【毎日更新】おとなりの晴明さん 第八集 ~陰陽師は金の烏と遊ぶ~【大ボリューム試し読み】
第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀
第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀(1)
赤い金魚柄のうちわで、寝そべった白猫をあおいでいる。
藍染めの座布団に長々と身を伸ばす姿は、晴れた夏空を飛んでいるかのようだ。
白猫は青い目をゆったり
「気持ちいい?
静かにうちわを動かしながら、
瑠璃は普通の猫ではない。もともとは生まれたばかりで命を落とした猫の魂だが、この家の
ある意味、桃花と似た運命の猫ではある。
大病もなくもうすぐ十七歳を迎えられる自分と瑠璃を比べるのは傲慢なことに思えて、決して口には出さないのだけれど。
──不思議だけれど、いい人に出会えたよね。瑠璃ちゃんもわたしも。
この家の主──平安時代に活躍した
「るりを見ていてくださってたすかります、桃花どの」
紫の朝顔を手にした、十歳くらいの少年が言った。晴明のそば近くに仕えている式神の
「助かるって、どうして?」
桃花は何となく双葉もあおいでやりながら聞いた。
「晴明さまが
「そっか、『お帰りなさい』の生け花だね」
板の間の中央に置かれた座卓で、双葉は生け花にいそしんでいる。ガラスの大きな皿に水を張り、真ん中のくぼみにガラス玉をいくつか沈めている。短く切った朝顔の茎をガラス玉の間に差しこんで、花を固定するらしい。
「わたしが育てて、わたしが生けるはな。現世でこのような楽しみをえられるとは、幸甚のいたりです」
「晴明さん、きっと喜ぶよ」
「そうであれば、よいのですが」
「忙しい日に花を生けて待っててもらえたら、
朝から夏休みの宿題について相談していたのだが、午前十時過ぎに黒い
かつて平安京と呼ばれた京都の街に、陰陽師はもういない──ということになっている。およそ百五十年前、明治維新によって
しかし、京都の高校に通う女子高生であり、神にもあやかしにも「安倍晴明の弟子」「結び桜の子」と呼ばれる桃花は知っている。
平安京で活躍した陰陽師・安倍晴明は、若き研究者に身をやつして桃花の家の隣に住んでいる、と。
晴明が計画しているのは、この千年間で乱れてしまった京都の結界を修繕するための
晴明は八十歳過ぎで亡くなってから冥府で
「できました、桃花どの」
爽快極まりなし、といった調子で双葉が声を上げる。瑠璃はいつの間にか眠ってしまったようで、ぷうぷうと鼻を鳴らしている。
「どれどれ、拝見いたします」
桃花は座卓にうちわを置いて生け花をまじまじ眺めると、両手を上げてみせた。わずかな間を置いてハイタッチの誘いだと気づいて、双葉は両手をポン、ポンと合わせてくれた。二倍ハイタッチだ。
「きれいだよ双葉君。涼しい。夏の生け花なのにとっても涼しげ」
それ自体が透明な朝顔であるかのようなガラス皿の中心に、紫の朝顔が集まって咲いている。繊細な花びらは傷つけ合うことなく微妙な距離を保ち、細い緑の
「この蔓が、
「ありがとうぞんじます。こえだは、
「ワザだ! ……もっと褒めたいのに、語彙の量が追いつかない。受験大丈夫かな」
感心から不安へと揺らいでしまった桃花の背を、双葉がとんとんと優しくたたく。
「桃花どの、まだ高校にねんせいの
「ありがとう……」
八朔とは、八月一日の古い呼び名だ。
「桃花どの。晴明さまとそうだんしていた、なつやすみの課題はどうですか? たしかいろいろな果実を描くと、にわでちらりと聞いたのですが」
「うん、高校の美術部の課題ね」
晴明とその話をしていた時、双葉は庭で朝顔に水をやっていたのだった。
「与えられたテーマが『わたしの秋』だから、
「めでたき画題です。しかし、べにけいのぶどうとは、いったい?」
「
「びわこの、めぐみですね」
去年の春先まで住んでいた滋賀県では、紅系と呼ばれる品種も含めて、多くの
「甘くて
「桃花どの、京都でいうなら
「山科茄子? 京都市
「はい、晴明さまと祇園の八百屋におじゃましたとき、店主どのから聞きました」
晴明と京都市動物園に通っているのは昨年聞いたが、祇園散歩もしているようだ。勤勉な式神もまた、京都の暮らしに
「山科茄子は皮が薄くてきずつきやすいので、京都のそとに出回らないのです」
「うん、滋賀県に住んでた頃、見なかったよ山科茄子。双葉君、物知り!」
「おそれいります」
「双葉君の朝顔の生け花も、同じだね。この家限定の恵み」
「きょりの近さが生むよろこびですね、桃花どの」
「帰ったぞ」
低く心地よい声がした。出会った頃から変わらない陰鬱さを帯びたその声に、桃花は絹に触れたような安らぎを覚えた。
「おかえりなさいませ、晴明さま」
誰も触れていないのに、簾がくるくると巻き上げられていく。
縁側の外に立っていたのは、
晴明の姿は、二十五、六歳の青年に見える。通った鼻筋と
琥珀色の瞳は、ガラスの水面に咲く朝顔に向けられていた。
「朝顔の鉾が建っている」
晴明の比喩を、桃花は巧みだと思う。緑の蔓が垂直に伸びるさまを見てそう言ったのだろう。去年晴明と行った、祇園祭の
「双葉君が生けたんですよ」
「上達したな、双葉。見ていて気持ちがいい」
褒められた双葉は、つややかな頰をきゅっと盛り上げて笑った。
「ありがとうぞんじます。るりのめんどうを桃花どのが見ていてくれたので、しゅうちゅうして生けられました」
「わたしは、うちわであおいでただけだよ。でもありがと」
思わぬ手柄認定に桃花は照れた。
「晴明さま、玄関に回ってくださいませ。夏のひざしに当てっぱなしでは、お草履がいたみます」
「なるほど、道理だ」
簾が元に戻って、晴明が玄関へ歩いて行く音が聞こえてきた。
桃花の心は風を受けた風鈴のように躍っている。
──いつから好きだったのかな。この人のこと。
京都に引っ越してきたばかりだった十五歳の自分にとって、晴明は「十歳くらい年上の、研究休暇中の大学の先生」だった。外見には見とれたものの、恋愛感情を向ける対象とは思わなかった。
──晴明さんの正体を知って、お仕事を見ているうちに、好きになったのかな。
千年の年齢差や立場の違いを考えると、告白するまでもなく
──ずっと内緒。
自分の初恋はよくある年上の異性への恋慕で、秘めている間にいつか薄れる。薄れるに違いないのだ。
それにしても、晴明の用事が気になる。
「どんなお話だったんですか?」
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