第一部 第二章 影差す都市 2
* 2 *
露店でフランクフルトのようなソーセージを三本買い、細い路地に入ってしばらく歩いた男の人は、振り向いて二本をわたしたちに差し出してきました。
「食わねえのか?」
自分の分を口に運びながらさらにソーセージを差し出してくる彼ですが、わたしも、一緒に来てしまったカツ君も手を伸ばすことはありませんでした。
人ふたりがやっと通れるような路地。
小市の喧噪はここには遠くに聞こえるだけで、陽射しもあまり届かず薄暗い場所になっていました。
白いシャツと紺色のズボンを身につける男の人の格好は、街の人か集落の人のようにも見えますが、わたしより少し背が高い程度の若干小柄で、木を削り出したような荒い造作の顔立ちは、整ってはいるものの、どこかエリストーナの人と違っているようにも思えました。
「ふんっ」
鼻を鳴らして三本のソーセージを荒々しく食べ終え、クセの強い髪を揺らして蔑むように顎を反らした彼に、わたしは問いました。
「貴方は、誰ですか?」
着いてこいと言われはしましたが、着いていく必要がないことはわかっていました。
気さくな人が多く、知り合いが増えてきつつある街の中と言っても、見知らぬ人と人気のない場所に来ることが危ないなんてこと、わかっていました。
でも、わたしは彼の言葉を無視できませんでした。
理由はよくわかりません。怖くて足が震えそうになっているのはわかっているのに、だからこそ無視すべきではないと、わたしの中のわたしが言っているような気がしました。
それに、恐怖とは違う何かがあると、そんな予感がして、わたしはここまで着いてきてしまいました。
本当はカツ君は置いてきたかったのですが、わたしの震える手をつかんだ彼は離してくれず、一緒に連れてくることになってしまいました。
「俺様のことはウォルとでも呼んでくれ」
「ウォル、さん?」
「あぁ。――お前がひなの、だろ? レレイナの弟子の」
「なぜ、わたしのことを? それにレレイナさんのことも?」
わたしの問いに、ウォルさんは答えることなくにやにやと笑うだけでした。
値踏みをするように上から下までわたしのことを眺めてくるウォルさんが次に発した言葉に、驚かずにはいられませんでした。
「異界からの漂流者だろ? お前」
「どうして?! それを!!」
思わず一歩後ろに下がったわたしは、カツ君を彼から見えないように隠して、左手の指を魔石に添えていました。
「え? どういう意味? ひな姉ちゃん?」
ちらりと見たカツ君は、どうやらウォルさんの発した言葉の意味がわからっていないようでした。
それも仕方がないでしょう。
異世界、異界という言葉は、魔法や歪魔に関わる書物にしか出てこない一種の専門用語です。一般的に使われることがないその言葉の意味を、カツ君が理解できようはずがありません。
「そう身構えるなって。ちょっと聞きたいことがあるだけなんだからよ」
「……」
レレイナさんの名前を知っていることから考えて、ウォルさんは知り合いか何かなのかも知れません。でも彼の発する不穏な空気から、敵かも知れないという思いを拭うことができません。
「元の世界では何をしていた?」
「……学生です」
「学者か何かか?」
「いえ、ただの学生、学徒です」
「ふむ……」
困ったように顔をしかめ、視線を逸らしたウォルさん。
「何か特別なことができるとか、そういうことはないのか?」
「特別なことって、どんなことでしょう?」
「何って訊かれても困るんだが……。学生ってのは、どんなことを勉強していたんだ?」
「言葉の勉強や、歴史や、数学などです。あとは、こちらに来てからレレイナさんに魔法を習っているくらいです」
「ふぅむ……」
さらに顔をしかめて顎をさすっているウォルさんは何か小さく呟いていましたが、それが何なのかまでは聞こえませんでした。
「いったい、何が訊きたいんですか?」
「いや、まぁ、どうしてお前だったのかな、ってな」
意味がわかりませんでした。
わたしのことを異界からの漂流者であることを知り、わたしに興味を持っているらしいことはわかりました。
でも、いったいどんなことを訊きたいのかは、よくわかりませんでした。
――もしかしたら。
彼はわたしがこの世界に来てしまった理由を知っているのかも知れない、と思いました。
どうしてそう思ったのかはわかりませんでしたが、彼の言動から、わたしやレレイナさんよりも、何か知っているのかも知れないと、思えました。
――魔法で捕まえて、レレイナさんのところに連れていく?
見たところウォルさんは普通の人とは思えない雰囲気と凄みを持っていますが、魔石を身につけているようには見えません。魔法が使える人ではないのだとしたら、捕まえることはできるかも知れません。
強引な手段であるのはわかっています。
でも、レレイナさんの知り合いだとするなら、あの人のところに連れていくことができれば、もっと多くのことを訊くことができるかも知れません。
魔石に添えた指で、魔力を引き出そうと集中します。どんな魔法でウォルさんを捕まえようかと考えているとき、彼は叱るような厳しい目で睨みつけてきました。
「街中で魔法を使うのはやめておけ。歪魔と間違えられて大変なことになるぞ。とくにいまはな」
言われてわたしは魔石から指を離しました。
魔法が使える人は、エリストーナの歴史でも数人しかいないほど希少です。
わたしがレレイナさんの家に住んでいるということは、街でもたくさんの人が知っていると思います。でも魔法が使えることについては、あまり人には言わないようにと、魔法もレレイナさんの許可なく街で使ってはならないと言われています。
でも、だからこそよくわかりません。
魔法を使おうとしたわたしのことを見抜き、そのことを警告してくれるウォルさんのことが、よくわからなくなっていました。
「いったい、何が訊きたかったんですか?」
先ほどした問いを、もう一度発してみます。
「なに、ちょっと話をしてみたかっただけさ。……どうしてお前を選んだんだろう、って、思ってな」
「それはどういう意味ですか?」
先ほどの蔑んだようなものとは違う、何か楽しそうに笑むウォルさん。
「せいぜい気をつけるこったな」
「え?」
どういう意味が含まれていたのかわからない、それまでとは違う爽やかさすら感じる笑みを浮かべたと思った瞬間、ウォルさんの姿が見えなくなりました。
一瞬で、彼はわたしの前から姿を消していました。
走り去ったのでも飛び上がったのでもありません。本当に一瞬で消えていなくなっていました。
たぶん、魔法を使ったのだと思います。
魔力の痕跡を、微かに感じました。
それがどんな魔法なのかまでは、わかりませんでしたが。
「ど、どこに行ったんだ? あいつ」
「……さぁ。魔法使いだったんだと思うけど」
レレイナさんの知り合いなのだとしたら、彼もまた魔法使いだったのかも知れません。
わたしのことを異界の人間だと知り、興味を持っていた様子のウォルさん。
予感に過ぎませんが、彼はもしかしたらわたしがエリストーナに来てしまった理由を知っている、そんな気がしました。
そして彼が最後に残した笑み。
――もう一度話してみたい。
優しさが含まれていたように思える彼の黒い瞳に、わたしはそう思わずにはいられませんでした。
*
広場までやってきた少女は、辺りを見回している様子だったが、目的のものは見つけられなかったらしい。
大きく取られた窓からその少女、ひなのの様子を見ているウォルは、にやりと口元に笑みを浮かべていた。
小市の日だというのに、どこか重い足取りの人々の中を歩くひなのは、高い位置にある窓に腰掛けるウォルからは小さくしか見えなかったが、その綺麗な黒髪は、街の多くの人々の金から茶色のものとは違い、目立って見えた。
おそらくウォルのことを探しているだろうことはわかっていたが、建物の三階まで目を向けることはなく、連れの少年と別れたひなのは北の方向へと歩いていった。
その様子をじっと見ていたウォルは、何かをつかむように伸ばした手を握る。
何もない虚空から現れたのは、黒い杖。
男としては小柄なウォルの身長を超えるほどの長さがあり、金属のような質感をしながらも、木の枝を捻ったような造作の杖の先端は、リング状の飾りとともに、こぶし大の赤い宝石が取り付けられていた。
「なんでお前は、あの何もできそうにない奴を選んだんだ?」
何かを憂うように目を細め、ウォルはまるで知り合いに話しかけるように杖に声をかける。
「あいつに、何か凄い力でもあるって言うのか?」
杖がその言葉に答えることはなく、黒光りする表面で窓から差し込む陽の光を照り返しているだけだった。
「なんでお前がここにいる?」
杖を眺め続けていたウォルにかけられた声。
机や棚、仮眠用であろうベッドといった家具はどれも簡素なものであったが、ひとり用としては広めに取られた執務用と思しき部屋の調度品は、見事な造作の羽根ペンや、ガラス製の水差しなど、みな部屋の主を示す高級な代物が揃えられていた。
ウォルに声をかけてきた男は、扉を開けた格好のまま部屋の中に入ってこようとはしない。窓から差し込む光が届かない場所に立つ彼の姿は、ウォルがいる窓辺からでは腰から下の辺りまでしかよくは見えなかった。
鎧を身につけた男は、少し強ばった声音でウォルに続く言葉を投げかける。
「勝手に入るなと言っておいただろう」
「問題ないだろ? どうせここにはお前以外は滅多に来ないんだ。それよりもここんところは城に詰めていたみたいじゃないか。何か成果でもあったか?」
「……」
男がこの部屋に来ていなかったことは、寝床として使っていたウォルは知っていた。
顔こそ影になって見えないが、返事のない様子から望むものが得られなかったことだけはわかった。
「そんなことより、その杖はいったいいつになったら使えるようになるんだ」
苛立ちを隠さず、男はウォルが手にした黒い杖を指さして言う。
男に向けていた視線を、杖にはめ込まれた宝石に向けた。
言葉もなく、見つめ合うようにしばらくの間宝石を眺めていたウォルは、小さくため息を吐いた。
「この前の魔法でかなり魔力を消費したからな。もう少しかかりそうだな」
「早くしてくれっ。お前は私の願いを叶えると言っただろう!」
「ま、そうなんだがな」
怒りの籠もった言葉に、ウォルはおどけたように肩を竦めるだけだった。
「あれがお前の願い、ってことはないのか?」
ちらりと見た窓の外。
先ほどまで見ていた黒髪は、もう窓から見える視界の範囲には発見できなかった。
「そんなわけがない! あんな何もできない小娘が、願いのはずがない!!」
「ふんっ。まぁいいがな。しかしこいつがあれを気に入ってるみたいだからな、魔力が戻っても、もう一度魔法が使えるかどうかはわからんぞ」
言ってウォルは杖の先端を男に向ける。
それまでの勢いを失い、男は恐れるように部屋の外まで後退った。
「それについてはこちらの方で何とかする。すでに手は打ってある。お前は早くもう一度魔法を使えるようにするんだ」
「手を打った、ねぇ……。まぁ、わかったよ」
口調こそ命令的であったが、力のない男の言葉にウォルは一応の了承の返事をする。
「この部屋にいても構わないが、他の人間には絶対見られないようにしろ。魔法が使えるようになったら言え」
最後まで部屋の中に入ってこなかった男は、そう言い残して扉を閉じた。扉越しでも響いて聞こえる遠ざかる足音に、ウォルは深いため息を漏らしていた。
「確かに面白そうな奴ではあったがな……。本当にお前はなんで、あんな小娘を選んだんだ?」
黒い杖がその問いに答えることはない。
右手を開いた瞬間に杖は虚空へと消え、窓枠に足をかけていたウォルはその膝に両手を重ね、そこに額を押しつけた。
そして長く長く、深い息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます