第一部 第二章 影差す都市 5
* 5 *
「ふぅ……」
前領主の時代からある、精緻な模様の布が張られた綿のクッション付きの椅子に腰掛け、ファルは小さくため息を吐いた。
いつも使っている抜け道を通って城壁の内側に入り、秘密の通路を使って本館にたどり着き、最上階の領主のための執務室に入ったときには外はすっかり夕暮れ時となっていた。
目立たないための街の人々と同じ外出着から、飾りこそ少ないが、布地が多いゆったりとした形の屋内着へと着替えたファルは、そろそろランプを持ってくるだろう家令が部屋にやってくる前に戻れたことに安堵していた。
ひとりでいるには広すぎるほどの赤い絨毯が敷かれた執務室には、人や物であふれることもあるが、いまは机の上に積まれた書類の他は暖炉くらいしか目立つものがなく、南向きの大きな窓から斜めに差し込む西日も、だんだんと夜の暗さに取って代わられそうになっていた。
半日街に出ていたためにまったく終わっていない、今日中に目を通さなければならない書類に手を伸ばすのをためらったファルが、もう一度ため息を吐き、眉根をしかめて考えに没頭しようとしたときだった。
ノックとほとんど同時に扉か開かれ、長身の若い男が姿を見せた。
「灯りをお持ちしました」
微かに甘い香りを漂わせる蜜蝋のロウソクを手にした彼は、言って部屋の壁の四ヶ所と、執務机の上のふたつのオイルランプに火を移した後、燭台を机の上に置き、睨むような目でファルのことを見つめた。
「今日はどちらに行ってらしたので?」
ファルは今日、朝食の後は仕事に集中したいからと執務室に入らないようこの男を含め城の者には言いつけ、ある程度書類仕事をこなしてから街に出ていた。おそらく部屋には誰も入室しなかったと思われるが、彼には隠せた試しがない。
エリストーナでは珍しいほどの長身で、痩せているほどの身体に折り目がくっきりとした白いシャツと黒いズボンを身につけた彼は、家令のバルフェ。
二十歳そこそこながらすでに眉間のシワが定着しつつある彼は、事情があって遠くの町から両親とともに先公に拾われてエリストーナに来て定住した一族で、元々似たようなことをしていたこともあり、城仕えの仕事をすることとなった。
口うるさくて神経質で融通の利かないところが玉に瑕であったが、年若いファルにも厳しいバルフェは、先公の客死という不幸により甘やかしてくる人々と違って、ファルにとっては貴重な存在でもあった。
誠実で計算高いところを買い、以前から側に置いていたが、前年に領主に就くのと同時に家令を任じていた。
「街に、少しね」
「やはりですか。街に視察に出ることは悪いことではありません。しかしファル様はこの街の領主なのです。おひとりで街を歩いて何かあったらどうされるおつもりですか」
執務机の前に立ち、直立不動の姿勢で眉根に深いシワを寄せているバルフェ。
「領主の身分を背負っていては見えないものもある」
「確かにその通りではありますが、それは他の者にお任せください。直接見聞きしたいということであれば、私を連れて行ってください」
「……それは、なぁ」
座っているファルに対して立っているバルフェは、その気はなくても威圧するほどの身長差がある。
まだ若く、去年領主に就任したばかりのファルはあまり街の人々に顔を知られてはいなかったが、どんな服を着ようとバルフェを連れていては目立つことは避けられなかった。
「それに街には、いまは不穏な噂が流れています」
睨むような目つきで見つめてくるバルフェに、街の人々がしていた噂話のことを思い出す。
「すでに歪魔の件、聞いているか」
「もちろんです。噂の出所まではまだ突き止められていませんが」
聞いた話によると、噂が流れ始めたのは三日ほど前だったと言う。人々の耳に入り始めたのがその時期だとすれば、噂の根っこはさらに一日か二日前になると、ファルは考えていた。
「僕も今日街に出てその話は耳にしたよ。まだ少ないが、影響が出ているね」
「えぇ。いくつかの商会や商人が街での滞在を避けているようです。兵士隊でも巡回を強化しているようですが、いまのところ噂以外には動きがありません」
「ふむ……」
バルフェから視線を外し、足を高く組んだファルは顎に手を添えて考える。
歪魔としてよく知られているものは、動物や植物が歪みによって変質してしまったものだった。
歪んでしまった動植物は外見が大きく変化し、ひと目見れば歪魔であるかどうかがわかる。外見があまり大きく変化しない場合でも、性質や行動が大きく変化するため、歪みの影響を受けたことが判明するものだった。
そうした変質した動植物のことを、妖魔と呼んでいた。
歪魔にはもうひとつ、魔族と呼ばれる存在がいる。
魔族は世界に元々いた存在ではなく、歪みによって生み出される、世界の異物であると伝えられている。
妖魔の中にも恐ろしいほどの力をもった者はいるが、巨大とも言える歪みによって生まれるとされる魔族はたいていの妖魔よりも強力であり、大侵攻の際には人間を脅かす最大の存在として恐れられ、討伐には多くの犠牲を払った。
最近封魔の地に立ったと噂される者を含む、すべての魔王は必ず魔族だった。
そうした魔族のうち、人に近い、もしくは人と変わらぬ姿をした者のことを、魔人と呼んだ。
妖魔や魔族などのほとんどの歪魔は力が強いだけでなく、攻撃的であるために現れればすぐに露見するが、知恵を持ち、身を潜める術を持つ魔人は、街に紛れ込まれると対処が後手に回ることとなる。
「魔人か……」
「噂が真実であるとするなら、おそらくは。しかしながら魔人が街に入り込んでいるとするなら、それはそれでおかしな話です」
「どういうことだ?」
ちらりとバルフェに目をやると、彼もまた考え込むように目を細めていた。
「歪魔を見たという者は見つかっていません。人に紛れ、街に潜伏できるほどの魔人であると言うなら、誰がどうやってそれを魔人であると暴いたのかがわかりません。魔法を使うことができる者ならば、魔人の正体すら暴くことはできるかも知れませんが」
「確かにな」
歪みの力を魔力とし、魔法として使う魔法使いや魔女は、同じ歪みの力によって生まれた歪魔を感知することができると言われていることは、ファルも知っていた。
現在のエリストーナで魔法を使うことができるのは、街壁の外に住み、街には滅多に訪れることのないレレイナと、彼女が魔法の素質があると言っているひなののみ。
直接歪魔の力だとわかるような事件を起こしているならばともかく、そうした事件が起こったという報告もない。普通の人間では魔人の正体を暴くのは困難なことであった。
「噂の出所を調べてみるべきか」
「そう思いまして、すでに調べに入っています」
誠実ながら融通が利かず、扱いにくいバルフェであるが、言わずともやるべきことをやる性格については、ファルも重宝していた。
「何かわかったことがあったら随時知らせてくれ」
「わかりました。それよりも、今日の仕事がまだまだ終わっていません。寝る時間が必要であることもわかりますが、今日はここにある書類にはすべて目を通してもらいますよ。ほら、この新しい商会からの面会についても、日程を早く決めていただかないと」
「五日前に来たというあれか」
机の上の書類の束から取り出されて渡されたのは、一枚の紹介状。
付き合いの深い東の国の商会長のサインの入った紹介状を無下にできないのはわかっていたが、やることが多くあるために求められた面会の日程を決めることができないでいた。
エリストーナの街をよりよくしていくにはいまよりももっと商人を呼び込まなければならないのはわかっていても、勘とでも言うべきか、いまひとつ乗り気になれなかった。
「四日後の午後ならば大丈夫かと思います」
記憶しているのだろう、日程表などを見ることもなく言うバルフェに、ファルは諦めのため息を吐いた。
「わかった。その日に会うと知らせておいてくれ」
「わかりました」
眉根のシワの深みが少し減ったバルフェは、そのまま立ち去ることなくファルの前に立っていた。夕食の時間になるまで、見張っているつもりなのだろう。
「街をよりよいものにする。それが貴方の願いでしょう、ファル様」
「わかっている」
仕方なく書類に手を伸ばしたファルの手は、止まってしまっていた。
「どうかされましたか?」
「いや……」
思い出したのは昼間出会った女の子のこと。
年上であるが、見た限りは年相応の女の子にしか見えなかった、ひなの。
レレイナからは遠い国から来たこと、エリストーナにはない知識や経験があること、どれほどのものかわからないが魔法の素質があるとは聞いていたが、それ以外は普通の女の子だと言われていた。
そうであることは今日確かめていたが、彼女が前回の大市の際に街で起こった騒動に割って入ったという話は聞いていたし、今日もまた歪魔の噂について気にしている様子があった。
それにあの石盤。
魔法の道具か何かと思われるそれは、しかしどういうものであるのかファルにはわからなかった。
「……リムルシェーナ」
「ファル様!」
無意識にファルが呟いてしまった言葉に、バルフェはたしなめるように大きな声を出していた。
「その言葉を軽々しく口にしないように願います」
「……」
嫌悪するように顔を背けたバルフェに、ファルは何も言うことはなかった。
リムルシェーナ。
それは街の歴史を書き残したエリストーナ史に書かれている言葉。
ファル自身は会っていないが、先代領主が会ったという街に訪れた予言者によって告げられたその言葉は、救いの聖女を意味する。
いつとは明言されはしなかったが、いつか来るエリストーナの危機に際して、救いをもたらす女性であると予言者は言ったとされ、それをちなんだ名前として、街の女性名にはリーナやシェーナに人気がある。
しかし同時に、リムルシェーナが現れるときは街に災いが訪れるときとも解釈され、災いを呼び込む魔女として忌み語とし軽々しく口にしてはならない言葉ともされていた。
左腕に知識の石盤を持っているというリムルシェーナは、もしかしたらひなののことかも知れないと、ファルは考えていた。
――それならそれで、近いうちに災いが訪れるということか……。
複雑な心境を奥底に押し込めて書類に手を伸ばしたとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
入室の許可の声に入ってきた侍女は、夕食の準備が整ったことを告げた。
ちらりとバルフェの方を見ると、らしくない苦々しい顔をしてそっぽを向き、入り口へと歩き始めた。
言われた通り仕事を済まさなければ寝かせてもらえそうにない、と思いながら、ファルもまた食堂に向かうために椅子から立ち上がった。
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