第一部 第二章 影差す都市 6
* 6 *
ファルさんと別れた後、パン屋の小父さんにつくってもらったパン粉を持って帰ってつくった食べ物をテーブルの前に置くと、レレイナさんは不思議そうな表情で顔を近づけてお皿の上を見ていました。
塩とコショウで下味をつけた厚切りの豚肉に小麦粉をまぶし、卵を搦めてパン粉で覆い、フライパンに大量のラードを溶かして揚げたそれは、トンカツ。
エリストーナにもある玉キャベツを千切りにして添えたそれは、確かにトンカツです。
ラードがもったいないので、他にもいくつかの野菜を天ぷらにして大皿に盛りつけてありました。
調べながらつくったために少し手間取ってしまって、すっかり暗くなってしまい炉とロウソクの明かりが灯るキッチンのテーブルには、いくつものお皿が並んでいます。
そして何より、ある意味で今日のメインディッシュは、ご飯です。
少し堅めになってしまいましたが、初めて炊いてみたにしてはちゃんとつくることができたと、思います。
食事の際に個別にナイフで料理を切るということは普通はしないため、先に切り分けておいたトンカツをひとつ、口に運んでみます。
エリストーナではソースはあんまり発達しておらず、醤油もないためトンカツソースがつくれないのが残念ではありますが、それでもさっくりとした歯ごたえの衣と柔らかい肉の食感は、確かにお母さんがつくってくれていたトンカツに近いものでした。若干、豚の種類が違うためか肉が堅めではありましたが。
本当に久しぶりに食べたご飯も、堅めであったり、種類が違うためか少し淡泊な感じはありますが、それでもちゃんとご飯でした。
「美味しいわね」
「はいっ」
揚げ物料理はエリストーナにもありますが、少ない油で揚げるためかさっくり感が足りませんし、お肉も薄切りにしてしまうため柔らかさが足りません。
もとより肉類は塩漬けや燻製などにして少量ずつ食べるのが普通なので、トンカツはかなりの贅沢な食べ物です。タイミング良く生肉を分けてもらえたのは、幸運だったと思わざるを得ません。
本当にトンカツソースと醤油がないことだけが残念ではありますが、わたしは久しぶりに和食らしい食事を堪能します。
「それは何なの?」
「これですか?」
レレイナさんがフォークを使っているのに対して、わたしは二本の棒を手にしていました。
「これは『箸』という食事のための道具です。わたしが元々いた世界で使っていたものなんですよ」
いつか使う機会があるかと思って、少し前にガロットさんにお願いしてつくってもらって、ちょうど今日受け取ってきたものでした。
「『ハシ』ね。なるほど」
「使ってみますか?」
興味津々な様子のレレイナさんに、わたしはそう言ってみます。
「私でも使えるかしら?」
「ちょっとコツはいりますが」
言われてわたしは食器を収めてある棚から予備のお箸を持ってきて、レレイナさんに手渡します。
「こうやって構えて、こんな感じで……」
「難しいわね」
すぐ横で構え方を見せて、かちかちと開いたり閉じたりしてみます。
レレイナさんも見よう見まねでやってみますが、うまく動かすことはできませんでした。
それでもお箸で食事を続けるレレイナさんに、わたしも自分の席に戻って食事を再開します。
ちょっと多すぎる量ではありましたが、トンカツもご飯も天ぷらも、ふたりの胃袋にすっかり収めることができました。
レレイナさんに食後のビールを出して、食器を洗い場で洗い終えた後、わたしは気になっていたことを口にしてみます。
「レレイナさん。アルカディアは、危険なものなんでしょうか?」
「どうしたの? 急に」
「いえ、ちょっと今日、そんなことを思ってしまったので……」
ファルさんに会ったことを言っていいのかわからず、わたしはその辺りのことは濁すことにしました。
「何かあったの?」
問われてわたしはユーナスさんに銃のことを言ってしまったことを話しました。城の騒ぎのことも含めて。
ビールの入った木のコップを口に運ぶレレイナさんは、少しの間何も言ってきませんでした。
「そうねぇ……。アルカディアに収められている知識は、正直私ではよくわからないわ。たぶんいまのエリストーナにとってはとても貴重で、ずいぶん進んだ時間のものだろうということは、わかるのよ」
レレイナさんに言われている日課は、アルカディアに収められた情報の転記。
内容についてはある程度まとまり次第渡しています。
写しは一度読んだ後、魔法で手の届かない場所に隠してしまって、他の人には読ませないようにしているそうですが、銃のことで起こった騒動のことも考えると、転記すること自体が危険なのではないかと思えてしまいます。
「アルカディアの知識は確かに大きな力を持っていると思うわ。そのほとんどはいまのファルアリースでは使えないものだけど、銃の話みたいに、混乱を招きかねないものだということは私も理解してる。すぐには使えなくても、手順を追っていけば、世界を変えかねないものだと、ね」
世界を変えるほどの力だと言われると、わたしは怖いとすら感じてしまいます。
肩から下げた袋に収められたアルカディアのことを撫でながら、うつむくことしかできません。
「でもね、ひなの」
椅子から立ち上がってわたしの前に立ったレレイナさんが、両肩に手を伸ばしてきました。
「アルカディアも道具なら、いつかは壊れてしまうものかも知れない。ひなのにとってアルカディアはたぶん、必要な力よ。それにアルカディアだけじゃなく、知識はひなの自身にもある。アルカディアに収められているものほどじゃなくても、ひなのが元いた世界の知識もまた、危険なものとなり得るのよ」
「わたしも、ですか?」
「えぇ」
うつむいていた視線を上げてレレイナさんのことを見ると、怖い顔でも怒っている顔でもなく、優しい笑みが浮かんでいました。
「それだけじゃなく、今日の食事みたいに美味しいものをつくる知識も、あの男の子を救うための知識も収められている。力は使い方次第だと思うのよ、私は」
「使い方次第……」
にっこりと笑ったレレイナさんに、重かった心が、少し軽くなったように思えました。
「使い方を考えていきましょう。私も一緒に考えていくから」
「……はいっ」
レレイナさんに笑みを返して、でもわたしはすぐにまた、笑みを消していました。
「他にも何かあったの?」
「えぇっと、……はい。今日、街に歪魔が入り込んだって噂が流れてて――」
「歪魔が?」
わたしの言葉を遮るように発せられたレレイナさんの声。
険しくなった表情以上に、両肩に置かれた手に込められた力で、わたしはレレイナさんが重大なことだと考えているのだと感じます。
「どんな姿をしているかという話は聞いていないので、あくまで噂だけなのかも知れませんが……」
「噂だけだったとしても危険なことに変わりはないわ。それに姿を見せない歪魔だとしたら、もしかしたら力を持った魔人なのかも知れないから」
魔人というのは、歪魔に関することを教えてもらったときに聞いていました。
人と変わらぬ姿をした魔族で、確か五十年前に討伐された魔王も、魔人だったはずです。
――もしかして。
魔人という言葉を聞いて、わたしは思い出しました。
今日街であったウォルさん。
不思議な雰囲気と、魔法を使ったと思われる彼は、もしかしたら……。
「あの――」
「ひなの。少ししたらたぶん、私はこの家を空けることになると思うわ」
わたしがウォルさんの話をする前にそう言われて、驚いてその後の言葉を続けることができなくなりました。
「それはどういうことですか?」
「私はいろいろ縁があってこの街に住んでるわけだけど、歪魔が出たときにも城に呼び出されることがあるのよ。この街に来てから噂程度なら二度ほど出たことがあるけれど、そのときも城から呼ばれてしばらく家に帰れなかったことがあるの」
わたしの目を真っ直ぐに見つめてくるレレイナさんは、言葉を続けます。
「いまの貴女なら家でひとりで過ごすことになっても大丈夫だと思う。私もしばらくは帰れないと言っても、噂の真相がわかれば帰れるしね。でもひなの、気をつけなさい。いまのように歪魔の噂が出てるときには、絶対に街で魔法は使わないように。いまでこそ魔法使いや魔女は忌み嫌われる存在ではないけれど、歪魔もまた魔法を使う者がいる。わたしたちもまた、人によっては恐怖の対象となり得るのよ」
「……わかりました」
「さすがに今日明日に呼び出されると言うことはないと思うんだけどね」
険しかった顔を和らげてレレイナさんは笑顔を見せてくれますが、それでもその表情はいつのもよりも硬いものでした。
「……あの、レレイナさん」
「待って、ひなの」
ウォルさんの話をしようと思ったとき、レレイナさんは尖った耳をぴくりと動かして、どこかあらぬ方向に目を向けていました。
そのすぐ後に聞こえてきたのは、馬が立てる足音と、続いてノックの音。
「思っていたよりも早かったようね。ひなの、ごめんなさい。数日家を空けるわ」
「はい」
キッチンを出てノックされた玄関の方に向かうレレイナさんの背を、わたしは不安な気持ちで見ていることしかできませんでした。
*
「――」
「――、――」
寄り集まってひそひそと話をしている人々のことを、わたしは目を細めて見ていました。
東門から街に入ると、大市の日だというのに、いつもよりも人通りが少ないように思えます。
レレイナさんがお城から呼び出されてすぐに家を出てしまってから、五日が経っていました。
数日で戻ってくるといっていたレレイナさんは今日になっても戻ってこず、街ではこの前以上に歪魔の噂が広がっているようでした。
晴れているのに曇っているような雰囲気の街を歩き、わたしはお城へと向かいます。
レレイナさんに面会を求めるためではなく、先日申請した出店の許可を確認するために。
いつもよりも人数が多くて物々しい雰囲気の城門をくぐり、ディセレルさんのいる建物に入ります。
ノックをして入室許可の声に部屋の中に入ると、前回入ったときにはあふれんばかりだった書類は、いまは閑散としていました。
「こんにちは」
「こんにちは、ひなの」
顔を上げたディセレルさんは、書類の量は少ないのに、この前よりもさらに疲れた顔をしていました。
「どうかされたんですか?」
「歪魔の噂が広がっててね、街の外にも話が伝わってるみたいで、露店の数が減ってるのよ」
「そうなんですね……」
ため息を漏らすディセレルさんに近づいていき、わたしは申請の件について訊いてみます。
「あの、それで、先日の出店の件なんですけど」
「それなんだけどね」
引き出しから出して机の上に置かれた、先日書いた申請書。
それにはわたしが書いた申請内容の他に、わたしが書いたものではないサインが追加されていました。
ひとつはディセレルさんのサインで、その下のものは初めて見る名前の方ですが、たぶんディセレルさんの上司に当たる方のものだと思います。
さらにその下のサイン。
そこにはやはり初めて見る名前の方のサインと、そのサインの上から二重線が引いてありました。
「これはどういう意味なんですか?」
書類から顔を上げてディセレルさんの顔を見ると、複雑な表情を浮かべていました。
「露店や常設の店を出すためには、街の治安にも関わることだから、形式としては兵士隊の許可が必要なのよ。私はもちろん、商会なんかを取りまとめてる方からの許可は出たんだけど、兵士隊からの許可が得られなかったのよ」
「どうしてですか?」
思わず机に両手を突いてディセレルさんに顔を近づけるように乗り出してしまいます。
「……わからない。こちらでも内容を確認してるものだし、普段なら確認するだけで許可が下りるんだけど、今回はなぜか否決されたの」
「……」
何か、もわもわとしたものが胸の中にわき上がってくるのを感じていました。
歪魔の噂。
帰ってこないレレイナさん。
出店の拒否。
歪魔のこととレレイナさんのことはともかく、出店のこととは関係がないはずですが、嫌なことが続くとどうしても気持ちが沈んでしまいます。
「一応理由を確認して、できるなら再申請してみるから、もう少し待ってもらえる?」
「……はい。わかりました」
疲れた顔で笑顔を浮かべるディセレルさんにそれ以上何も言えなくて、わたしは礼をして部屋を後にしました。
建物を出て城門に向かっていたわたしは、立ち止まってお城を振り返ります。
内門のさらに向こう、高台になったところに、領主様が、ファルさんがいると聞いた建物が見えました。
――早く、帰ってきてください。
レレイナさんがあそこにいるかどうかはわかりません。
でもお城のどこかには、絶対いるはずです。
早くレレイナさんに帰ってきてほしくて、わたしは重い予感がする胸元を、手で押さえていました。
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