第五話 舞妓の神様(6)
──うわ、どうしたんですかっ。
「すまないが、私からうつくし御前に働きかける力は大きいほどいい」
意味不明だが、腕をつかむのもやむなし、と言いたいらしい。そのまま晴明は、美容水をたたえた水盤の元へとうつくし御前を連れていく。
「見ていろ。水に呪符を書く」
──水に書けるんですか、それ?
桃花は足元に広がる小さな水面を見下ろした。
晴明が人さし指を立て、水面に正方形を描く。その中央に記された文字は、
蚕
桑の葉で育つ、繭が絹の原料となる、あの虫を表す一字であった。
「口を開けろ、うつくし御前」
晴明の指が水面から跳ね上がる。
飛んだ水しぶきがいくつかの
──な、なんだろう、いけないものを見ている気がする……。
水を飲んだうつくし御前は、首の付け根に手を当ててうっとりと目を閉じている。
晴明は、うつくし御前の顔を間近から見下ろしていた。
「蚕はすさまじい量の桑の葉を食べる。成長し、美しい繭を紡ぐために」
──この人は今、まじないをかけているんだ。
桃花は晴明の姿に見入った。
うつくし御前の声が水晶のかけらなら、まじないをかけている晴明の声は
「うつくし御前よ、蚕のように喫するがいい」
「はい……」
女神に体質があるならば、今、それが書き換えられている。
「ありがとう、存じます……」
うつくし御前が目を開いた。
晴明は何歩か下がると、女神に向かってうやうやしく一礼した。
今までのいささか乱暴な態度は、まじないをかけるために必要だったのかもしれない、と桃花は思った。
*
四条通は賑やかな大通りだが、市街の西部、
古いビルが並ぶのを見下ろしながら、桃花は笑みとなってあふれ出る期待感をこらえきれずにいた。ビロードのソファに座っていても、体がふわふわと浮いてしまいそうだ。
「湯に漬けた餅のように溶けているぞ、顔が」
晴明のたとえは相変わらずひどい。転んだ舞妓だのふぐだのと、ろくなものにたとえない。しかし桃花は怒らない。高校生だけでは入りづらい、大人っぽい老舗のフルーツパーラーに付いてきてくれたのだから。
「まだかなあ、初夏の宝石パフェ」
紫のブドウ、黄緑のブドウ、白い桃に黄色いオレンジ。色とりどりの
「初夏のパフェではだめなのか」
晴明が不思議そうにつぶやいた。
「だめってわけじゃないけど、夢が足りないと思います」
ふ、と小馬鹿にしたように晴明が笑った。
何が言いたいのか、桃花には一応分かる。
「そりゃあ一週間前、真夜中にうつくし御前と出会ったことの方が夢っぽいですけど。でもそれとこれとは別なんですっ」
「まだ何も言っていない」
晴明の口調は
──どうしてこんな意地悪な人と、おいしいもの食べに来てるんだろ。よくよく考えたら学校の友だちで、大人っぽくて静かな感じの子と来ても良かったのに。
実のところ、答えは分かっている。
自分は晴明と一緒にいる時間を楽しんでいる。恋かと誰かに聞かれれば、全力で首を左右に振って否定したいけれど。
「昭和の面影がある」
晴明はぽつりと言い、四条大宮の街を眺めている。
「ピンとこないです。わたし、生まれる前ですもん」
「ああ。私も詳しくは知らない。休暇の時以外はほとんど冥府で働いていたからな」
桃花には詳細の分からない話をして、晴明は窓の外を見続けている。
手持ち無沙汰になって、桃花は手元の薄い雑誌を開いた。
このフルーツパーラーを知るきっかけになったタウン誌だ。巻頭特集は「地元の旅行会社・
──観光で見る京都は「和風!
先ほど注文した「初夏の宝石パフェ」の紹介記事を見ながら、まだかなあ、まだかなあ、と思っていると、重厚な木の扉が開いた。
「三時に予約しました、初花です」
まろやかな声で言ったのは、あのうつくし御前だった。薄手のニットに細身のパンツを合わせている、現代風の装いだ。一緒にいるのは上品な着物姿の女性で、年齢は六十歳過ぎに見える。置屋・初花の女将だろう。
こちらに気づいたうつくし御前は、晴明を見てあるかなきかの微笑を浮かべた。
「お待ちしておりました。すぐご用意いたしますので」
店員が、カウンターに近いテーブル席へ二人の女性を案内する。
すぐに二人前の大きなパフェが置かれたのを見て、桃花は内心であっと叫んだ。
──予約! お得意さんが予約すれば、ちゃんと時間通りにパフェが作られて出てくるんだ! うらやましいっ。
「見過ぎだ」
晴明に短く指摘され、慌てて視線をタウン誌に戻す。
「そやけど心配したえ、メグミちゃん」
女将がうつくし御前に話しかけた。気になって、桃花はそっと二人の席を盗み見る。
「女将さんには、えらい気苦労かけてしもて」
うつくし御前は、パフェスプーンを手にしたまま申し訳なさそうに微笑む。
「かまへんのんえ。かんざし屋さんのお知り合いがあれしてくれはって、効いて良かったなあ」
女将はクリームを控えめにすくい、口に入れた。
──本当は、「古い占いやまじないを研究している先生が、何だか分からないけど何かをしてくれて解決した」……ってことなんだろうけど、お店の中で他の人も聞いているから「あれしてくれはって」で済ませたんだ。
そこに気づくと、人の会話とは面白く、少し怖い。
「おいしおすなあ」
女将がまた一口、パフェをすくう。
はい、と応える「メグミちゃん」ことうつくし御前も、ためらいのない動きでパフェを口に運んでいる。
──良かった。あの、水面に「蚕」と書いたまじないが効いてるんだ。
気がつけば、晴明も窓の外から目を離し、二人の花街の女性に注目している。
「上々だ。うつくし御前に宿った『蚕』の
晴明のつぶやきは難解だったが、木漏れ日のように暖かい響きを伴っていた。
「あ、ひょっとして。晴明さんっ」
桃花はつい前のめりになる。
「どうした」
「栄養を食べてくれるってことは、あのまじないはダイエットに効くんですか? たくさん食べちゃった時にお願いしていいですか?」
「断る」
晴明は嫌そうに言うと、ソファにぐったりと背中を沈めた。
店員がこちらにパフェを運んでくる。
初夏の宝石パフェと、桃花が半ば強引に晴明にすすめた抹茶フルーツパフェだ。
「ああいう甘味は初めて食べる」
晴明のかすかなつぶやきが聞こえた。静かに感じ入っているような響きであった。
その表情を壊したくなくて、桃花はしばらく黙っていることにした。
本当は、いつまでお隣さんでいてくれますか、と聞いてみたいのだけれど。
第五話・了
=============================
『おとなりの晴明さん』シリーズ第一集~第五集まで、大好評発売中!
「陰陽師・安倍晴明」が悠久の古都・京都で紡ぐ、優しいあやかしファンタジーをぜひご覧ください!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます