第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀(7)
*
街路樹の緑が
道行く人々は「暑いなぁ」と挨拶していたり、晴明の着物を見て感心げな顔をしたり、応挙の虎にはまったく気づいていない様子だ。
晴明が家の門を開ける。応挙の虎はおずおずと左右を見回しながらついていく。
尻尾が水平よりもやや高めに上がっているので、警戒しているようだ。
──もし、猫と同じ性質だったらだけど。
桃花は虎が大人しいのを確認してから敷地内に入り、門の格子戸を閉めた。
「ややや、これは、晴明様、桃花殿」
縦長の庭石から、渋みのある男性の声がした。
「あれまあ、応挙さんの虎じゃありませんか?」
横長の庭石から、優しい女性の声がした。
庭を守る式神、
「お前たちと同じ、付喪神だ。泉屋博古館から連れてきた」
「もとの応挙さんの絵は、そのまんまですよー」
晴明と桃花の報告に、式神夫婦は「ほほう」「あらまあ」と嘆声を上げた。
「なんと、この家を守っていると珍しいものが次々に見られるものだ」
「本当にねえ、あなた」
夫婦の話し声とともに、縁側の簾が上がって掃き出し窓が開く。
「ご苦労」
晴明がそう言って
「いつもありがとうございます、縦石さん横石さん」
桃花も縁側から板の間に上がる。式神夫婦は、戸締まり関係も担ってくれる有り難い存在だ。
「応挙の虎は、そこで待て」
晴明に命じられて、応挙の虎は
「双葉、瑠璃を呼んできてくれ。二階で寝ているようだ」
人の形をした紙片が晴明の手から躍り、双葉の姿となって着地した。
「晴明さま。おことばですが、るりが虎をこわがりませんか?」
「心配は要らん」
「はい。では、すぐに」
──双葉君、優しい。細かいところまで気がついて。
自分も家で猫を飼っているのに気が回らなかった、と落ちこんでいる間に、双葉が瑠璃を抱えて縁側に戻ってきた。
「来い、泉屋の虎」
晴明は、青楓のそばに控えている虎をそう呼んだ。泉屋博古館から取ったのだろう。
のしのしと歩いてきた泉屋の虎は、薄青い目で瑠璃を見つめた。
瑠璃は双葉の腕から縁側に下りて、鼻をうごめかせている。
泉屋の虎も同様に、鼻で匂いを探っている風だ。
瑠璃が縁側の端に寄る。泉屋の虎が、ゴロゴロと喉を鳴らした。
黒く大きな鼻先と、ピンクの小さな鼻先が触れ合うのを桃花は見守った。
「生存競争が関わっていなければ、虎や猫のたぐいはこんなものだ」
「だから、泉屋博古館から連れてくる時も大人しかったんですね」
怖がって悪かった、と反省する。
「京都の西を守る白虎も、虎の形をした付喪神に会うと喜ぶ。猫同士が毛づくろいをするのと似たようなものだ」
「もしかして白虎様は、もふもふした可愛い虎好き?」
「そうとも言えるかもしれん。さて」
晴明は本棚から一冊の本を出してきた。書名は『もっと知りたい 円山応挙』とある。版元は美術関係の出版社だ。
「これが、金刀比羅宮にいる応挙の虎だ。通称『水飲みの虎』という」
見開きページに現れたのは、
ゆるいV字型の谷に、小川が流れている。右側の岸には大きな虎、左側の岸には小さな虎がいて、顔を向かい合わせる格好で水を飲んでいる。
「親子の虎ですよね。子虎、可愛い」
子虎は脚が短くもこもことした体形で、猫の
左上の岸壁には真っ白な滝が流れ、虎の親子が飲む水の
よく見ると親虎も子虎も瞳孔が一直線で、泉屋の虎によく似ている。
「泉屋の虎。お前の兄弟だ」
猫に似た大きな虎は、金で彩られた水墨画を見て喉を鳴らしている。
「お前の兄弟を、京へ連れてきてくれないか。親虎の背に、薬研通の魂を乗せて」
そういう手筈なのか、と初めて桃花は理解した。虎の縁を生かすとは、同じ作者が描いた虎同士の
泉屋の虎は、晴明の手の甲に額を擦りつけて大きく喉を鳴らした。
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