【毎日更新】おとなりの晴明さん 第八集 ~陰陽師は金の烏と遊ぶ~【大ボリューム試し読み】

第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀

第三十七話 応挙の虎と薬研通の刀(1)


 赤い金魚柄のうちわで、寝そべった白猫をあおいでいる。

 藍染めの座布団に長々と身を伸ばす姿は、晴れた夏空を飛んでいるかのようだ。

 白猫は青い目をゆったりまばたきさせては、甘ったるい視線を送ってくる。


「気持ちいい? ちゃん」


 静かにうちわを動かしながら、ももは白猫にささやきかけた。本当は白い毛並みをなで回したいのだが、自重せねばならない。せみが鳴き入道雲が湧くこの季節、人肌のぬくみは煩わしいようなのだ。

 瑠璃は普通の猫ではない。もともとは生まれたばかりで命を落とした猫の魂だが、この家のあるじによって新たな生を与えられた。

 ある意味、桃花と似た運命の猫ではある。

 大病もなくもうすぐ十七歳を迎えられる自分と瑠璃を比べるのは傲慢なことに思えて、決して口には出さないのだけれど。

 すだれの下りた縁側から風が吹いて、髪とリボンを揺らした。木綿のワンピースは汗にれることもなくさらりとしている。隣に建つ桃花の家は冷房が必須だというのに、この家の板の間はやけに涼しい。


 ──不思議だけれど、いい人に出会えたよね。瑠璃ちゃんもわたしも。


 この家の主──平安時代に活躍したおんみようべのせいめいを思う。

 はくいろの髪をした二十五、六歳の青年の姿なので、桃花の両親には「イケメンだよなあ。いい人いないんだろうか」「研究休暇中の大学の先生て、論文に追われて大変なんちゃうか」などと陰でほんのり心配されているのだけれど。


「るりを見ていてくださってたすかります、桃花どの」


 紫の朝顔を手にした、十歳くらいの少年が言った。晴明のそば近くに仕えている式神のふただ。今日は麻の葉文様の浴衣ゆかたを着ている。


「助かるって、どうして?」


 桃花は何となく双葉もあおいでやりながら聞いた。


「晴明さまがえんちようからお帰りになるまえに、生けてしまいたいのです。ガラスの大皿に、あさがおのはな」

「そっか、『お帰りなさい』の生け花だね」


 板の間の中央に置かれた座卓で、双葉は生け花にいそしんでいる。ガラスの大きな皿に水を張り、真ん中のくぼみにガラス玉をいくつか沈めている。短く切った朝顔の茎をガラス玉の間に差しこんで、花を固定するらしい。


「わたしが育てて、わたしが生けるはな。現世でこのような楽しみをえられるとは、幸甚のいたりです」


 わいい声で難しい言葉を使って、双葉は喜びを述べた。


「晴明さん、きっと喜ぶよ」

「そうであれば、よいのですが」

「忙しい日に花を生けて待っててもらえたら、うれしいと思う」


 朝から夏休みの宿題について相談していたのだが、午前十時過ぎに黒いちようが舞いこんでくると、晴明は「すまんが、めいに呼ばれている。すぐ帰る」と出て行ってしまったのだ。黒い蝶はあの世の官庁である冥府からの使いであったらしい。

 かつて平安京と呼ばれた京都の街に、陰陽師はもういない──ということになっている。およそ百五十年前、明治維新によっておんようりようは廃止され、そこに所属していた陰陽師たちは居場所を失った。

 しかし、京都の高校に通う女子高生であり、神にもあやかしにも「安倍晴明の弟子」「結び桜の子」と呼ばれる桃花は知っている。

 平安京で活躍した陰陽師・安倍晴明は、若き研究者に身をやつして桃花の家の隣に住んでいる、と。

 晴明が計画しているのは、この千年間で乱れてしまった京都の結界を修繕するためのちんさいだ。今は桃花とともに、地鎮祭の下準備である「さきがけさい」を着々と進めている。

 晴明は八十歳過ぎで亡くなってから冥府でえんだいおうの部下となったので、陰陽師にしてめいかん、という二つの顔を持っていることになる。研究者・堀川晴明という仮の姿も入れると、三つの顔だろうか。


「できました、桃花どの」


 爽快極まりなし、といった調子で双葉が声を上げる。瑠璃はいつの間にか眠ってしまったようで、ぷうぷうと鼻を鳴らしている。


「どれどれ、拝見いたします」


 桃花は座卓にうちわを置いて生け花をまじまじ眺めると、両手を上げてみせた。わずかな間を置いてハイタッチの誘いだと気づいて、双葉は両手をポン、ポンと合わせてくれた。二倍ハイタッチだ。


「きれいだよ双葉君。涼しい。夏の生け花なのにとっても涼しげ」


 それ自体が透明な朝顔であるかのようなガラス皿の中心に、紫の朝顔が集まって咲いている。繊細な花びらは傷つけ合うことなく微妙な距離を保ち、細い緑のつるが天井へと伸びている。


「この蔓が、おんまつりほこみたいに天へ伸びているのがかっこいい。細い枝を立てて、蔓をからめてあるんだね」

「ありがとうぞんじます。こえだは、かえでせんていしたときにとっておいたのです」

「ワザだ! ……もっと褒めたいのに、語彙の量が追いつかない。受験大丈夫かな」


 感心から不安へと揺らいでしまった桃花の背を、双葉がとんとんと優しくたたく。


「桃花どの、まだ高校にねんせいのはつさくです。もんだいないです」

「ありがとう……」


 八朔とは、八月一日の古い呼び名だ。

 おんなど京都の五花街では、まいげいが得意先に挨拶回りをする日だ。もっとも、桃花たちの住むしんによどう付近は京都市街の北東部に位置する住宅地なので、舞妓や芸妓に出会うことは少ない。


「桃花どの。晴明さまとそうだんしていた、なつやすみの課題はどうですか? たしかいろいろな果実を描くと、にわでちらりと聞いたのですが」

「うん、高校の美術部の課題ね」


 晴明とその話をしていた時、双葉は庭で朝顔に水をやっていたのだった。


「与えられたテーマが『わたしの秋』だから、おおに住んでいた時よく食べていた紅系ぶどうを中心に、秋の果実をたくさん描く予定。梨とか柿とか」

「めでたき画題です。しかし、べにけいのぶどうとは、いったい?」

けんに色々あるの。赤紫の大粒のぶどう」

「びわこの、めぐみですね」


 去年の春先まで住んでいた滋賀県では、紅系と呼ばれる品種も含めて、多くのどうが育てられていた。家のあった大津市から、両親と一緒にぶどう狩りへ行ったのを思い出す。電車や自動車から見える風景にいつまでもがあって、子ども心にその雄大さを実感したものだ。


「甘くてしいけれど傷つきやすくて輸送できないから、直売所でしか買えない紅系ぶどうもあったよ。まさに琵琶湖周辺限定の恵み」

「桃花どの、京都でいうならやましなですね。京やさいの」

「山科茄子? 京都市やましなの山科?」

「はい、晴明さまと祇園の八百屋におじゃましたとき、店主どのから聞きました」


 晴明と京都市動物園に通っているのは昨年聞いたが、祇園散歩もしているようだ。勤勉な式神もまた、京都の暮らしにんでいるのだと桃花は嬉しくなる。


「山科茄子は皮が薄くてきずつきやすいので、京都のそとに出回らないのです」

「うん、滋賀県に住んでた頃、見なかったよ山科茄子。双葉君、物知り!」

「おそれいります」

「双葉君の朝顔の生け花も、同じだね。この家限定の恵み」

「きょりの近さが生むよろこびですね、桃花どの」

「帰ったぞ」


 低く心地よい声がした。出会った頃から変わらない陰鬱さを帯びたその声に、桃花は絹に触れたような安らぎを覚えた。


「おかえりなさいませ、晴明さま」


 誰も触れていないのに、簾がくるくると巻き上げられていく。

 縁側の外に立っていたのは、あおにびいろの着物をまとった晴明だった。

 晴明の姿は、二十五、六歳の青年に見える。通った鼻筋との目はいなしやを守るびやつを思わせるが、柔らかそうな唇には微笑をたたえている。

 琥珀色の瞳は、ガラスの水面に咲く朝顔に向けられていた。


「朝顔の鉾が建っている」


 晴明の比喩を、桃花は巧みだと思う。緑の蔓が垂直に伸びるさまを見てそう言ったのだろう。去年晴明と行った、祇園祭のよいやまが思い出された。


「双葉君が生けたんですよ」

「上達したな、双葉。見ていて気持ちがいい」


 褒められた双葉は、つややかな頰をきゅっと盛り上げて笑った。


「ありがとうぞんじます。るりのめんどうを桃花どのが見ていてくれたので、しゅうちゅうして生けられました」

「わたしは、うちわであおいでただけだよ。でもありがと」


 思わぬ手柄認定に桃花は照れた。


「晴明さま、玄関に回ってくださいませ。夏のひざしに当てっぱなしでは、お草履がいたみます」

「なるほど、道理だ」


 簾が元に戻って、晴明が玄関へ歩いて行く音が聞こえてきた。

 桃花の心は風を受けた風鈴のように躍っている。


 ──いつから好きだったのかな。この人のこと。


 京都に引っ越してきたばかりだった十五歳の自分にとって、晴明は「十歳くらい年上の、研究休暇中の大学の先生」だった。外見には見とれたものの、恋愛感情を向ける対象とは思わなかった。


 ──晴明さんの正体を知って、お仕事を見ているうちに、好きになったのかな。


 千年の年齢差や立場の違いを考えると、告白するまでもなくかなわぬ恋だ。悲しさに一人で泣いたこともある。


 ──ずっと内緒。


 自分の初恋はよくある年上の異性への恋慕で、秘めている間にいつか薄れる。薄れるに違いないのだ。

 それにしても、晴明の用事が気になる。


「どんなお話だったんですか?」

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