第一部 第三章 魔法の真実と現実 4
* 4 *
「どっちに行った?」
「わからんっ。早く探せ!」
すぐ側を男の人の声が通り過ぎて行きました。
空は茜色に染まり、陽射しが届かなくなった建物の裏の広場は、もうかなり薄暗くて、暗い影に隠れていれば見つかりにくくなっています。
去っていく足音が聞こえなくなったのと同時に、わたしは止めていた息を吐き出して、何度も深呼吸をして激しい鼓動を抑えようと努力していました。
どこをどう逃げ回ったのかは、わかりませんでした。
街から早く出たかったのですが、最初に逃げた南門の方向にも、レレイナさんの家に近い東門の方向にもわたしのことを探す男の人たちがたくさんいて、そこを通ることはできませんでした。
ずっと追われ続けていたわたしは、もう走ることもできそうにありません。
逃げ回るのも、ここが限界のようでした。
――夜になれば、大丈夫かな……。
広場にある水場のところに座り込み、石垣に身体をもたせかけて、やっと息が整ってきたわたしは、深いため息を吐きます。
――どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
脚はもう棒のようになっていて、痛くて立つことも億劫なくらいでした。
買い物袋も途中で投げ出してしまって、アルカディアの入っている袋だけは死守しましたが、食べるものも飲むものもありません。
どうしてこんなことになってしまったのかはわかるけれど、この先どうしていいのかは考えることができません。
街から逃げ出せたとして、その後どうしていいのかもわかりません。
――とにかく、レレイナさんの家に戻って、それから考えよう。
夜になればたぶん、もっと見つかりにくくなるはずです。暗くなりきるのを待って、門を通り抜けることを考え、いまは身体を休めようとじっと動かないままでいました。
「もう、やだ……」
そう、小さく呟きます。
魔法さえ使わなければ、こんなことにはならなかったかも知れません。
でももしあのとき使わなかったら、わたしはもちろん、街の人も、カツ君やガロットさんも鐘楼の下敷きになっていたかも知れません。そう考えれば、魔法を使ったことは間違っていないと思います。
でもそもそも、エリストーナに来ることさえなければ、こんなことにはならなかったのだと、ここに来てしまったこと自体がわたしにとって不幸なのだと、そう思わずにはいられません。
「帰りたい……」
呟いても、帰れるわけではありません。
いますぐ家に、東京のあの家に帰って、お母さんのつくった料理を食べて、暖かいお風呂に入って、ふかふかのベッドで寝てしまいたいけど、帰る方法はありませんでした。
わたしの力ではもう、どうすることもできませんでした。
「こっちは調べたのか?」
「見てこよう」
さっきとは違う男の人たちの声が聞こえてきました。
ゆっくりとした、警戒しているらしい足音が近づいてきます。
――逃げないと。
そう思っても、もう走ることはできません。
石垣の縁に手をかけてどうにか立ち上がって、でも疲れ切った脚は震えるばかりで力が入りませんでした。
「どこかに……」
近づいてくる足音に、わたしは近くの扉に目を向けます。
いまわたしがいるのは、街の西側。
ここには空き家がたくさんあります。
冬には仕事のない人が暮らしたり、商人の方など街の外の人がある程度の期間暮らすために貸し出されている家がある一角です。
一番近くの扉に近づき、願いを込めてノブを回します。
――開いた。
もう足音は大通りから広場に繋がる小道の出口近くまで迫って来ていて、わたしは誰もいないことを祈りながら、灯りの点いていない家の中に静かに入ります。
音がしないように扉を閉めて、内側のノブにぶら下がるようにして目をつむり、足音が遠のくのを待ちます。
――あれ?
近づいてきていた足音がだんだんと遠くに行くのとは別に、気がついたことがありました。
この家の中は、微かに外よりも暖かいのです。
春も半ばになりつつある時期ですが、夕方にもなれば火がなければ家の中は寒さを感じるほどになります。だからレレイナさんの家では、暖炉と平炉の火はベッドに入るまで絶やさないようにしていますが、この家の中も微かな暖かさを感じることができました。
灯りがまったくないためいまいる場所はよく見えませんが、暗がりに慣れてきた目で見てみると、どうやらここはキッチンのようでした。
――早く出ないと。
暖炉を使っているのだとしたら、この家は無人なのではなく、誰かが住んでいるということ。
キッチンは使っていない様子ですが、家の人に気づかれたら大変なことになってしまいます。
外の足音が早く通り過ぎることを、家の人に見つからないように祈っているとき、声が聞こえてきました。
「鐘楼しか倒れなかったんだろ? たいしたことなかったなぁ」
その甲高い声には、聞き覚えがありました。
それに倒壊した鐘楼のことを話している内容に、興味が引かれました。
足音を立てないようにして、隣の部屋へと続く扉に近づいていきます。
「それに少し逃げちまっただろ、あの虫。お前が箱を倒すからだぞ」
「仕方ないだろ。船が揺れたんだから」
甲高い声の他にもうひとり、低い声が聞こえてきました。
その低い声にも聞き覚えがあります。リーナちゃんが金貨を盗んだと言っていた、あの街の外から来たらしいふたり組の声です。
「あの気色の悪い虫を食うつもりだったんだろ? いっぱい持ってきたからってダメに決まってるだろ? 食い意地張ってるからなぁ、お前は」
「食うわけないだろ。虫にもうまいものがあるって話は聞いたことがあるけどさ。それよりあの女の子をどうしてあのとき離しちまったんだよ。偶然だったけど船主の娘だったんだ。脅せばいい稼ぎにもなったし、仕事もやりやすくなったのにさ」
「仕方ねぇだろ。あんときゃあの小娘がうるさかったんだからよっ」
船主の娘というのはリーナちゃんのことでしょう。話の内容からも、声からもあのときのふたりで間違いありません。
それに、船で虫を運んできたらしい話から、鐘楼が虫に食われていたのは、ふたりが原因かも知れませんでした。
「その話はいい。どちらにしろ時期が悪かった。もし次の機会があればもう少し暖かい時期にやればいい。それよりも声が大きい。誰かに聞かれたらどうする」
わたしの知らない、三人目の声。
他のふたりとは違い、落ち着いた感じがあって、荒げていないのに威圧する雰囲気がある声の主は、ふたりのまとめ役に位置する人なのかも知れません。
もっとよく聞こえるように、扉に耳を近づけてみます。
「それよりどうするんだ? 鐘楼倒れちまって、城の警戒が厳重にならないか?」
「それは大丈夫みたいだぜ。なんか噂になってた歪魔が出たとかって、街の奴らは兵隊も一緒に走り回ってる。誰だかしらないが、歪魔様々だよ」
「城の構造は把握できているんだな?」
「もちろん。この前の謁見のときに侵入できるところは確認しておいたぜ」
さっきよりも声は潜めていますが、扉に近づいたために三人の声は充分に聞こえていました。
――城に、侵入?
いったい何をする人たちなのでしょうか。
城への侵入計画を立てているらしい三人。王都からの商人だろうとカツ君は言っていましたが、何か別の目的がある人たちということでしょうか。
「領主様は四階にいるんだっけ?」
「あぁ。寝室も四階にあるな、あの構造なら」
「目的は金印だ。それを領主から奪えばいい」
「て、抵抗された場合は?」
「必要なのは金印だけだ。邪魔ならば領主は殺せ」
――ファル君が襲われる!
どんな立場の人たちなのかはわかりません。でもファル君を襲って、領主の証であり、女神ストーナとの契約の証であるというあの金印を奪うことが目的であるということはわかりました。
――どうすればいいだろう。
お城に、伝えるべきだと思いました。
でもいまわたしは追われている身。ヘタに人前に出たら、そのまま捕まって、どうなってしまうかわかりません。
左手で魔石に触れてみましたが、短い時間の間にほんの少し魔力が溜まっているのはわかりましたが、ちゃんと魔法を使うことができるほどではありませんでした。
魔法を使って捕まえるのは、難しい状況でした。
「金印って、金でできているんだろ? どこかに持っていって売っ払えばいい金になるんじゃないか? どうせ報酬は前金でもらってるんだしよ」
「そう、そうだよ。持って帰れなかったとか報告すれば――」
「お前たちは依頼通りに仕事をこなせばいい。金印を奪えなかった場合は北の水門を破壊して代わりにする。水が街に溢れればそれだけでかなりの損害を与えられる。ちょうど今晩は兵士も街に出払っている。今晩決行する」
まとめ役の人の凄みのある声に、甲高い声と低い声のふたりは、了承の返事をしていました。
――ファル君が襲われるのは今晩……。
何かできることは、と考えても、追われていて、魔法も使えないわたしでは何もできそうにありません。
レレイナさんに相談でもできればいいのですが。お城に行ったまま帰ってこないいまは、それもできません。
――とにかく、一度あの家に戻ろう。
静かに後ろの結び紐を引っ張って解いて、エプロンを外します。
白いエプロンを外しただけでも、黒の多いわたしの服なら、これからもっと暗くなっていくことを考えれば少しは見えにくくなるはずです。
エプロンを小さく畳んでいるとき、身体がよろめいて肩が扉に当たって小さな音を立ててしまいました。
「ん? 何か音がしたか?」
「ネズミか何かだろ」
「念のため見てこい」
舌打ちの音ともに、足音が近づいてきます。
もうここにはいるわけにはいきません。
できる限り足音を立てずに外へと続く扉に近づいて、ためらわずノブを回して外へと出ます。
キッチンの扉が開かれる音が聞こえたときには、わたしは自分が出た扉を閉め終えていました。
幸い、外には誰もいませんでした。
思ったより長い時間家の中にいたようで、茜色だった空はもう濃紺になり、たくさんの星が輝き始めていました。
人の声が聞こえないのを確認しながら、わたしは街の外に出るため、少し疲れの取れた脚を動かして走り始めました。
*
エルナがちらちらと視線を向けてきているのはわかっていたが、カツは黙っていた。
椅子に座って膝を細かに動かしていても、腹に溜まった苛立ちが消えてくれるわけでもない。
店と兼用している奥の住居の、さほど広くない粗末な造りのキッチンで、カツは苛立ちを隠さずに歯を剥き出しにしていた。
炉でスープの鍋をかき回しているガロットの背中に鋭い視線を投げかけても、気づいているはずの彼が何かを言ってくることもなかった。
「何やってんだよ、親父!」
皿にスープを注いでエルナの前に置いたのを見て、カツはテーブルを叩いて立ち上がった。
「なんであのときひな姉ちゃんを助けなかったんだよ! オレを行かせてくれなかったんだよ!!」
自分の分の皿にスープを注いだガロットは、カツの言葉に答えず鍋へと向かう。
「あぁしたときの人間は恐ろしい。お前や俺で止められるものじゃない。あのときはあぁするしかなかった」
「だけど!!」
「お前の食事はこれだ」
振り向いたガロットがテーブルの上に置いたもの。
小さな鍋ほどの大きさがある丸い木の容器には、しっかりと閉められる蓋があった。それを布で厳重にくるみ、上に小振りのパンを置く。
「ひなのは賢い子だ。街に人が走り回ってることから見ても、まだ捕まってはいないだろう」
外を見ると、店の向こうに見えるすっかり暗くなった道に、ちょうどランプを持って走っていく男が通り過ぎていった。
「もし無事に街から出ていれば、その後どうするかはわからないが、おそらく一度レレイナ様の家に戻るだろう。食事もしていないだろうから、これはお前が持っていってやれ。それからこれも、届けてくれ」
「これは……、ひな姉ちゃんの?」
いつになく饒舌なガロットがかけておいた椅子から机の上に出した袋には、見覚えがあった。中身を見てみると、ひなのが今日買っていった、カツが装飾の部分を手伝った深皿などが入っていた。
顔を上げると、いつもと変わらないように見えるひげ面のガロットの瞳は、風邪を引いたときくらいしか見せることのない心配そうな瞳の色をしていた。
「俺も食事が終わったら城に行く。そろそろあちらも少しは落ち着いているだろう。鐘楼が虫に食われていたことを知らせてこなくてはならん。……済まん。俺にできることはこれくらいだ」
「はんっ。冷める前に持っていってやるよ!」
精一杯の声で言って、スープの包みとパンを皿とともにひなのの袋に収め、中が横倒しになったりしないように慎重に肩からかけた。
「ひなのお姉ちゃんのこと、お願い」
「言われなくても!」
「それとあの子に会えたら、俺が使ってる北の作業小屋に行くよう言ってくれ。あそこならば人も滅多にこない」
「わかった」
もう苛立ちは吹き飛んでいた。
袋の中身が揺れないよう気をつけながら、カツは夜の街へと駆けだした。
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