第一部 第二章 影差す都市 4
* 4 *
城を辞してから急いで露店やお店を回って買い出し。
近くの集落や村から収穫物を分けてもらうこともありますが、次の市が開かれる五日後までの食材などはだいたい買い揃えなくてはなりません。
小市の日である今日、露店が集中している西側街道には、たくさんの人が行き交っています。
品揃えも様々で、今日は雑貨などよりも食料品が多いのですが、まだまだ知らないものがたくさん並んでいる商店の中を、慣れたと言っても肩に食い込む買い物袋の重さを感じながら歩いて行きます。
行き交う人々の顔は、全部ではありませんが、やはり暗い影が差している人が多くて、歪魔の噂は街に徐々に広がっているのを感じます。
わたしもまた気分が暗くなってしまいそうになっているとき、声をかけられました。
「よぉ、ひなのちゃん。ちょっと寄っていってくれよ」
「こんにちは。どうしました?」
声をかけてきたのはパン屋の小父さんでした。
エリストーナでよく食べられているパンは、主に日保ちがする、中身がぎっしり詰まっている重くて硬い焼き締めたもので、スープなどに浸して食べることが多いものです。
でも常設のパン屋さんではそうした重いパンの他に、日保ちはしませんが柔らかく膨らませたパンも売っています。
街では数少ない窯のあるパン屋さんでは、食パンのような型に入れて焼いたパンや、菓子パンに近いバターをふんだんに使ったパンも、その日売り切る分くらい売っていて、重パンとは別にその日のうちに食べるものとしてたまに買って帰ることがありました。
呼ばれて店内に入ってみると、もう少ししたら市も終わりの時間だというのに、食パンが棚にいくつか残っていました。
「いやぁ、もうこんな時間なのに残っちまっててな。どうかなって思ってよぉ」
「んー」
パンは前回の市の日に買っているので、この次の大市の日に買えば充分なくらい残っています。小麦粉も今回買っているので、柔らかい食パンはちょっと魅力的なのですが、食材は充分という状況でした。
「まだ残っているんですよね……」
買いたいのはやまやまですが、食べる以上の分を買っても仕方がありません。
「そこをなんとかっ」
拝むように手を合わせて頭を下げられて、わたしは頬に指を添えながら考え込んでしまいます。
――いまある食材は、えぇっと……。
今日買ってきた小麦粉はもちろん、塩漬け肉やパンやチーズもまだ充分にあります。
あとお米も、残っています。
炊いてみようと近くの集落の方にお願いして籾殻を取って精白してもらったのがありますし、昨日はちょっとしたタイミングがあって生の豚肉を分けてもらうことができたので、それを使おうと思っていたところです。
パンの出番はなさそうです。
――もしかしたら。
ふと思いついたことがあって、残っている食パンを見ながらわたしは小父さんに言います。
「小父さん、パン粉はつくれますか?」
「パン粉? あぁ、ちょっと待っててくれればできるが、どれくらいいる?」
「これひとつ分で大丈夫です」
わたしが指さしたのは、棚に残っていた半分に切られた食パンです。
「わかった。助かるよ、ひなのちゃん。じゃあちょっとしたらできるから、そこいら回っていてくれ」
「わかりました」
小父さんの安堵の顔に笑顔で応えて、わたしはいったんお店を出ました。
ふたつの買い物袋はいっぱいで、これ以上買う物はなさそうです。
どうやって時間をつぶそうかと考えているとき、ディセレルさんの言葉を思い出したわたしは、西側街道を外れてふたつ向こうの道を目指して歩き始めました。
そこに並んでいるのは、食料品を中心とした西側街道とは違う、道具や工芸品などを並べているお店や露店。
商店を見て回る人や店主と交渉している人の間を縫って、わたしはその道を少し歩きます。
訪れたのは、扉を閉めたままの常設のお店の前。
おそらくお城で管理しているのでしょう、左右のお店と同じ構造の建物は、他のお店と違って古びていて、壁や扉も表面が剥がれてしまっていたり、穴が空いていたりしていました。
ここが、先ほどディセレルさんが教えてくれた、いまわたしが出店を申請しているお店。
修繕が必要というのは本当のようで、鎧戸が閉じられた大きな窓に触れてみると、腐ってしまっているのか木の板が柔らかくなっているのがわかりました。
「んー」
部屋の造りは他のところとだいたい同じでしょうから、表の扉を開けるためには内側の閂を外さなくてはなりません。無人のこのお店は、表から入ることはできません。
修繕するまでは入ることができないのはわかっていますが、少し考えて、わたしはすぐ脇にある小道へと足を向けました。
人がやっとすれ違えるほどの石畳の小道を抜けると、割とスペースのある広場のようなところに出ました。
お店の裏に当たる場所で、裏口の扉がいくつも見え、広場の真ん中には石を丸く積み上げた水場があります。
みんなお店が忙しいからでしょう、広場に人影はありませんでした。傾き始めた陽射しが差し込むそこで、わたしは自分のお店になるかも知れない建物の裏口まで歩いていきます。
「開いて、ないですよね……」
ささくれ立っている扉には鍵穴があって、たぶん鍵がなければ入ることはできないでしょう。
でも何となく、わたしは使い込まれ、錆が浮いているノブに手をかけて、ゆっくりと回してみました。
「……あれ?」
ノブを回すと、扉は外側へと開くことができてしまいました。
不用心だと思いますが、使っていないお店ならば泥棒が入ることもないからでしょうか。
左右を見て誰もいないのを確認しつつ、滑り込むようにして足音に気を遣いながら中へと入り、扉を閉めます。
振り向いて見たお店の中は、灯りもなく、窓も開けられていないので薄暗いものの、壁の板と板の隙間から差し込む陽射しで、中を見通すことはできました。
「入ってよかったのでしょうか」
入ってしまってからそんなことを思います。
ちょっと罪悪感に苛まれつつも、これからわたしの居場所になるかも知れない場所を、わたしはじっくりと眺めてみることにします。
いまいる場所はバックヤードに当たるような場所のようです。
土間になっている広いスペースの向こうにもうひとつ扉があります。
そこの扉も近づいて開け、わたしは板敷きになっている店舗スペースに足を踏み入れていきました。
床板は、かなり危険な状態になっているみたいです。一歩目から大きく軋んだ音を立てています。
しばらく使っていなかったからでしょう、湿気と埃、かび臭さを感じつつも、どんなお店にしようかと思いながら、想像していたよりもかなり広い店内をゆっくりと見回してみました。
「え?」
わたしのいまいる場所からは奥に当たる方、表へつながる扉の側のカウンターのような台の上に、寝転がる人影がありました。
薄暗い中でも男の子とわかる人影は、安らかな寝息を立てています。
――ど、どうしよう。
やっぱり入ってはいけなかったのかも知れません。
見つかる前に逃げようと思って一歩後退ったとき、柔らかくなっている床板に足を取られて転んでしまいました。
「痛たたたた……」
お尻を打ち付けて思わず声が出てしまって、ハッと気づいて顔を上げると、身体を起こした男の子と目が合いました。
「……君、は?」
「えぇっと、わたしは、その、違って、えぇっと、その……」
言い訳も思い付かずに言い淀むわたしに、大きなあくびをして目元を手の甲で拭った男の子はカウンターから下りて近づいてきます。
たぶんカツ君と同じか、ちょっとだけ年上くらいの年齢のその子は手を伸ばしてきます。
それがわたしのために伸ばされたことに気がついて、自分の手を伸ばして立ち上がらせてもらうと、カツ君よりもちょっと大きくて、わたしの口の辺りに目線があることがわかりました。
でもなんでしょう。
年下だと思うのに、柔らかな笑みを浮かべている彼はカツ君と違って、大人のような落ち着きが感じられました。
壁の隙間から差し込む光しかないのではっきりしたことはわかりませんが、茶色の半ズボンも、白いシャツも、水色のベストも、たぶん高級な生地が使われているように思えます。
整った顔立ちと透き通るような白い肌をし、金細工のような繊細な髪をした彼は、くすんだ青い瞳に楽しそうな色を浮かべていました。
「わたしは、その……」
「君が、ひなのだね」
「は、はい。え? わ、わたしのことを?」
名前を呼ばれて思わず返事をしてしまいましたが、わたしはこの男の子の顔を見たことがありませんでした。なぜわたしの名前を知っているのか、わかりません。
「うん、聞いているよ。レレイナ殿の弟子だったね。今日は買い物かい?」
「はい、そうです。……えぇっと、貴方は?」
子供にしか見えないのに、大人のような落ち着きのある笑みを浮かべている彼に問うてみます。
「僕の名前はファル」
「ファル……、さんですか」
「うん。ファリアス・ディアーヌ・エリストーナ。ファルで構わない。今日はちょっと城を抜け出して来ていてね、街を歩き回って疲れたからここで休んでいたんだ」
言って彼は腰から下げた布袋から、このお店のものでしょう、鍵を取り出して見せてくれました。
「ファルアリス・ディアーヌ、……エリストーナ?」
その名前には聞き覚えがありました。
何度か聞いたことがある名前でしたが、知り合いではありませんし、会ったことがあるわけでもありません。
誰だったのか思い出そうと人差し指を頬に添えた瞬間、思い出しました。
「領主様?!」
冒険の旅に出て帰ることがなかった先代領主様に代わり、去年その若い息子さんが領主の座に就いたという話は聞いていました。
若いと言っても、まさか年下の男の子だとは思ってもみませんでした。
エリストーナの名は、街の名前であると同時に、創建から続いている領主の家の名でもあります。
「え? でも、あれ? ほ、本当に?」
「本当だよ。ひなのは確かいま十四歳だったね。僕はいま十二歳、今年で十三歳になる。ひとつ年下だね。僕ほど若い領主はエリストーナでも初めてだけど、十二歳になれば領主になることはできる。領主の証を見せようか?」
ファルさんはそう言って首に手を回し、服に隠れるように下げていた銀色の鎖を引き出します。
胸元から現れた小さな袋。
袋を開けて取り出したのは、金色の直方体の形をしたもの。たぶん印鑑です。
「これが領主の証である金印だよ。女神ストーナにこの地に住むことを許された際、契約の証として授けられたものと言われている。先代領主である僕の父上が旅先で嵐に遭って失われるはずだったのを、レレイナ殿が預かって持ち帰ってくれたんだ。レレイナ殿には感謝してもし切れないほどの恩がある」
落ち着きのある雰囲気だけでなく、話す言葉もわたしとそう変わらない歳だとは思えないしっかりしたもので、金印を持っている以上に、ファルさんが領主であるということが感じられました。
顔の前に差し出された金印を見て、わたしは不思議な感じがしていました。
「これは、何でできているんですか?」
差し込む光で輝く、指ほどの長さのある金印には、複雑な文様が刻まれていました。
でもこれは、不思議なものです。
エリストーナに人が住み始めて三百年ほど。その間にたぶんずっと使われてきたもののはずですが、もし使われずに飾られていただけだったとしても、金印には傷ひとつなく、文様の部分の角にも丸みがありません。
いままさに造られたように、あまりにも綺麗な形をしています。
「さて、ね。金でできていると言われているが、わからないんだ。いくら使っても傷つかず、削れることもない。神との契約の証とされている由縁のひとつではあるね」
触ってみたくもありましたが、ファルさんは金印を袋に戻し、顔を上げます。
わたしの顔を覗き込むように見上げて、少しいたずらな、年相応の笑みを浮かべました。
「君も不思議なものを持っていると、レレイナ殿から聞いている。見せてくれないか?」
たぶん、ファルさんが言っているのはアルカディアのこと。
レレイナさんにもちゃんと見せてはいないアルカディアでしたが、大事なものを見せてもらったファルさんには見せてもいい気がしました。
買い物袋を肩から下ろして床に置いて、腰の辺りに下がっている袋からアルカディアを取り出します。電源は入れずに、両手で持って差し出すようにファルさんに見せます。
「いろんな知識が入っているそうだけど、これはどうやって使うんだい?」
見せていいのか一瞬ためらいましたが、わたしは左手で抱えるようにしてアルカディアを持って、液晶画面に指を滑らせて電源を入れます。何を見せようかと少し悩んで、ついこの前調べたお米の炊き方のページを表示させてもう一度ファルさんに差し出しました。
「すごいね、これは。ただの板にしか見えなかったのに、こうやって知識を見ることができるんだ」
目を輝かせて食い入るようにアルカディアを見つめているファルさんに、指をスライドさせて他のページも見せて上げます。ただし表示されているのはすべて日本語なので、図については見てわかるとしても、文字については読むことができないと思います。
「これは、僕でも使うことができるのかい?」
「いえ、アルカディアを使えるのはわたしだけです」
アルカディアのタッチパネルは生体認証型のもので、登録してある人しか使うことができません。登録してあるのはわたしと、あとお父さんとお母さんだけなので、エリストーナで使えるのはわたしだけです。
そのセキュリティは解除することもできますが、レレイナさんからは他の人には使えない方がいいと言われているので、レレイナさんにも使えるようにはしてありません。
「そうか。その方がいいだろうね。ここ数日、君がもたらした知識で城の工房が騒がしかったからね」
「ど、どういうことですか?」
「王国の前線で開発が進められている武器について、新たな知識をもたらしたのは君だろう? 君からだという話が出ているわけではないが、レレイナ殿からは君が知識の石盤を持っていると言う話も、エリストーナにはない知識を君自身が持っていると言う話も聞いていたからね、たぶん君だろうと思っていたよ」
前回の大市の日、確かにわたしはユーナスさんに銃に関することを話しましたが、でもそれがお城を騒がせることになるなんて、考えてもいませんでした。
「あの、それで、その騒ぎって……」
「たいしたことにはなっていないよ。あまり具体的なものではなかったと聞いているし、ユーナスが持っているものと同じものくらいならば造ることができても、それ以上のものを造ることはいまのエリストーナではできない。そんなものはあり得ない、ということで収まったよ」
「そうだったんですね……」
これ以上アルカディアを見せてはいられなくて、急いで画面をオフにして袋に収めます。
アルカディアに収められた知識の多くは、いまのエリストーナで使うことができないでしょう。けれど、カツ君の熱を下げられたと思う解熱の草や、先日つくったパンケーキはすぐに活用できるものでしたし、元の世界の拳銃よりももう少し古い物などは、いまでも活用できるものになるかも知れません。
いままで考えたこともありませんでしたが、アルカディアはエリストーナに騒ぎや混乱を呼び起こす可能性があるものであることを、わたしは今更ながらに感じていました。
「黒き知識の石盤か……」
「え?」
「いや、こっちの話だよ」
呟くように言ったファルさんは、それまであった笑みを消し、引き締めた顔で言います。
「君の持っているアルカディアというものは、とても強い力となり得る。それを捨てろとは言わない。しかし扱いについては気をつけてほしい」
「わかりました」
「これはお願いじゃない。エリストーナの領主としての、要請だ」
「は、はいっ」
口調が厳しいわけではないのに、年下とは思えない強い言葉に、わたしは思わず気をつけをして返事をしていました。
そんなわたしのことを笑ったのか、カウンターに腰掛けたファルさんは柔らかい笑みを浮かべていました。
「街の生活には慣れたかい?」
「え? はい。まだまだわからないことがたくさんありますが、大丈夫、ですよ?」
それまでと全く違った話題に、ファルさんの意図がわからなくて少し首を傾げてしまいます。
「よかった。話には聞いていたけど、言葉にも問題はなさそうだしね。ひなのはずいぶん遠くの、こことはかなり違うところで生まれ育ったと聞いていたから、少し気になっていたんだ」
ファルさんがどうしてわたしのことをそんなに気にしてくれていたのかはわかりませんが、たぶんレレイナさんがお城に行かれている際に話を聞いていたのだと思います。
「何か不都合なことはないかい? 君はレレイナ殿の弟子だ。もし不都合があるならば、僕に言ってくれれば便宜を図ろう」
心配してくれているのか目を細めて微笑むファルさんの意図は、やっぱりわかりません。
「とりあえずは大丈夫だと、思います」
料理のことも、家事のことも、この世界での生き方も、魔法のことも、まだまだわからないことはたくさんあります。それから、元の世界に帰る方法についても。
でもいますぐにファルさんに頼りたいと思えることは、思いつくことができませんでした。
「そうか……」
少し考え込むようにうつむいたファルさん。
壁の隙間から差し込む陽の光で、彼のくすんだ青色の瞳は、どこか楽しそうな色を浮かべているように思えました。
「君は、このエリストーナのことを、どう思う?」
しばらくの沈黙の後、唐突に言われたのはそんな言葉でした。
「どう思う、と言うと?」
「別に思ったことを言ってくれれば構わない。この街に住んでいて、君が感じたことを教えてほしい」
「そう言われましても……」
街に住んでいて感じることはたくさんあります。
それはでも、主に東京との違いであって、ファルさんに話して良いことなのかどうかよくわかりません。
何よりファルさんの質問の意図がよくわからなくて、わたしはどう返事をしていいのかわかりませんでした。
「ならば、君はどんなところで生まれ育ったんだい? レレイナ殿からはあまり詳しい話は聞いていない。どんな街で、どれくらいの広さで、どんなものを食べていたんだい?」
「わたしが住んでいたのは――」
目をつむって、エリストーナに来る前に住んでいた、東京のことを思い浮かべます。
まぶたの裏には、いまでも家の様子を思い出すことができます。
通っていた中学校のことも、そこで話していた友達のことも、行き帰りの道のことも、休みの日に遊びに行った場所のことも。
「わたしが住んでいたのは、歩いても、馬でも、船でもたどり着けないくらい遠いところにある街です。わたしが住んでいた家は二階建てで、骨組みは木でできていますが、壁紙が貼ってあって柱などは見えないようになっています。そんな家や、もっと大きな家がどこまでもどこまでも続いていて、ずっと街が続いている……。そんなところでした」
東京は、どこまでもどこまでも建物があるくらいずっと街が続いていました。高いところに登っても、遠くに見える山の方まで家が続いているような。
エリストーナのように、少し高い建物から街の境である壁が見えたり、その外の畑や、草原や、森が見えるということはありませんでした。
「そんなに街が広くて、水はどうしているんだい? 畑もないのかい? 他の国から攻められたときはどうするんだい?」
驚いたように目を見開いたファルさんが、矢継ぎ早に質問を投げかけてきます。
学校で習ったことも思い出しながら、わたしは質問に答えていきます。
「水は、地下に管を通してて……、その水は遠くの河から引いていて……。それから畑は少しありますが、ほとんどは遠くから毎日のように作物が運ばれてきています。わたしの住んでいた国は広いんですが、島国で、島全部がひとつの国だったので、戦争とかはあんあまりないというか、その……」
ファルさんの質問はどう答えていいのかわからないものや、東京との違いを説明するものが多くて、その後もいくつか訊かれましたが、あまりちゃんと答えることができませんでした。
「ふぅむ……。聞いてはいたけど、ひなのは本当にエリストーナとはかなり違うところに住んでいたんだね」
「そうですね……」
どこまで答えていいのか判断がつかないところは言葉を濁らせたわたしの答えに、ファルさんはすごく難しい顔をしてうつむいていました。
それから顔を上げて、真っ直ぐな目でわたしの目を見つめてきました。
「君は、その街で、幸せだったのかい?」
「わたしは……」
やはりファルさんの質問は、意図がわかりません。
――幸せだったに決まってるじゃないですか。
そう答えようとして、でもわたしは言い出すことができませんでした。
お父さんがいて、お母さんがいて、友達がいて、クラスメイトがいて、たくさんの知り合いがいた世界。
でもわたしは、そこで幸せだったのかと考えてみると、よくわからなくなっていました。
――何が、幸せなんだろう。
そのことがわからなくなっていました。
幸せでなかったはずがありません。
それなのに、わたしははっきりとそう言うことができませんでした。
わたしはあの世界で、当たり前に生きていて、そのことを不思議に思うことなどなくって、幸せだと感じている瞬間があったのかどうか、もう思い出すことができませんでした。
「僕は、このエリストーナをみんなが幸せに生きることができる街にしたいと考えている」
「みんなが幸せに、ですか」
「うん」
なんと言えばいいんでしょうか。
いまのファルさんの瞳に浮かんでいる色を、わたしはどう表現していいのかわかりません。
きらきらと光っているのに、カツ君が見せてくれる子供のような無邪気さじゃなくて、どこまでも深みのある、澄んだ色をしているように見えました。
夢を見ているような漠然としたものではなくって、でもどこか遠くを見ていて、もしかしたらこれは、熱意の籠もった目だと言うべきかも知れないと思いました。
「そのためにはまだまだ多くのことをやらなければならないし、足りないものがたくさんある」
言ってファルさんはうつむきがちだった視線を上げて、わたしの目をしっかりと見つめてきました。
「ひなの。君にはその手伝いをしてもらいたいと思ってる」
「手伝い、ですか?」
「エリストーナの住人のひとりとして、君にできることをやってもらいたいと考えてる」
期待を籠めた目で見つめられても、わたしは返す言葉がありませんでした。
わたしに何かができるなんて思えなかったから。
確かにわたしにはアルカディアがあって、東京に生まれ育ったこともあって、エリストーナにはないものを持っていると思います。
でもアルカディアは先ほどもファルさんに危険なものになると言われています。軽々しく使っていいものだとは思えません。
アルカディアのことを除いてしまえば、わたしは十四歳の女の子に過ぎません。わたしにできることなんて、少し考えても何も思いつきませんでした。
「わたしなんて……」
期待に応えられそうもなくて、わたしはファルさんの視線から自分の視線を外して、うつむいてしまいます。
「別にいますぐに何かしてほしいわけじゃないよ。もしやってほしいことがあったら、正式に依頼させてもらうよ。そういうことではなくて、君には君らしく、この街で生きて、自分にできることをやってもらいたいんだ。君もエリストーナに住む街の人間のひとりなのだから」
そんなファルさんの言葉にも、わたしは返事をすることができません。
この世界にあって、わたしらしいこと、というのが、いまひとつわかりませんでした。
「突然こんなことを言って済まない。でもたまたまとは言え今日会えたからね、言っておきたかったんだ」
それまでと違ってちょっとあどけなさを感じる笑顔になったファルさんに、ほっと安堵の息が漏れていました。
とりあえずすぐにわたしに何かをさせたいというわけではないようです。
慣れてきたとは言え、まだ生活にも苦労しているわたしには、できることなんてそう多くはありません。
「まずは……そうだね、気になったことでもあったら、言ってくれればいいよ」
「気になったこと――」
ぼろぼろになっている天井を仰いで、少し考えてみます。
「えぇっと、今日知ったんですが、歪魔の噂が流れているのは、ご存じですか?」
街を、カツ君を暗い顔にさせていた噂。
わたしには把握できないことですが、エリストーナにとって深刻な問題であるということは、露店を巡っていても耳に入ってきて、感じていることでした。
「うん。今日はその話で持ちきりだったね。歪魔を見たという人はいないみたいだからただの噂に過ぎないと思うけど。根拠のない噂だけならしばらくすれば消える。それでも長く流れるようなら影響は出てくるからね、噂の出本くらいは調べておこうと思っていたよ」
「そうなんですね」
領主様がどうしてこんなところにいるのかと思いましたが、もしかしたら今日のように街の様子を見て回るためだったのかも知れません。
「さて、そろそろ僕は城に帰るよ」
「はい」
カウンターを飛び降りたファルさんが店の裏口に向かうのに、わたしも下ろしていた荷物を肩に掛けて後を追います。鍵はファルさんが持っているので、一緒に出なければなりません。
「ねぇ、ひなの」
裏口のノブに手をかけたファルさんが、顔を振り向かせて問うてきました。
「君にとって幸せって、どんなものだい?」
「え?」
柔らかい笑みを浮かべながら、でも射貫くような視線を向けてくるファルさんに、わたしは何も言えなくなっていました。
「僕は君に、幸せになってほしいと思っているよ」
やはり、わたしはファルさんのことがよくわかりません。
どんな意図で言われた言葉なのか、理解することができません。
それ以上何も言わずに、ファルさんが扉を出るのと一緒に外に出て、鍵を閉めた彼が笑みを残して去って行く様子を、わたしはしばらく立ち尽くしたまま見ていることしかできませんでした。
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