第五話 舞妓の神様(5)


 時刻は午前二時になろうとしていたが、八坂神社の境内は星明かりで薄明るい。

 ここは本殿の東側、美御前社の前だ。

 連なるオレンジ色ののぼりには、白くふっくらした女性の顔と、「美の神 美御前社」と赤い文字が描かれている。

「何事にも形は大切だ、桃花」

 目の前に立つ晴明が、桃花を見下ろして言った。琥珀色の髪が夜風に揺れ、ほのかな明かりがスーツの肩を照らしている。

「私は学校の勉強と陰陽道について教える立場。君は現世のことを教える。……つまり陰陽道については私が先生だ」

 ──珍しく、くどいです。晴明さん。

 桃花は両翼を広げてみせた。

 今夜は、三隅の家を見に行った時のようにフクロウになっているのだった。

「不満か?」

 ──不満です。喋れないんですよ。

「仕方あるまい」

 ──境内に侵入した時は、わたしはフクロウで晴明さんはオオタカの姿だったじゃないですか。どうしてわたしだけ、もとの人間の姿に戻れないんですかっ。

 くちばしからホウホウと声が出る。晴明は、石碑にとまっている桃花を見下ろして言葉を継ぐ。

「もし警備員に見つかった時、どうするんだ。私はどうとでもなるが、普通の人間である桃花は逃げられない。フクロウになっていれば飛んで家まで戻れるだろう」

 懇々と諭されて、桃花は諦めた。

 ホウ、と一声鳴いて足元を見下ろす。

 石碑には「身も心も美しく 美容水」と彫り込まれている。脇のささやぶから伸びた竹筒がちろちろと水を落とし、石の水盤にたまっている。美容水と呼ばれる、この社のしんすいだ。

 ──ねえ晴明さん、うつくし御前と約束した午前二時はまだですか? チック、タック、チック、タック。

 時計の秒針のリズムで体を左右に揺らすフクロウを見て、晴明が目を細める。笑ったのだ。

「桃花、それでは時計の針ではなくメトロノームだ」

 ──意図が通じたんだからいいじゃないですかー。

 めげずに桃花は胸を張ってみせた。

「約束の時間まで少しある。うつくし御前の話をしてやろう」

 晴明は、かがんで指先を水盤に浸した。

 たちまち赤や青の色彩が躍り、渦を巻く。

「この美御前社に祀られているのはもともと三人の女神だ。むなかたさんじよしんと呼ばれる、人前には滅多に姿をあらわさない力の強い神」

 桃花は水盤を覗き込む。

 渦がうねり、だんだんと一人の女性の姿を現しはじめた。

「人々は、この社を『うつくし御前様』と呼んで信仰し続ける。祀られた宗像三女神は、何とかして応えてやりたいと思う。そこで本当に、『うつくし御前』という名の女神が生まれた」

 水盤に現れたのは、昼間に見かけたうつくし御前だった。赤と黄色の衣に包まれた姿は、べにばなの精のようだ。

 うつくし御前の姿がゆがみ、服装と髪型が変わった。

 ──ん? これ、同じ人?

 着ている洋服は明るい色のスーツで、シルエットがやや昔風だ。

「この姿は二十年前、服屋の店員だった頃」

 ──女神様が、服屋の店員だったり置屋のまかないさんだったりするんですかっ。

「服屋に勤めているのに化粧の仕方や服の選び方がな女性が参拝に来たので、同僚になって助けてやったらしい」

 ──いい女神様だあ。

「宗像三女神がうつくし御前を生み出して、うつくし御前は直接人に関わって助ける。身を美しく保てるように」

 ──そうだったんですね。

「服屋を辞めた後は、化粧品屋に勤めたそうだ。働き者の女神で感心する」

 ──晴明さんは、茜さんのおうちでも寝っ転がっちゃいますもんね。

 桃花がホホウホウホウと笑い声めいた声を出すと、晴明は軽く眉を吊り上げた。

「何か言いたそうだな、桃花」

 ──いーえー。

 桃花は晴明から目を逸らした。すると、赤と黄色の古代めいた衣をまとった女性が本殿の脇から出てくるのが見えた。

「うつくし御前」

 近くまで歩いてきたその女性を、晴明が呼んだ。

「良い夜でございますね」

 昼間出会った時とは違い、うつくし御前の声は厳かだった。

 夜風に吹かれて、水晶のかけらが舞うかのようだ。

「置屋の女将を困らせているそうだな」

 晴明の言葉にとがめるような響きはなかったが、うつくし御前は長くゆったりした袖で顔を隠してしまった。

「われの落ち度。置屋のまかないをするということは、寝起きをともにするということ。人間ほどものを食べられぬと、気づかれてしまう」

「女将は、あなたに悪霊が憑いたと思い込んでいる。時々ある話だから無理もない」

 晴明を見上げて、桃花はホウホウと鳴く。

 ──時々ある話って。大丈夫なんですか世の中。

「うつくし御前。場合によっては、手を貸せるかもしれない。なぜ奇異の目で見られてまで祇園でまかないをしているのか、教えてもらえまいか」

 晴明の言葉に敬意を感じ取って、桃花はうらやましくなった。人間と女神では格が違うと分かっているが、羨望はそんな理屈でねじ伏せられるものではない。

「今年の春の初め、置屋に入ったばかりの少女が一人、ここへお参りに来たのです。顎の先に、ニキビがぽっつり二つできていて気の毒でございました」

 ──いやですよねえ、ニキビ。……って、その見習いさん、わたしが昨日助けた人じゃ? だって祇園だし、顎にニキビ二つだし!

 桃花がフクロウの姿で首をこくこく縦に動かすと、うつくし御前はこちらを見てさびしく笑った。

「舞妓になるのに、顎にニキビができやすい体質では話になりません。中学を出てすぐに置屋に入ったのに、舞妓にはなれません、となっては一大事」

 ──あっ、舞妓見習いさん、わたしと同い年。

 共通点に思い至った途端、相手の事情の深刻さがさらに身近に感じられた。

「ちょうど置屋で、まかないの女性が高齢でやめる予定と聞きまして」

「で、うつくし御前が入ったか」

 晴明は得心したようだ。

「はい。食べるもの、つまり体に入るものを変えれば、じわじわと体の性質は変わりましょう。若い体なら、なおさら」

 うつくし御前は、視線を宙に向けた。

「前任のまかないの女性は、生野菜を盛んに出す傾向があったようです。それでは、もともと胃の荒れやすいあの少女のニキビに拍車をかけてしまいます」

 ──食べ過ぎると消化に良くないんだっけ、生野菜。

 桃花は家庭科の授業を聞いているような思いで、うつくし御前の話に耳を傾けた。

「ですから、われは煮炊きした野菜をいろいろと食べられるように工夫の限りを凝らして参りました。今日八百屋で聞いた青じその湯通しなど、たいへんありがたい発想で……」

 ──この女神様、こうごうしいのか所帯じみてるのか分かんないなぁ。

 神様や陰陽師には変わり者が多いのだろうか、と桃花は失礼なことを思った。

「どうやって置屋に潜り込んだ。いつもの暗示か」

「ええ、知り合いの娘だと女将に思わせて……そこまで工夫しましたのに、喫する飯の量の少なさで疑われてしまうとは」

 うつくし御前は悲しげにうつむいてしまう。晴明は、同情するでもなく馬鹿にするでもなく、女神の姿を見据えている。

 ──どうにかしてあげるんですよね、晴明さん。

 期待をこめたまなざしで桃花が見上げると、晴明はいきなりうつくし御前の腕をつかんだ。



【次回更新は、2019年10月24日(木)予定!】

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