を、角の生えた鬼が歩いている。着ているのは職人を思わせる黒っぽいだ。

 ──鬼ってみんな、虎のパンツを穿いてるんだと思ってた。保育園でそんな歌を習ったから。

 眠りに落ちる前、われながらのんだ、と思った。自分は鬼の声を耳にし、鬼の姿を見てしまったというのに、この余裕は何なのだろう。

 ──だって、うちのお隣には晴明さんがいるんだもん。

 小さい頃にテレビで見た、変身するヒーローを思い出した。顔をフルフェイスマスクで、全身を戦闘スーツで包み、派手な武器や華麗なキックで怪人を倒す。

 ──わあ、晴明さん、似合わない……。

 想像すると可笑しい。浅い眠りの入り口で、ふふふ、と桃花は笑った。



 紺色がかった薄闇の中、晴明がひどく不機嫌な顔でこちらを見ていた。

「どういう夢を見ているんだ。桃花」

 草地にあぐらをかいた晴明は、じゆうめんをまったく崩さずに言った。

 周囲は、星々の輝く夜の野原だ。さっきまで一緒にいた両親はどこにもいない。

 ああ夢なんだ、と気がついた。

「また人の夢に入ってきたんですか、晴明さん。不法侵入ですよっ」

「不法侵入? 土地や家と一緒にするな」

 晴明はまるでひるまない。

「話は戻るがなんだあの夢は。私はああいう妙な衣装や武器は使わない。ついでに言うなら、蹴りなどという野蛮な技も使わない。それではまるで篁卿だ」

 寝入りばなの夢で、変身ヒーローになった晴明を想像してしまったことを言っているのだった。

「篁さんが聞いたら怒りますよ? あんな穏やかな人を野蛮だなんて」

「知らないのか桃花。あの男は、野性に狂うと書いて野狂と呼ばれた男だぞ」

「ほんとですかー?」

「古典の授業が必要だな」

「えっ?」

「あれはていに仕えた小野篁だ。ぐら百人一首にも篁卿の和歌が選ばれている」

 小倉百人一首ぐらいは、さすがに知っている。まんようしゆうきんしゆうから選ばれた和歌、百首。かるたにもなっている。

「えーと、じゃあ篁さんって、すごく有名な人? で、平安時代の人なんですか?」

「ともかく」

 晴明は指で空中に何かをえがいた。

 黒いもやのようなものが渦を巻いて、星明かりの中で形を取る。西陣で二度見た、作務衣を着た大きな鬼だ。

 ……この地は、長き戦の地。われに力を与えよや。

「ひゃっ」

 鬼の声まで再現されていて、桃花は震え上がる。

「夢を通して、桃花の見た物を見せてもらった。我ながら再現度が高い」

「自慢されても困ります」

「自慢ではない。事実だ」

 堂々としている晴明に、桃花は「もういいですよ」とため息をつく。

「桃花が見た鬼の姿や特徴は、西陣にいるあかねという私の部下に伝える。土地勘もあることだしな」

「伝えるってもしかして、その茜さんの夢に入るんですか? 遠隔通信みたいで便利」

「いや。彼女にそういうことはできない」

 晴明の声には、なぜか憂いが含まれている。

「女の人なんですね」

 とある考えが、ふっと桃花の脳裏をかすめる。

「分かった! その部下の茜さんが好きだから、恥ずかしくて夢の中に入れないんですねっ。きゃー」

 頰に両手を当てて照れていると、晴明は眉一つ動かさずに「ほう」と言った。

「子どもの考えそうなことだが、そういう幼稚な話ではない」

「今すごく失礼なこと言われた気がするんですけど」

「彼女の魂は私の魂よりもずっと古いから、夢の中に入るのは難しい」

「何者なんですか? いくつなんですか、その人?」

「とにかく」

 晴明が右手を一振りすると、鬼の姿が消えた。

「この件に関しては心配するな。鬼と言っても、悪い物とは限らない」

「ほんとですか?」

「宿題だ。『京都にいる悪くない鬼』が何をしたいのか、見つけておくように」

「えーっ、宿題? 学校の勉強と関係ないじゃないですか」

「私の助けを借りずに正解したら、おんみようどうの術を一つ教えてやろう」

「え」

「どうした」

 桃花の脳裏を、映画で見た華やかな陰陽師の活躍が駆け巡る。呪符や儀式を通して都や貴人を守り、鬼神に立ち向かう。

「すごい。……でも、危なくないですか?」

「危ないことは教えない。後が面倒だからな」

「わたし、正解探します!」

「うむ」

「でも何でそんなすごいこと教えてくれるんですか?」

 晴明は草の上に長い脚を投げ出すと、寝転がった。

「何しろ暇だ。賭けでもして遊ばなければこけが生える」

 ──遊ばなきゃだめって、子どもみたい。

 晴明はまさに遊んだ後の子どものようにくったりと寝転がり、星空を眺めている。

「晴明さん、期限はいつまでですか?」

「明日の夕方」

「早いですよ……」

 がっくりと桃花はうつむいた。草地には現実の世界と同じく、春の花が咲いている。

「京都に住んでいるなら簡単だ。顔を上げて励め」

 ──簡単って言われても。

 顔を上げると、星空がぼやけて見えた。


 水中から引き揚げられるような感覚を覚えて、桃花は目を開けた。

 車窓の向こうは夜の街だ。車が走り、要塞のごとく大きな大学の寮に明かりがともり、街路樹の青い葉を照らしている。

 この頃やっと見慣れてきた、丸太町通の眺めであった。

「桃花、よう寝てたやん」

 助手席にいる葉子が、こちらを振り返った。

「うん……。あのね、お母さん」

「何?」

 まだ寝ぼけた状態で、桃花は言葉をつむぐ。

「悪くない鬼って、いるのかな」

「どんな夢見てたんや、この子は」

 笑って前を向いた葉子は、「悪くない鬼ねえ、悪くない鬼……」と独りごちる。

「せや、心当たりがあるわ」

「どんな?」

「児童向けの本で『泣いた赤鬼』って知ってるやろか。出てくる鬼がな、二人とも優しいねん」

「知ってる。人間と仲良くなりたい赤鬼のために、青鬼が悪役を買って出るの」

 しかし、あれはフィクションのはずだ。晴明の出した宿題は「京都にいる悪くない鬼」なのだから、関係ない。

「おれも知ってるよ、悪くない鬼」

 交差点で停車してから、良介が言った。

しゆげんどうの開祖、えんのづぬに仕えた鬼、ぜん。まあ式神みたいなもんだね」

「式神っ」

 安倍晴明の映画や小説を愛する葉子が、興奮気味に反応した。

「お父さん、それって京都の鬼?」

「いや。県の山奥で生まれたらしい。修験道って、山岳信仰と仏教が合わさったようなもので、山で修行するからさ」

「そっか……」

 車が動き出す。

 やはり、正解は自分で導き出すしかなさそうだった。




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