第二話 やすらい祭り

第二話 やすらい祭り(1)

 ベッドの陰に隠れては猫じゃらしめがけて突進する騒々しい遊びを十回以上も繰り返した後、ミオは目をつぶってゆらゆらと体を揺らし、そのまま電池が切れるように絨毯に倒れこんで寝てしまった。

「全力出しちゃったんだね、ミオ」

 桃花は猫じゃらしを絨毯に置き、起こさないようにそっと手のひらをミオの柔らかな毛並みに当てた。腹が安らかな寝息とともに上下して、こちらまで眠くなってくる。

 しばらくそうやっていた桃花は、時計を見て「もうこんな時間?」とつぶやいた。壁にかけてあるトートバッグを下ろし、鏡で髪の乱れをチェックする。

「よし、寝癖なし。行ってくるね、ミオ」

 ささやき声で告げると、花びらのように薄い耳が一度だけピクリと動いた。

 今日は、隣の晴明の家で初めて勉強を教わる日だ。

 桃花は部屋を出て階段を下りると、暖簾のれんをよけてキッチンを覗いた。

「お母さん、行ってくるねー。ミオはわたしの部屋で寝てるから」

「えっ? ああ、うん」

 テーブルで料理の本を読んでいた母親の葉子は、まぶしそうにこちらを見た。

「何? お母さん」

「桃花が自分から、『晴明さんに勉強を教わりたい』って言いだすとは思わへんかった。中学出たら積極的になったなあ」

「ま、まあ、ね」

 とても言えない。隣の家のあるじは生き返った陰陽師の安倍晴明で、閻魔大王の部下も務めている、などとは決して。

「せやけど桃花、晴明さんにれたわけとちゃうよな? 歳が離れてるからまさかとは思うけど」

「ないないない。ないよ! 学習塾って近所にないし高いから!」

 見えない壁にぞうきんがけをするかのように、手を前に出して振る。陰陽師・安倍晴明に対する好奇心はあるが、恋心はない。

「まあ、そうやろうとは思った。晴明さんにちゃんと挨拶するんやで。今日からよろしくお願いしますって」

「はーい、行ってきまーす」

 家の敷地から道路に出てすぐ左に曲がり、生け垣沿いに少し歩けばそこに晴明宅の屋根付き門がある。

 ──一人でよその敷地に入るの、緊張する。晴明さんが庭にいて、「入ってこい」って誘ってくれれば入りやすいのに……っていうのは、甘えすぎだよね。

 目の粗い格子越しに、桃花は晴明の姿を探した。

 植えられた青楓や南天の葉が、そよ風に揺れている。灰色の敷石が、磨りガラスの嵌まった玄関の引き戸まで続いている。

 ──あれ、なんか、変。

 かすかな違和感を覚えた桃花は、庭の隅を見やった。石に丸く囲まれた、小さな池が空を映しているではないか。

 ──池なんかなかった。この前ミオが晴明さんちの生け垣から出ていこうとした時、あのあたりは土と細かい雑草しかなかったはずだもん。昨日だってそうだった。

 昨日、つまり金曜日の夕方、学校から帰ってきた桃花は生け垣越しにこの家の庭を見た。あの時も、池などなかったはずだ。

 それなのに今日の朝十時になっていきなり、澄んだ水をたたえた池ができている。

 どう考えても、業者に頼んで造った池ではない。

 ──晴明さんの術だよね?

 桃花はトートバッグを盾のように構え、小さな池にそっと近づいた。赤い金魚が一匹、長い尾びれをたんの花びらのようにひらひらさせて泳いでいる。よく見かける、リュウキンと呼ばれる種類だろう。

 ──良かった、普通の金魚だ。

 何しろこの家の主は、安倍晴明だ。池にあやしい物がんでいてもおかしくはない。

 ──って言っても、わたしの知ってる陰陽師は映画のだけど。

 池のそばにしゃがみこみ、揺れる金魚の尾びれを見つめる。

 映画で見た晴明は、黒髪に黒い目の三十歳過ぎの男性で、かりぎぬの袖を優雅に翻して呪符や式神を操り、冗談は言わず淡々とあやかしを退治していた。

 しかし実際にまみえた安倍晴明は表情に翳りのあるスーツ姿の青年で琥珀色の髪と瞳を持ち、真顔で冗談を言うたちの悪い性格で、迷い猫を見つけてくれた恩人で、猫を虐待する悪者を懲らしめた人物で……閻魔大王に仕える冥府の官吏でもある。

 列挙しているとだんだん相手が何者なのかつかめなくなってきて、桃花は首をそらして空を見上げた。

「何をしているんだ」

「あ、おはようございます」

 晴明がこちらを見下ろしていた。琥珀色の前髪がひとすじ額に垂れて、いつもより憂いを含んだ顔に見える。

「今日からよろしくお願いします」

「ああ。ところで、さっきバッグを構えていたのは防御のつもりか?」

「見てたんですかっ?」

「縁側で読書中だった」

 晴明の視線を追うと、縁側に古びた本が何冊も積んであった。歩いてくる気配など、桃花には感じられなかったのだが。

 ──気にしてもしょうがないか。この人のこういうところは……。

「どうして急に池なんか造ったんですか?」

「庭のぜいを楽しもうと思ってな。庭石もほしいと思っているのだが、なかなかい趣向が見つからない」

「庭造りの趣向なんて渋い話、わたしは分からないです。それよりこの池、ものすごーくこつぜんとできましたよね? 人間の仕事じゃないですよね?」

「無論。式神と水の神に頼んだ」

「水の神様……?」

 桃花がきょろきょろとあたりを見回した。水の神様とは、いったいどんな姿をしているのだろう。恐ろしいりゆうの姿だったら自分は気絶してしまうかもしれない。

「桃花、心配するな。水の神が棲んでいるのはずっと北、ふね神社だ」

 晴明が場違いなほど頼もしい口調で言い、桃花はこめかみを押さえた。

 ──こっちの心配を察する力はあるのに、話す内容はぶっ飛んでいるんですね……。

「どうした、頭痛か?」

 晴明は尋ねてきたが、頭痛だと思っていないのが見え見えだ。

「なんでもないです。金魚、一匹だけなんですか?」

「ああ」

「せっかく池があるんだから、もっと仲間を増やしてあげましょうよ」

 そろそろ家に入れてもらおうと思い、スカートを払って立ち上がる。今日は途中で来客があると聞いているが、その間は問題集を解いていれば良いだろう。

「金魚か。どこで買えばいいか教えてくれるか?」

「いいですよー。でも買ったんじゃないなら、この金魚はどうしたんですか?」

 ぱしゃん、と水音が立つ。

 金魚が高く跳ね上がっている。水面へ落ちていく刹那、開閉する口からキィキィと鳴き声が聞こえた。

「……金魚って、鳴かないですよね?」

「それは金魚ではない。近所をうろついていたえきじんだ。弱らせるため、一時的に金魚に変えた」

「エキジン?」

「疫病の神と書いて、疫神。春になると花の咲く勢いに乗って増える。ちなみに神といっても、古い器物がへんしたつくがみ、窮乏をもたらす貧乏神など、実態があやかし、という場合もある」

 桃花は泳ぐ金魚を見、次に晴明を見た。何が起こっているのかよく分からない。

「そんな転んだまいのような顔をするな」

「どんな顔ですか」

「言葉のままだ。私はこれでも近所の平安を守っている」

 晴明が水面に手のひらを向け、小さく何事かをつぶやく。身をよじらせた金魚が高く跳ね上がり、晴明の手の甲に落ちた。

「ひゃっ」

 晴明の手の甲でピクピクと金魚がふるえ、細かい水滴が飛ぶ。

「この疫神は金魚に変化させて無力化してある。万一触っても病気になる心配はない」

「そんなこと言われたって、怖いですよっ」

 桃花の言い分を聞き流して、晴明は金魚の姿をした疫神に語りかける。

きようを目指している疫神どもに伝えろ。真如堂の東には安倍晴明が住んでいる。池に沈められたくなければ近づくな、と」

 金魚がキィキィと鳴く。

「分かったようだな」

 晴明が手を振ると、金魚は池を囲う石へと落ちていく。

 ──あっ、つぶれる?

 凄惨な光景を想像した桃花だが、落ちたのはつるりとした質感の小人であった。濁った薄緑の肌に黄色っぽい髪を生やし、目がぎょろりと大きい。

「え? え? カエル、じゃないですよね? 何ですかこれっ」

「疫神だと言ったろう」

 これが疫神の本当の姿らしい。キィキィと鳴きながら、晴明に土下座をしている。

「分かったなら、帰れ」

 晴明が胸ポケットから取り出した紙片が、ひとりでに折りたたまれていく。

 ──鳥の形だ。

 紙片は一羽のしろぶんちように変わり、疫神を両脚で捕らえた。

 疫神の細い手足が宙をく。

 純白の文鳥は、北東にそびえる比叡山の方角へ飛んでいく。元気いっぱいに羽を広げた姿は、とてもまがまがしい疫神をつかんでいるとは思えない。

「災いは、北東つまりうしとらにあるもんからやってくる。比叡山は京の鬼門を守る聖地だが、すべての邪気を防げるわけではない。だから疫神もいくらかは京の街に至り、はびこれるわけだ」

「は、はい……」

 比叡山が京都の鬼門を守っているという話は、安倍晴明が出てくる映画で聞いた記憶がある。

「どうもいかんな」

 疫神と文鳥を見送りながら、晴明は眉をひそめる。

「どこがいけないんですか? すっごく元気に飛んでいってますよ?」

「飛び方が文鳥らしくない。あれではたかの飛び方だ」

「はあ」

「私もまだまだ修練が必要だな」

「うーん……」

 そんなのどうでもいいですよ、と言うべきだろうか。

「晴明様」

 誰かが晴明を呼んだ。柔和な男性の声だ。

「いたいけな若者に何を吹きこんでいるんですか」

 そう言っている本人も若い。

 門からこちらに歩いてくるのは、背の高い黒髪の青年だ。年齢は二十代後半、前髪を長めに垂らし、縁なし眼鏡めがねをかけている。

 一歩遅れてついてくる小柄な少女は、十八歳くらいだろうか。長いくりいろの髪をなびかせ、レースをあしらった白いワンピースを着ている。

「ずいぶんな物言いだな、たかむらきよう

「油断がならないから言っているんです晴明様。ご自分がどんな理由で休暇を命じられたか、よくご存じでしょうに」

 ──この人、言葉は敬語だけど生活指導の先生みたい。

 どういう間柄だろうと思っていると、篁と呼ばれた青年が視線を向けてきた。

「お隣にお住まいの桃花さんですね。晴明様から話は伺っております」

「は、はい。あなたたちは?」

「申し遅れました。私はえんちよう第十八位の冥官、小野おのの篁。閻魔庁第三位である晴明様の部下にあたります。同じく、こちらはとき様」

 栗色の髪の少女は猫を思わせる大きな目で桃花を見つめると、優雅に微笑んだ。

「初めまして、桃花さん」

 耳に優しく流れこむ、華のある声に桃花は少しびっくりしてしまう。

 ──わ、お嬢様だ! この人、お嬢様っぽい!

「初めまして、時子様っ」

 緊張しながら挨拶すると、時子は笑顔のまま困った風情で眉根を寄せた。

「様はつけなくていいわ。それは篁の趣味だから」

「趣味だなんて時子様、本当のことを」

 いとおしそうに篁が言うと、時子が冷え冷えとした目つきで見返した。篁はいっこうにこたえないようで、にこにこしている。

 ──この二人、どういう関係? 執事とお嬢様?

 こちらのまなざしに気づいたのか、篁が無言で微笑みかけてくる。この二人のことをもう少し知りたい、と桃花は思った。

「あ、あの、お二人は、普段はどこにいらっしゃるんですか? 京都ですか?」

「ええ、近所ですよ」

 篁は名刺大のカードを出して、桃花に手渡した。

 繊細な唐草模様をあしらったカードには、『私立からくさ図書館』とある。記載された住所を見ると、同じ左京区であった。

「これが私と時子様の、現世での隠れみのです。白川通と今出川通の交差点を西に入ったところ……きたしらかわのバス停あたりで私立図書館を営んでいます」

「あ、晴明さんから聞いたことあります! お菓子のお裾分けを、前に頂きました」

 桃花はぴょこんと頭を下げた。

「はは、そうでしたか。ご丁寧に、ありがとうございます」

 もの柔らかに言う篁の後ろから、時子がひょっこりと白い顔を覗かせる。

「ねえ、桃花さんも一度来て。席代は要るけど、珈琲コーヒーか紅茶を淹れるから」

「高校生が行っても大丈夫?」

「ええ、もちろん」

 時子が薄桃色の唇をほころばせて言った。

「私が冥府の術で作った縄張りですよ」

 桃花の目の前に、篁は拳を差しだした。

「手をよく見ていてくださいね」

 大きな拳が開く。篁の手のひらの上に、銀色の霧が渦巻いた。

「我が根を張る、立ち帰る場よ……」

 篁のつぶやく呪文らしき言葉がだんだんと小さくなる。同時に、銀色の霧が形を変え、れんいろと緑色に染まりはじめた。

「裏庭のある私立図書館です。育つ植物の力を借りて成立する縄張り」

 篁の手のひらの上に、煉瓦造りの洋館が浮かんでいた。裏庭には草木が生い茂り、栗色の髪の少女が小鳥たちとたわむれている。

「すごい。お人形の家みたい。鳥さんを腕にとまらせているの、時子さんですよね?」

 桃花の賛辞に、篁の口元が盛大にゆるむ。

「……篁」

 重々しい口調で、本物の時子が呼ぶ。その頰がいろに紅潮しているのに、桃花は気がついた。

「はい、何なりと時子様」

 従順に返事をする篁の手のひらの上で、からくさ図書館の幻影がかき消える。

「桃花さんに図書館の外観を見せてあげるのに、なぜわたしの姿が必要なの」

「呪文の構成からして当然ですねえ」

 とぼけた声で篁は言う。

「『我が根を張る、立ち帰る場』。私にとってのそれは当然単なるからくさ図書館ではなく、時子様が健やかに過ごしておられるからくさ図書館に他なりません」

 ──わああ、溺愛執事だ。お嬢様を溺愛する執事だこの人っ。

 第三者である桃花ですら、恥ずかしくていたたまれない。時子は薄桃色の唇を固くつぐんで、耳たぶまでにしている。

「篁卿、過保護の発作を起こしている最中に悪いが」

「誰が過保護なんですか晴明様」

「他に誰がいる。電話で約束した通り話は聞くが、宿題を見てやりながらでいいか?」

「ええ、もちろん」

 篁は、いたわるように桃花を見た。

「桃花さん。晴明様は現世に慣れておられないから、色々戸惑うことも多いでしょう」

「え、ええと……まあ」

 篁の言うことは本当だが、はいと言っては晴明が気の毒なので言葉を濁す。

「あのう、ところで、晴明さん」

「どうした、桃花」

「冥府の官吏さんのお話を、わたしみたいな普通の人間が聞いていていいんですか?」

「普通なものか」

 けろりとした顔で、晴明はとんでもないことを言った。

「疫神の鳴き声を聞き、姿を見ただろう。あれは普通の人間には知覚できない現象だ」

「えっ」

「金魚に変化させた姿は普通の人間にも見えるから、庭のいろどりになるんだが」

 ──疫神を庭の彩りにって、どんだけ強いのこの人?

 新たなおののきが湧いたが、今の問題はそこではない。

「わたし……普通じゃないんですか……」

「元々素質がある上に、赤ん坊の頃と思春期に私と出会ったものだから、さらに発達したんだな。筋肉だって反復して鍛えれば強くなるだろう」

 淡々と晴明が説明する。桃花は聞いているのが精一杯で、うなずく余裕すらない。

「つまり晴明様は」

 篁が縁なし眼鏡のブリッジを指先で持ち上げた。

「桃花さんが赤ん坊の頃から目をつけておいて、可愛らしく成長した頃に偶然をよそおってお隣さんとして再会いたたたた!」

 時子のきやしやな手が、篁の大きな手をねじり上げていた。かすかに幼さが残る美貌に、軽蔑の色が浮かんでいる。

「晴明様はそんなことしないわ」

「冗談です時子様、ちょっと日頃の仕返しを兼ねた冗談ですよ」

 桃花は、責め立てられる篁を見守った。恐ろしいことに、涼しげな細面には微笑みすら浮かんでいる。

「どこの世界に閻魔庁第三位の冥官を冗談でストーカー扱いする人がいるの」

「三千世界に私一人です。それにしても時子様、いつの間にこのような技を身に付けられたんですか」

「女性のお客様から教わった護身術よ。まさか篁に使うとは思わなかったわ」

「光栄に存じます時子様」

「そういうところよ。篁のおかしなところ」

 冷たい表情の美少女と優しげな青年との間で進む漫才を、桃花はハラハラしながら見守る。晴明もここが潮時と思ったのか、時子に「もう充分だ。よくやった」と声をかけた。

 褒められて、時子は「はい」と笑顔で篁の手を解放する。

「篁卿もまだまだだな。気にかかる相手がいればもっと頻繁に顔を出すぞ私は」

「おお意外と熱いですね晴明様」

 この二人の冥官ははたして仲がいいのか悪いのか。桃花が戸惑っていると、時子が申し訳なさそうにこちらを見た。

「桃花さん、お勉強の邪魔をしてごめんなさい」

「あ、いえ、いいんですよっ」

「桃花さん、できれば敬語はよして?」

 小首をかしげる時子に、可愛いなあ、と桃花は胸を打たれてしまう。時子の愛らしさは、学校で出会う少女たちとも、芸能人とも違う。そう感じられる理由は、よく分からないのだけれど。

の煎茶がある。淹れてくれ篁卿」

「はいはい。私の方が客なんですけどね。心をこめて淹れさせていただきますよ」

 皮肉よりも諦めのにじむ口調で篁が言う。

 端整な顔立ちに柔和な笑みが浮かんでいるのに、桃花は気がついた。やはり案外、仲は良いのかもしれない。



 ちやたくに載ったせんちやわんから、ほんのりとかおり高い湯気が立ちのぼっている。

 お茶請けは、篁と時子が買ってきた串付きの餅菓子だ。おいしそうな焦げ目のついた小指大の餅に串が刺してあり、しろの香るタレがかかっている。一人前が、十本くらいだろうか。

「あぶり餅だな。いまみや神社の門前の」

 晴明が懐かしそうに言い、篁が穏やかにうなずく。

「あぶり餅がお好きでしたね。パフェやプリンアラモードは召し上がらないのに」

「ああいうものは豪華すぎて甘味というより花かんざしに見える」

「食べ物ですらないんですか」

 篁のあきれ声にも、晴明は泰然としている。

「そもそも何でできているのかよく分からんな。で、本題は何だ」

「今朝この餅菓子を買った帰りに、男女二人のあやかしに出会いました」

 篁が話を切り出したが、桃花には事件現場がどこなのか見当がつかない。

「すみません、今宮神社ってどこですか?」

「そうですねえ、桃花さんの家から見るとずっと北西の……」

「少し待て」

 晴明が篁の説明を制した。人差し指と中指を揃え、本棚に向ける。一冊の本がするりと抜け落ちて、流木のように宙を漂ってくる。

「わ、わ、わ」

 桃花の顔の前で浮遊しているのは、『京都府の歴史散歩 上』という本だ。

「末尾に索引が載っているから、自分で引きなさい」

「わわわ」

 浮遊する本に触れると、途端に力を失ってぱたりと手の中に倒れてくる。

「辞書や索引を引く癖を、今からつけておくといい」

 指導する晴明を、篁が煎茶碗を手にしたままぼうぜんと見つめている。

「どうしたの、篁」

「驚いているんですよ、時子様。桃花さんに現世の事情を教えてもらう代わりに教師をすると、晴明様から聞いてはいましたが……思った以上に教師らしいので」

「篁卿も、普段は図書館の館長らしくしているだろう。桃花、引けたか?」

「はいっ」

 写真付きの説明文に目を走らせる。

「今宮神社は、京都市北区むらさきにある神社。北西の方ですよね。やくは縁結びに、ええと、疫病退散?」

「ああ。本殿の西に疫神社が鎮座しているからな。そこの御利益だ」

「書いてあります、疫神社。四月第二日曜日に疫病退散のやすらい祭りというお祭りが行われる、って……」

「明日ね」

 時子が言った。今日はちょうど、やすらい祭りの前日にあたるのだ。

「あやかしというのは確かか? 篁卿」

「姿は着物姿の男女でしたが、人の霊魂ではありませんね。人の霊魂に比べて、かなり素朴な気配でした」

 ──気配って、そんなに頼りにしていい要素なのかなあ。

 桃花にとっては不思議な話だが、晴明は口を挟むでもなく、あぶり餅をつまみながら篁の話を聞いている。

「私と時子様が話しかけたところ、二人そろって逃げてしまったのですが、とんでもない健脚でしたよ。歩いているのに大変な速さで遠ざかり、今宮神社の楼門に難なく飛び上がって」

てんではないのか」

「天狗ならすぐ分かりますし、口もかずに逃げるわけがありません。天狗は誇り高いですから」

「それもそうだな。鼻っ柱が強い」

「天狗なだけに」

「座布団を取るわよ、篁」

 時子が冷然と言い、篁の顔がほころぶ。

「あのテレビ番組を見ましたね時子様」

「なんで嬉しそうなの篁」

「いつもと同じです。時子様が現世になじんでいくのが嬉しくて」

 落語家たちが横並びに座って笑いの技を競い、くだらなければ座布団を奪われる、という長寿番組を桃花は思い出した。

 ──それにしても篁さん、どうしてこんなに時子さんに対して過保護っぽいんだろ。

 桃花の視線に篁は気づかないようで、今度は晴明に真剣な表情を向けた。

「二人から邪悪な気配は感じませんでしたが、あれがもし素朴な心を持つあやかしであれば、非常に気がかりです」

「やすらい祭りがあるからか」

「そうです」

「なんでですか? 辞典とかに載ってますか?」

 篁が「いえ」と苦笑する。

「桃花さん。やすらい祭りでは、疫神が今宮神社に集まってくるんです」

「え、神社のまわりに住んでる人たち、病気にならないですかっ?」

「大丈夫です」

 篁はシャツの胸ポケットから呪符らしき物を出して一振りした。

 奇術のごとく、篁の手に赤いサーカスの天幕のようなものが現れる。てっぺんには桜の花が掲げられていた。

「やすらい祭りで掲げられる花傘です。実物は直径が二メートルほど。人が何人も入れるほど大きく、疫神を退散させる力を持っています」

「他の神社でも、やすらい祭りを行う所があるのよ。そちらもこういう花傘を使うの」

 時子が言い添える。

 花傘は、和傘にも洋傘にも似ていない。

 横向きにした輪っかの上から、真紅の布をかぶせたような形だ。

 てっぺんの桜の花は、天へ伸びるように高くけられている。

ゆうとうみたいなものね。この花傘で疫神を引き寄せて、退治するの」

 光に集まる虫の性質を利用して、蛾などを駆除する灯火装置のことだ。引き寄せる力と滅する力の両方を、花傘は持っているらしい。

「良かった。神社の周辺に住んでいる人は平気なんですね」

「そういうこと」

「じゃあ篁さんが言ってた、素朴な魂を持つあやかしだったら心配っていうのは……」

 篁が、花傘をくるくると回した。

「素朴な魂を持つ存在は、それだけ感化されやすい。花傘に集まる疫神たちを見ているうちに、自らも同じ性質を持ってしまうかもしれない」

「疫神になってしまう……?」

「疫神そのものよりやっかいな存在になる可能性もあります。同じあやかしでも天狗のように我が強く修行も積んでいるたぐいなら、簡単には感化されないのですが」

 篁の手の中で、花傘が紙切れに戻る。

「ですから、晴明様に今宮神社へお出ましいただきたいのです。……桃花さんも」

「わたし?」

 自分を指さす桃花に、篁も時子もうなずいてみせる。

「わたし、役に立てないです」

「とんでもない」

 篁は力強く言った。

「晴明様が現世の常識から外れた振る舞いをしないよう、お目付役、いや、付き添い役をしていただきたい」

「篁卿。私はお目付役が要るような冥官だったか」

 いつもよりなお陰鬱な声で晴明が問いかける。

「お言葉ですがね晴明様」

 縁なし眼鏡の位置を指先で直しつつ、篁は答える。

「閻魔大王から『現世を知る研修を兼ねつつ、現世で休暇を取れ』と命が下ったのはなぜだったか、どうかお忘れなく」

 厳しい篁の態度にも、晴明はひょうひょうとしている。

「死人が出たわけでもあるまい」

「死人が出ると思わせてしまったんですよ、あなたは」

 話が見えない。時子はしずしずと煎茶を飲んでいる。

「あのう、篁さん。晴明さんは何をしたんですか?」

「居酒屋で酒を吞んだんです」

 どこが問題なのか理解できず、桃花はいったん口を閉じて考える。

「あっ、平安貴族だからもっと高級なお店で吞んでくださいって話ですか?」

「いえ、そうではなく。居酒屋が混んでいて店員の目が届かないのをいいことに、日本酒を三升も吞んでいたんです」

「三升?」

 桃花は両親の晩酌の光景を思い出した。一人二合まで、と葉子は言っていたはずだ。

「えーと、うちの両親の十五倍以上? 吞み過ぎじゃないですかっ」

「人間には無理な量です」

「待ち合わせしていたおおが、用事で遅れたのだ。仕方あるまい」

 晴明が軽く胸を反らした。威張ったようなその仕草がなんだか子どもっぽい、と桃花は思う。

「仕方はありますよ晴明様そういう場合に必要な対応はチビチビ吞んで待つかソフトドリンクを頼むかですよ三升をスイスイ水みたいに吞むんじゃありません」

 息継ぎなしの穏やかな声音で篁は晴明を責め立てる。晴明は涼しい顔だ。

「あ、あの、三升も吞んじゃって、それで、どうなっちゃったんですか?」

 まさか倒れたのではとしながら、桃花は尋ねた。現に目の前で晴明がぴんぴんしているのだから、さほど心配は要らないとは思うのだが。

「ひどいものでした」

 篁は目を伏せて言った。

「店員が異常な酒量に気づいて『水を飲んでください』だの『もうアルコールは注文しないでください』だのと説得しているのに、晴明様は平然と『問題ない』と言い張って。そこへ太田さんがやってきて、特殊体質だから問題ないと取りなしたそうです。太田さんは冥官としての経験は私たちより浅いですが、如才なくお話できる方なので」

 その太田という冥官は、頼りになる存在らしい。色々な冥官がいるのだと桃花は感心してしまう。

「うむ。それでも店員が心配そうなので、別の店で吞み直した」

「あまり目下の冥官に負担をかけないでくださいよ」

 篁が懇願する。桃花が想像していた以上に、晴明は現世に適応できていないようだ。

「とにかくね、桃花さん。この人と一緒に今宮神社へ行っていただきたいんです。明日のご予定は?」

「今のところ、ないです」

「良かった!」

 篁は桃花の手を取らんばかりに喜んだ。

 時子は安心したように桃花を見ている。

「宿題、良かったらわたしも見ましょうか?」

「え、あ、はい」

 早く宿題をやらねば、昼食の時間になってしまう。

「問題集色々と、古典文学のレポートなんです。テーマはしんきんしゆう

「新しい歌集だわ」

 時子は真面目な顔で言った。

 新古今和歌集。かまくら時代初期にへんさんされた、ちよくせん和歌集である。

 ──時子さんて、どういう経歴の人なんだろう。

 追及するのが少し怖くなって、桃花は黙って参考書を開いた。




【次回更新は、2019年9月5日(木)予定!】

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