第一部 第二章 影差す都市 3
* 3 *
念のため近くを探してみましたが、ウォルさんを見つけることはできませんでした。
魔法を使った瞬間はもちろん、使ってからしばらくは魔法の痕跡を感じることができるものなのですが、それを追うこともできませんでした。
仕方なくウォルさんを探すことを諦め、お父さんに立て札のことを報告しに行くカツ君と別れたわたしが足を向けたのは、街の北へと続く北大路です。
ウォルさんともう一度会って話をしたい気持ちはありますが、小市で買い物をしなければなりませんし、別の用事もあるのであまり時間がありませんでした。
緩やかな上り坂となっている北大路には市の通り道となる東西街道ほどの人通りはありません。左右に立ち並ぶ家も北に行くほどに大きくなっていき、だんだんと高級住宅街の雰囲気に変わっていきました。
街の外へと伸び、遥か先の山へと続く右の道に入らず、さらに真っ直ぐに進むと、見えてきたのは壁でした。
エリストーナの街の中は防災や防衛のために二階建てくらいの高さの壁で大まかに区切られています。区画を区切る壁は平屋の屋根よりもかなり高いのですが、あまり分厚くはありません。
近づいて見上げた壁は区画の壁よりも少し高く、かといって街を囲う外壁ほどの高さはありませんが、大きな石を積み上げた重厚な造りをしています。
この壁の向こうにあるのは、お城。
エリストーナを治める領主様の住むお城の敷地の中に、わたしが行くべき場所があります。
街の中の水路にもつながっている堀はストーナル河から引かれた水で満たされていて、わたしは石造りの橋を渡って正門へと近づいていきました。
警備をしている兵士の方に名前と住んでいる場所、今日の用向きを伝えると、通してもらうことができました。
お城に来るのは今日で三回目。
最初はまだ言葉もわからないときにエリストーナの住人として申請を行うためにレレイナさんと来たときで、二回目は住人として承認されたことを確認を行うためで、二回目のときには少し言葉がわかるようになっていました。
外壁を警備している兵士の方と違って厳しい雰囲気の兵士さんの様子も、寒気すら感じる重厚な雰囲気の城壁にも、まだまだ緊張してしまいます。ひとりでお城に来たのは初めてだということもあると思いますが。
刺さったら痛いでは済まなそうな落とし格子の下を通って廊下のみたいな長さの城門を抜けると、芝生のような青い草の生えた広場に出ました。
広場の正面にはもうひとつ門があって、兵士の方が厳重に警備をされていますが、今日のわたしの用事はこの広場の中に建っている建物で済んでしまいます。
わたしが向かったのは広場の左手にある木造二階建ての建物。
ちょっとしたお屋敷のような建物にはわたしが向かっている間にも何人かの人が出入りしていて、みんな少し早足だったり駆け足だったり忙しそうにしています。
緊張で高まった鼓動を、胸に手を当てて息を吐き出し整えて、わたしは正面の入り口から建物の中へと入りました。
この建物の中にあるのは、街とお城とをつなぐ、言うなれば区役所のような役割をしているところばかりです。その中でわたしが立ったのは、一階の一番奥にある部屋。
使い古されていて、でも綺麗にされている扉を軽くノックすると、「どうぞ」と中から少し苛立った感じのある女の人の声が聞こえてきました。
「失礼します」
ちょっと怖くなりながらも扉を開け、部屋の中に踏み込みます。
軽い運動ができそうなほどの部屋の中には、左右に天井ほどまである棚が置かれていて、そこには本や書類がたくさん詰まっていました。正面には応接用のローテーブルとソファがあって、エリストーナではお城くらいでしか見ることのないガラス窓から差し込む陽射しで明るい奥手には、ベッドにできそうなほど大きな机がありました。
二十歳かもう少し若い感じの、薄茶色の長い髪をして、白い毛織物シャツに黒いベストを重ねた、女性らしさをあまり感じさせない事務員の人のような感じの女の人は、わたしが部屋に入っても難しそうに顔を歪ませたまま手元の書類と睨めっこしています。
「えっと、こんにちは」
「あぁ、うん。こんにちは」
ノックに返事をしてくれたのはこの女性、ディセレルさんのはずですが、挨拶の言葉にやっと顔を上げ、少し疲れたような笑顔を浮かべました。
「ごめんなさい。いろいろ散らかっていて。面倒くさい仕事を急いでやらなくてはならなくなっていてね」
ディセレルさんの言う通り、寝転がることができそうなほどの広い机の上には、本や書類の束やインク壺なんかが雑多に置かれていて、置ききれない書類の一部は絨毯の上にも積み重なっています。
「久しぶりね、ひなの。元気にしてるかしら?」
「はい。おかげさまで」
「ん。最後に会ったときよりも言葉が話せるようになっているのね」
わたしが最後にディセレルさんに会ったのは三ヶ月近く前、わたしがエリストーナに来てからひと月ほど経った頃です。
お城に勤める人としてはまだ若いディセレルさんは、若いながらも街の中に関する様々な窓口になる仕事をしていて、毎日たくさんの人と会っている方だということです。
まだまだ言葉をちゃんと喋ることができず、レレイナさんと一緒に来て挨拶をしたくらいしか顔を合わせていないのに、わたしのことを憶えているなんて少しびっくりしてしまいました。
「それで今日はどんな用事?」
手元の書類を脇の書類の上に積み上げたディセレルさんは、疲れた様子こそあるものの、今度こそわたしのことをちゃんと見て微笑んでくれます。
「今日はその……、街でお店を開きたいと思いまして」
「店? どんなの?」
「それは、その――」
ここ数日でレレイナさんと話し合って決めたお店のことをディセレルさんに話します。それを聞いて少し考え込むように目を伏せた彼女は、立ち上がって本棚から一冊の本を持ってきました。
「貴女のお店になるのかしら?」
「レレイナさんのお店、ということになります。わたしはまだ十八歳になっていませんし。お店に立つのはわたしになると思いますが」
問われてわたしは、肩に提げていた袋からレレイナさんに書いてもらった委任状を取り出してディセレルさんに手渡します。
未成年であるわたしは、本来お店を持つことはできません。形式上はレレイナさんのお店ということにすると、事前に話し合っていました。
本当ならばレレイナさんが来るべきことなのでしょうが、レレイナさんはあまり街には入らないようにしているのだそうです。
詳しい理由はわかりませんが、魔女であるレレイナさんは、エリストーナでは複雑な立場らしいということは知っています。お城に行く用事が月に一度二度ありますが、そうしたときにはお城から迎えの人が来ているくらいです。
「なるほどね。そんな感じのお店なら、商品は置きっ放しになるわね。露店じゃなくて常設の店か……。主に市の日に開けるとして、えぇっと……」
椅子に座り直して、机の上で持ってきた本をディセレルさんはめくっていきます。
エリストーナには紙はありますが、印刷された本はありませんし、本と言っても紙を束ねて紐などでまとめたものになります。
ディセレルさんが開いているのは植物を漉いてできた紙ではなく、たぶん耐久性を重視してなのでしょう、羊皮紙を束ねた本でした。
わたしが見ていいものなのかどうかわからなくて、遠目に本の中に書かれた内容を見てみると、何かの申請書を束ねたものらしく、同じ書式の細かな記載の違うページが続いているようでした。
ちゃんと内容を見ているのかどうかわからないくらいの速度でページをめくっていたディセレルさんはひと通り見終わった後、本をどかして今度は机の引き出しから丸められた大きな紙を取り出して机の上に広げました。
紙に描かれていたのは、街の地図。
必要のない部分は省略されているらしい地図は、どこにどんなお店があるかを示したもののようです。
「住居兼用でなくていいの?」
「あ、はい」
「だったらいま空いてるところはここと、ここと、ここ。道具屋で、聞いた通りの感じのお店なら、ここがいいかしらね」
ディセレルさんが示したのは、お店が集中している西側街道から二本ほど入った、でもけっこう太い通りに面した場所でした。
「ただしここはかなり建物が古くてね、修繕が必要なのよ。いまから指示しても早くて来月からしか開店できないけど、それで構わない?」
倉庫に押し込められた道具の整理も考えると、お店の場所を確保できてもすぐに運び込むことはできそうにありません。準備時間の確保と考えれば、それくらいの期間があった方が良いように思えました。
「はい。それで大丈夫です」
「それじゃあこの書類に記入をお願い。わからないことがあったら聞いてくれればいいし、書けないようだったら私が書くし、書いたものを次の機会に持ってきてくれてもいいから」
机の引き出しから出して渡されたのは、羊皮紙の申請書。
露店の出入りが多いエリストーナでは、こうした書類のやりとりが多いのでしょう。お店の名前や商品の内容などの細かな記載項目が、綺麗な文字であらかじめ書かれていました。
「ペンを貸していただけますか?」
「これを使って」
「場所をお借りしますね」
ペン立てから使っていないペンとインク壺を一緒に渡してもらって、わたしはその場で申請書類と向き合います。
「えっと、ここはどう書けばいいんですか?」
「ここはね――」
わからなかった項目について教えてもらって、程なくして記入を終えることができました。
「すごいわね、ひなのは。この前のときはまだ言葉もちゃんと喋れなかったのに、もうこれだけ書くことができるのね」
「……レレイナさんに教えてもらっていますから」
申請書の内容を確認してもらいながら言われた言葉に、わたしはちょっと恥ずかしくなってしまいます。
エリストーナの言葉は話し言葉と書き言葉ではやはり違いはあります。とくに書き言葉は単語などの違いは大きいのですが、文法は比較的英語に近い表音言語で、喋れるほどではなかったにしろ中学で英語を習っていたわたしには、割とすんなりと最低限の言葉を憶えることができました。
単語以外にも違う点は様々にあるので、まだまだ勉強をしなければなりませんが、簡単な文章を書くくらいのことは、いまのわたしでも充分できるようになっています。
「おい、これはどういう意味なんだ?」
そう言ってノックもなく突然やってきたのは、あまり利用したことはありませんが、お肉屋を営んでいる小父さんでした。
「ちょっと待ってなさい。いまはこの子が先よ」
「いや、ちょっとだから、なぁ」
制止の言葉も聞かずに、わたしを押しのけるように机の前に立った小父さんは、手にした紙をディセレルさんに押しつけました。
「もう、まったく。これはね――」
横から覗き込んでみると、たぶんさっきの税率変更に関する書類のようでした。
豚や牛や鳥などの動物の種類だけでなく、ロースとかの部位や、生肉や燻製肉、塩漬け肉でも税率が違っていたりして、細かくそれについてのことが書かれています。
言葉で説明するだけではいまひとつわからないらしい小父さんの様子に、ディセレルさんはペンを取ってさらさらと説明を添えたイラストを描いていきます。
「わかった。ありがとう!」
笑みとともに礼の言葉を残して、嵐のように小父さんは去って行ってしまいました。
「あぁ、本当、私の仕事はこんなのばっかりよ。もう少しどうにかならないかしらね」
疲れたように椅子の背に身体を預けて、ディセレルさんは閉じたまぶたの上から両方の目を揉んでいました。
カツ君もそうでしたが、エリストーナの識字率はあまり高くありません。学校がないことが一番の原因だと思いますが、学校をつくって運営するということは、わたしでもそう簡単なことではないとわかります。
活気があってとても過ごしやすい街ではあるのですが、決して余裕があるわけではなく、子供でも親の手伝いをしているのがよく見られます。教科書などの本を揃え、建物を建て、先生を雇って――。学校を運営するというのは手間のかかることであると、エリストーナに来てから感じることがありました。
それに、エリストーナにとって学校というものがいま必要なものであるかどうか、わたしにはよくわかりません。
学校の勉強は苦手というほどではありませんでしたが、好きというほどでもありませんでした。わたしが学校で得ていたものを考えると、いまのエリストーナにとって必要だというほどには、思えることができませんでした。
わたしが元いた世界とこの街の価値観や生活は、決して同じものではありません。
――どうしたらいいんだろう。
考えても仕方のないことだと思うのですが、わたしはわたしの考えに没頭してしまっていました。
「ひなの。お店を開くよりも、城に勤めて私の手伝いをしてくれない? ひなのくらい読み書きができるなら、私もずいぶん楽になると思うのよ」
「え? えぇっと、それは……」
突然ディセレルさんにそんなことを言われて、わたしはどう返事をしていいのかわかりません。にっこりと笑いかけてくる彼女の顔を見ながら、頬を引きつらせていることしかできませんでした。
「まぁ冗談よ。本当に来てくれるなら大歓迎だけど、ね。それはともかく、お店の名前はこれでいいの?」
「えと、はい。それで構いません」
どこまで冗談なのかわかりませんが、書類を見直したディセレルさんの言葉に、わたしは頷きで応えます。
わたしが申請書に書いたお店の名前は、「レレイナの道具店」。
店員をやるのは主にわたしですが、書類上のことでもお店はレレイナさんのもので、売り物もレレイナさんの持ち物です。好きにしていいとは言われていましたが、やはりレレイナさんの名前を冠するのが良いと思いました。
「わかったわ。露店じゃないから今日中に返事をする、ってわけにもいかないけど、レレイナ様の委任状があるからには数日中には承認が下りると思うから、次の市の日にでも来てちょうだい」
「はい。わかりました」
「店の場所はさっきの通りだから、これから買い物があるなら一度見に行ってみるといいかもね」
「はいっ」
ディセレルさんに笑顔を返して、わたしは部屋を辞するために扉へと向かいます。
「もし気が変わって城勤めする気になったら、言ってちょうだい。商店みたいに状況次第で大きなお金が手に入る、ってことはないけど、安定して給金をもらうことはできるから」
「か、考えておきます」
ディセレルさんの言葉にぎこちなく答えて、わたしは早足で部屋を後にしました。
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