第23話 別離

 誕生日。その安息の一時は過ぎ、いつもどおり勉強に満ちた苦渋の日々が戻ってきた。


「よろしい、今日はここまで。宿題は――」


(お、多い……)

 メモをとりつつ、正気ではない量の宿題に絶望する。


「では、またの」

「ん、また」

 無表情が精一杯だった。


(あぁ……終わった……)


 今日も受験生に対するが如き授業だった。

 あの進行速度は半端ない。


 あのおじいさんは一体、九歳の子供になにを望んでいるのだろう。それともあれが普通なのだろうか。

 そう考えると、すこしこの世界の子供が怖くなった。


 授業が終わり、部屋に戻って夕食を摂りお風呂に入った後。

 普通なら後はもう寝るだけ。けど、まだ寝るわけにはいかない。


「おやすみなさいませ、お嬢様」

 マリアが僕の首元まで毛布を掛ける。

「おやすみ」


 コツ、コツ、コツ……


(……行ったかな?)


 マリアの足音に聞き耳をたて、ベッドから少し離れた椅子に座ったところでうっすらと目を開ける。

 天幕には不規則に揺らめく、ぼやけたろうそくの火が映っていた。

 ろうそくのある場所。おそらくそこにマリアはいる。


 マリアはいつも僕が完全に寝たのを確認してから部屋を出て行っていた。

 地味につらいのが「おやすみ」を言ってから確認に来るまでのこの時間。

 ベッドにいるだけで睡魔は絶え間なく襲いかかってくる。


 待つ間、寝てしまわないように体をつねる。

(痛……)

 それでもなお、とどまることを知らない睡魔はその勢力を弱めない。

(すぅ…………はっ!)

 つねる。

(痛……)

 そんなことを繰り返すこと数回。


 ガタッ。


 耐久の時間は唐突に終わった。


(来る)


 すぐさま目を閉じ、マリアのアクションに備える。


 コツ、コツ、コツ……


 すぐ近くまでに聞こえた足音は止み、一瞬の静寂が訪れる。

 わずかな風の流れを感じとり、天幕をかきわけたことを察知する。


「お嬢様」


 僕が起きていないことを確認する。もちろん、僕は反応しない。

 額にマリアの手が触れた。

(んっ)

 なんだかくすぐったい。

 どうやらマリアは僕の前髪をかき分けているようだ。

 それが終わるとしばらくマリアは顔を見ているのか、その場にいるようだ。

(ふぅ)

 およそここまでがいつものパターンだった。


(さて、今日はどの教科に手をつけよう)


 意識を勉強に飛ばすほどに、このときの僕は油断していた。


(ん!?)

 それ故、予想だにしないその感触に思わず目を開けてしまっていた。


 至近距離にあるマリアの顔。

 普段にはない、不意の近さにドキリとした。


(……はっ!)

 すこしの間、ぼうっとしてしまっていたが今の状況を思い出し、すぐさま目をつぶる。

 幸いにもマリアは目をつぶっており、僕が起きていることに気づいた様子はなかった。


(ふぅ……危なかった……)


 額に触れた、あの感触が忘れられない。

 思い出すとなにか恥ずかしい。


(それにしても、今日はどうしたんだろう?)


 いつもの流れにない行動もそう。

 けど、一番の疑問は――


(どうして、泣いていたんだろう……)


「お休みなさいませ、お嬢様」


 その声は、酷く悲しげに聞こえた。

 歩く音、ドアの開閉の音に耳を澄ませ、マリアが出て行ったところで目を開ける。


(ふむ……ま、勉強しよう)


 ベッドから出ようとしたとき。細々とだが、外から声が聞こえるのに気がついた。


(この声、マリアと……)


 マリアともう一人聞いたことのある声がした。


「ディ……か」

(宰相の……ジーク=ハルト?)


 気になって、忍び足でドアにゆっくり近づいていく。

 ドアに耳を近づけ、盗聴する。


「――つらいことだとは思いますが、もうあまり時間はありませんよ」

(ん、時間がない?)


「わかっています。わかってはいるんです……」

「あと一週間といったところですか……お嬢様も心を落ち着かせる時間がひつようでしょうし、別れは早めに済ませた方がよいでしょう」

「そう、ですね……」


(時間がない……心を落ち着かせる……別れ……)


 それらの言葉が心の中に浮かび上がり、脳裏に不穏な単語がよぎった。


――死。


 鼓動は早まり、荒くなった呼吸が口から漏れ出た。

 止まらなくなったそれを押さえつけようと、手で口を覆う。


(落ち着け、落ち着け。まだ、そうと決まったわけじゃない)


「はぁはぁ……すぅ……はぁ……ふぅ……」


 何度か深呼吸を繰り返すと、いくらかましにはなった。

 僕が自分をなだめている間にマリアたちの声はもう、聞こえなくなっていた。

 あの会話のせいで勉強も手につかなかったため、大人しくベッドに潜り込む。


(どういう、ことなんだ……)


 その夜はなにも答えの出ないまま、意識が落ちるまで不安を帯びた疑問だけが脳内で反復していた。


「おはようございます、お嬢様」

(この、声……っ)


 その声に、反射的に飛び起きる。


 翌朝――起きると、そこにはいつもどおりのマリアがいた。


「マリアっ!」

 そこにいるという存在、温もりを確かめるために彼女に抱きつく。


「お、お嬢様?」

 最初は戸惑っている様子だったけど、すこしすると優しく頭をなでてくれた。


「うぅ……」

 確かな温もりを感じ、それまであった不安が取り除かれた結果、じわりじわりと涙はまぶたを越えてこぼれ落ちた。


「どうしたんですか、そんなに泣いて。怖い夢でも見ましたか?」

「う、ん……」


(まぁ、そう……夢みたいなものなの……かな)


 ひとしきり涙を流し、落ち着いたところでそっとマリアから離れた。


「お嬢様、まずは顔を洗いましょうか」


 マリアは僕の顔を見てそう提案した。

 たぶん、酷い顔になっていることだろう。


「うん」


(昨日のは僕の聞き間違いかなにかだったんだ)


 いままで九年間一緒にいて、とくに病気を抱えているといった様子もなかった。

 今の彼女も至って健康そうに見える。


 けど、ただ一つだけ……気になることは彼女の顔の色。いつも白くシミ一つない綺麗な肌ではあったが、それが今日は一層白く、心なしか化粧に厚みを感じた。

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