第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀(8)


                   *


 広い河原に夕暮れが訪れて、水が薄紅に染まっている。両岸の白い砂利道にちらちらと動くのは千鳥、かわをかすめて飛んでいくのはツバメだ。少し前まで観光客が行き来していたげつきようは、欄干にもたれて景色を見ていてもつかえないほどがらんとしている。

 京都市東部に住んでいる桃花は、あらしやまでゆっくり時間を過ごすのは初めてだ。鴨川周辺とは別の、清い空気の流れを感じる。


 ──でも、晴明さんたちは別の……歴史の重なりを見てるのかもしれない。


 桃花の右には晴明、左には道真が立っている。かっこいいお兄さんと渋いおじさんが両側にいたら、両手に花ではなく何と呼ぶのだろう、と桃花は吞気なことを考える。


「京都に着任早々、付き合ってもらって悪いな」


 晴明が、桃花の頭越しに道真に話しかけた。桃花はさりげなく頭を低くする。


「いや、とんでもない。私も薬研通の様子と今後が気になる」


 泉屋の虎を金刀比羅宮へ送りだして二日後の宵である。京都へ近づいてくる気配を感じ取り、晴明は双葉をたかに変化させて亀岡市のあたりまで迎えにやり、桃花と道真を連れて京都市西部・嵐山の渡月橋へとやってきたのだった。


「私よりも、桃花さんはよろしかったのですか? 夏休みの宿題もあるでしょう」


 見下ろされて、桃花は「いえいえ」と首を振った。


「晴明さんのお手伝い抜きでも、薬研通さんに会ってみたいです。道真さんがれこんでしまうくらいきれいな刀の魂」


 道真は軽く目を見張った後、子どもを見守るような表情をした。


「桃花さんは、騒速剣の魂と仕事をしたことがありましたね。晴明公から聞きました」

「は、はい。騒速さんに助けてもらいました」


 知らないところで晴明が自分の話をしていたと知り、仕事だから当たり前だと思いながらも照れる。


「私はもともと、物言わぬものたちに惹かれる部分があるのです。書のための墨や筆、そして梅」

とびうめですね。ざいに行った道真さんを追ってきた梅」

「あれは……飛梅は、旅立つ前に私が歌を贈ったため、霊力を宿してしまったのです。無理をさせてしまいました。どうも、生身の人間だった頃から少々の霊力はあったようで」

「道真公、京から大宰府まで梅を飛ばすのは少々の霊力どころではないぞ」

「晴明公には負けますよ」


 真顔で道真は言い返し、「ともかく、物言わぬものたちに私の心は傾きがちなのです」と話を戻す。


「人は自分たちが世界を動かしているつもりだが、草木、岩、水、刀剣やその他の道具など、物言わぬものたちに囲まれている存在でもある」

「人は、物に支えられている……かもしれないですね。畑の土で育った野菜を食べたり、生け花で心が安らいだり」


 一昨日おとといに双葉が生けた朝顔を思う。その日の夕方にはしおれてしまったけれど、自分の心を養ってくれたと思う。


「そう、支えられていますね。あしかがよしまさこうの経済政策がうまく行かなかったのは、明が銅銭の輸出を渋ったからと言われています」


 足利義政と言えば、去年の送り火の頃に出会った冥官・とみひめの夫だ。金集めに明け暮れた悪女という評判を立てられてきた富子の苦しみは、銅銭という「物言わぬもの」を日本に輸入できなかったことからも来ているのだろうか。

 富子は現世を訪れた時、あえて輿こしれ前の少女の姿を取っていた。富子のかなしみを思い、桃花は黙りこんでしまった。


「物が人々の生活基盤を脅かすこともあれば、薬研通とはたけやままさながの逸話のように、物が人を傷つけ得なかった逸話もある」

「畠山政長……応仁の乱で中心になった畠山氏の人ですか?」

「桃花さんは日本史の基礎知識がすぐ出てきますね。さすが晴明公とその教え子です」

「あ、ありがとうございますっ」


 さらりと二人を褒めてから、道真は話を続ける。


「薬研通こと薬研藤四郎は、本能寺の変で燃えた信長の短刀……と語られがちですが、その数十年前にも逸話があります。応仁の乱ののちに起きた、めいおうの政変」

「明応の政変、ですか」


 まだ習っていない気がする。


「簡単に言えば、畠山政長がほそかわまさもとに負けた事件です。敗北を悟った畠山政長は粟田口吉光──別名藤四郎作の短刀で自らの腹を切ろうとしたが、できなかった。腹を立てて短刀を投げ捨てたところ、薬研に突き刺さった。畠山政長は、臣下から渡された別の刀で腹を切った。薬研は突き通しても主の腹は切らなかった、忠義の短刀薬研通、というわけです」

「つらい由来の名前だったんですね……。本人に会っても、はしゃがないようにしないと」


 暮れなずむ空と、それを映す川面を見る。双葉はどれくらいの高度でやってくるだろう。泉屋の虎と水飲みの虎たちは、薬研通は疲れていないだろうか。


「桃花は感化されやすい」


 時刻表を読み上げるような簡潔さで晴明は言った。


「悪いですか?」

「悪くはないが、『薬研通』の名はきようじんさをたたえる誉れでもある。そう思って名を呼んでやれ」

「はい。……晴明さんはわたしほど感化されやすくはないけど、わたしより優しいですよね」


 左上から「んんふぉ」と道真の笑い声が降ってきた。右上からの晴明の視線が痛い。


「いやはや、失礼。そら、西から金の気がやってきましたぞ」


 西の空を道真が指さした。

 赤みの消えかけた宵の空に、鷹の舞うシルエットが見える。川に沿って、黄金色の蝶の群れに似た何かが近づいてくる。


「ああ。屛風にかれた金もまとって、金刀比羅宮の虎が来た。金の気を持つ武器を連れて」


 晴明の言葉は分かりやすいものではなかったが、陰陽術に関することだと桃花にも分かる。金の気を持つ武器とは、鋼でできた短刀つまり薬研通のことだろう。


「秋には、金の気が盛んになる。それを生かされたのですな」


 道真は、軽く手を振った。川辺を舞いながら近づく黄金色の霧に向けて。


「道真公! 迎えに来てくださったのですか!」


 爽やかな声が上がり、道真は破顔した。身を翻して、渡月橋のたもとに向かう。


「失礼。お先に川辺に下ります」

「私たちも行こう」


 桃花を促して、晴明も橋を渡る。すでに閉店した土産物屋を横目に見つつ、河原に下りた。


「双葉、来い」


 晴明が着物の両袖を広げる。鷹は滑空してその胸に飛びこんだかと思うと、藍色のじんを着た少年の姿になった。晴明と並ぶと、まるでとしの離れた兄と弟が夕涼みをしているようだ。


「ご苦労、双葉」

「お疲れさま、双葉君」


 桃花とハイタッチをして、双葉は胸を張った。


「薬研通どのを先導するのは、いさましき心地がしました」

「双葉君も男の子っぽいね、そういうとこ」


 黄金色の霧が真っ二つに割れる。

 猫の目をした大きな虎が、水干姿の若者を乗せている。泉屋の虎と薬研通だ。後ろから追ってくる親子の虎は、金刀比羅宮の水飲み虎だろう。


「薬研通……」


 道真が河原の石を蹴って駆け寄ると、若者は虎の背から飛び降りた。そのまま跳んで、道真に突進した。


「な、何たる勢い。さすがは薬研を貫き通す短刀」


 受け止めた道真は、うめくように言いながらよろめいた。それでも腕はしっかりときやしやな水干姿を抱えている。


「道真公、道真公。ご尽力ありがとうございます。きっと何とかするというお言葉通りに、みどもを京へ帰らせてくださった」


 顔を道真の胸にうずめるようにして、薬研通は言いつのる。

 薫風を思わせる声は少年のようでもあり、声の低い女性のようでもあった。鋼じみた光沢を帯びた黒髪はしなやかで、うなじは白い。桃花はおうに居合わせてしまったようで少々落ち着かない。


「いや、とんでもない。途中で置いていった力不足を悔やむばかりだ。何とかしてくださったのは、そちらの安倍晴明公だ」


 水干の肩をつかんで、道真は薬研通を晴明に向ける。

 薬研通の顔を初めてはっきりと見て、桃花はためいきを漏らした。白くふっくらした頰にはかなげな細い顎といい、長いまつに青みがかった瞳といい、まるで美しい少女のようだ。それでも肩の張りや胸元は十代後半の少年を思わせる。


 ──宝石みたい。硬そうなのに愛らしい。


 うっとりしている桃花をよそに、薬研通はぎこちない動きで道真から離れた。


「し、失礼いたしました。双葉殿から晴明公とそのお弟子についてお聞きしていたのですが、道真公のお顔を見て我を忘れてしまいました。恩知らずとお笑いください」

「やや、とんでもないですっ。不安だったお気持ち、分かりますから」


 手をわたわたと振りながら、桃花は心臓を高鳴らせていた。


 ──薬研通さん、それは、恋では? 冥官と刀の魂の恋って、どうなるの?


 たった今見た抱擁が薬研通の顔に重なる。ごとだが無性に恥ずかしい。


「銘刀『薬研通』。よく京に戻ってきてくれた」


 落ち着いた声で晴明は言った。


「京を恋しく思うその心をもって、京の結界を守ってくれまいか」


 ──晴明さん、単刀直入ですね。短刀だけに。


 こんな時にじやが浮かんでしまうのは、安心感からだ。道真、晴明、双葉、応挙の虎たちによって導かれたこの短刀の魂が悪さをするとはまったく思えないのだ。

 薬研通は一瞬目を伏せ、胸元に手を当てた。


「お言葉、ありがたく……。しかし晴明公。京のいずこを、みどもに守らせるおつもりですか」

「京の東の入り口、粟田口だ。刀匠・粟田口派が居を構えた土地でもある」

「それは」


 薬研通は、しばし黙った。足元にすり寄った子虎の背をなでて、口を開く。


「粟田口は故郷。粟田口派の刀たちが生まれた場所。かえって、切のうございます」

「分からぬでもない」


 晴明は怒ってはいないようだ。

 道真は両手を組んで晴明と薬研通を見守っている。


「晴明公。叶うならば、みどもはこの嵐山の地にて京を守りとうございます。遠くから粟田口を思いながら京を守りとうございます」

「それは良いな」


 眉を軽く上げて、晴明は面白がっているようだ。


「分かった。京の東の入り口は、ようの生まれ変わりに守らせよう。東を守る四神・せいりゆうとともに」


 ──おちゃんのこと?


 として生まれ変わったふじぎつね、今の名をお富士。

 晴明が少年だった頃に人をだまして封じられ、この春にも狐の花嫁行列を妨害した。しかし今は、優しい野狐の夫婦のもとで健やかに育っている。


「怖い顔をするな、桃花。心配しているのは分かる」

「怖い顔、なってますか?」

「お富士の成長に合わせて仕事を任せる。青龍と、ふしいなの神にも手伝わせる」

「それなら、安心です」


 晴明は、薬研通に近づいた。


「薬研通には、京の西を守る白虎を添わせよう」


 応挙の虎たちが猫に似た声で鳴き交わす。

 渡月橋のたもとから、白い獣が悠然と歩いてくる。

 雪をかぶった山並みのようなたくましい背中だ。

 金色の両眼が夕闇に光っている。


「白虎。仲間を連れてきた」


 晴明の声に、白虎は「おう」と短く返事をした。声は大人の男性だが、姿は本物の虎とほぼ同じ大きさだ。

 応挙の虎たちがそろそろと白虎に歩み寄り、鼻を鳴らす。


「きれいな刀が来たものだ」


 白虎の視線を受けて、薬研通は肩をすくめる。


「み、みどもの本体は、錆びているのだぞ。きれいなどと」


 鼻を鳴らしていた応挙の虎たちが、白虎にすり寄る。

 白虎は目を細めて喉を鳴らし、機嫌が良さそうであった。



第三十七話・了



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