第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀(6)
*
泉屋博古館は、白川通と
常設展示は古代中国の青銅器だが、今日は見ている余裕がなさそうだ、と晴明は言った。残念ですね、と言いながら渡り廊下を行けば、梅が青葉を広げる庭の向こうに東山山麓が見えた。
「応挙の虎は、猫に似ている。黒目が縦の線になっていて、体つきが柔らかい。なぜだと思う?」
渡り廊下を歩きながら、晴明が問題を出した。
「うーん、江戸時代だから動物園がなくて、虎を見られなかったから?」
「当たりだ」
「やった」
「応挙も虎の毛皮を写生するなど、努力はしていたのだがな」
「虎の
桃花が引き合いに出したのは、室町時代の禅僧・
将軍
「本当の話だと思うなよ」
「え、ほんとの話かと思ってました」
「足利義満はそこまで
そんな話をしているうちに別館にたどり着く。瑞獣を題材にした展示はこちらが会場だ。
「桃花が猫好きで良かった」
ぼそりと言って、晴明は別館に入っていく。
──どういう意味ですか?
場所柄余計なおしゃべりをするわけにもいかないので、桃花は黙ってついていった。
黄金の糸で龍が
座ってこちらを向いた虎は、晴明の言った通り猫に似ている。縦長の瞳孔はまさに猫の目、小さな丸い耳はそういう品種の猫に見えなくもない。
舌を出しているので、どうやら毛繕いの最中のようだ。
──か、可愛い……。
危険なはずの虎だが、桃花はいつまでも見ていたくなってしまう。ちょろりと舌の出た口元が、特に魅力的だ。
──よく見たら、舌先に赤、目に青が薄く入ってる。この微妙な色づき具合、絵だけじゃなくメイクに活用できちゃったりする?
隣で晴明が腕を組むのが視界の隅に入った。一方の手指に呪符らしき紙片が挟まっているように見えて、桃花は晴明に身を向けた。
──いる。虎が、いる!
晴明の膝あたりに、ふっさりとした
──猫が好きで良かったって、こういう意味だったんですね。
桃花は口を引き結んで、晴明から一歩離れた。たいていのことには慣れたが、本当に虎が出てきてすり寄ったら怖い。たとえ猫に似ていても、だ。
「ちょうど展示中で良かった」
ただの日本美術好きのような口調で、晴明が言った。
ガラスの向こうの掛け軸では、応挙の虎が変わらず舌を出している。
「そうですね……」
もう展示室から出ようというのか、晴明は出口へ歩いていく。尻尾を立てた虎も一緒だ。二、三歩遅れて桃花もついていく。
──晴明さん、この間は
心配になってくる。いくら応挙の名作とはいえ、晴明に悪影響はないのだろうか。
晴明が足を止める。大きなテーブル状の展示ケースを
──急いで帰るんじゃないんですか?
「
──西王母。去年の秋に話していた……。
去年の中秋の名月に、晴明と桃花は月に
その時嫦娥は言ったのだ。
西王母の桃は近々のうちに実る、と。
晴明の表情がわずかに動揺していたので覚えている。
──あの後わたし、西王母や西王母の桃について全然調べなかった。怖くて。
遠い世界と晴明との関わりに触れるのが怖くて、頭から追い出していたのだ。
しかし今、晴明は桃花が展示ケースの中身を見るのを待っている様子だ。応挙の虎も晴明の脚に寄り添いながらこちらを見ている。
「あまりよく、知らないですけれど……」
言い訳のようにつぶやきながら、桃花は展示ケースを覗きこんだ。
白い布に墨一色で、冠をかぶって座る女性と従者たちが表されているようだ。
展示物は「西王母画像石拓本」と名付けられている。
──拓本。石碑や石像に布を当てて、墨をつけて彫り物を写し取ったものだっけ。
時代は「
千七百年以上前の技術だからか、それとも作風なのか、あまり細密な意匠ではない。絵本のようにのどかで素朴な絵柄に思える。
西王母は、龍の尾と虎の頭をかたどった横長の玉座に座っている。従えている従者の中には二本足でひざまずく
「
晴明が、独り言のようにつぶやく。言われてみれば、分岐した多くの尾を持つ獣と三本足の鳥も西王母のそばに
「図録も買って行こう」
これ以上のおしゃべりは無用とばかりに、晴明は歩きだす。一方の手で応挙の虎をなでているあたり、すっかり順応している。
「……晴明さん、この虎は?」
東山を望む渡り廊下に出てから、小声で聞いてみた。虎は晴明に寄り添うように歩き、身を
「
付喪神とは、年を経た器物が変じたあやかしだ。応挙が亡くなってから百年以上
「虎、というか……猫虎ちゃん、って感じがしてきました」
桃花は晴明を間に挟んで、猫虎の顔を見た。白黒の毛皮に薄青い猫目が愛らしい。
「よろしくね」
みゃおう、と猫そっくりの返事が返ってきた。
「ね、猫?」
「当然だろう。応挙は虎の鳴き声を知らず、猫を参考にこの虎を描いたのだから」
「江戸時代に動画サイトもレコーダーもないですもんね」
「そういうわけだ。すぐ出てしまって、悪いな」
思ってもみないことで謝罪されて、桃花はつい晴明の肩をぽんとたたいた。
「いいんですよっ。早く、薬研通さんを京都に呼んであげなきゃ」
「そうだな」
──馴れ馴れしくしすぎた。変に思われたかも。
自分の気持ちが気づかれていませんように、と桃花は祈った。
渡り廊下を一匹の蟬が横切り、植え込みで激しく鳴きはじめた。
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