第一部 第二章
第一部 第二章 影差す都市 1
第二章 影差す街
* 1 *
「今日はどうしたのでしょう?」
東門をくぐって街に入ったわたしは、いつもと違う雰囲気に首を傾げていました。
今日は小市の日。
前回の大市の日に言われた街への出店の件は、あれからレレイナさんといろいろ話し合って、どうにか算段をつけることができていました。
今日は食材の買い出しの他に、お店のことについてもやらなければならないことがあったので街へと来たのですが、何か様子がおかしいことに気がつきました。
小市の日は戻ってきている交易船の数も少ないこともあって、露店は主に中央広場から船着き場に近い西側街道に集中しています。
市の日だけあって東門から中央広場に向かうまでにも人の出はかなり多いのですが、みんな一様に顔に影が差しているような感じがあって、集まって会話をしている人たちも、いつもの明るいやりとりとは違い噂話をするようにひそひそとした声で話し合っている様子が見られました。
見知った顔には出会わず、立ち聞きするのもどうかと思いつつ中央広場まで来ると、兵舎のところに人集りができていました。
「なんでしょう?」
不思議に思いながら近づいてみると、ここに来るまでにすれ違った人たちと同じく、少し暗い顔をしている人々の手前に、向こう側を見ようと背伸びをしているカツ君を発見しました。
「おはよう、カツ君。どうかしたの?」
言いながら彼の隣に立って背伸びをして、人集りの向こうを覗いてみます。みんなが見ていたのは、兵舎の前に立てられた木の立て札のようでした。
「おはよ、ひな姉ちゃん。立て札が立ってるって言うから親父に何書いてあるか確かめてこいって言われたんだけど、見えなくって……」
これからどんどん背が伸びるのでしょうが、成長期が来ていないらしいカツ君はまだ小柄な男の子です。大人の人集りは背伸びしても見通せそうにありませんでした。
「えぇっと……」
それじゃあと思って、もう一度背伸びをしたわたしは立て札に書かれた文字を読んでみます。
内容は増税の告知でした。
いつから増税になるかという文章と、その下に新しい税率と変更される品目などのリスト、それから最後に増税の目的が書かれていました。
「――そんな感じだって」
読み上げて背伸びをやめてカツ君の方を見ると、きらきらとした目でわたしのことを見上げていました。
「すごい……。ひな姉ちゃんって、あれが読めるんだ」
「え? えぇっと、少しくらいなら……」
目を輝かせてすごいすごいと繰り返すカツ君に、わたしはどうしていいのかわらかず恥ずかしくなってしまいます。
エリストーナの言葉については、会話だけでなく読み書きについてもレレイナさんにみっちり習っていました。
日常生活にはだいたい不都合がなくなったいまもわからない言葉がたくさんあるので、週に一日か二日は言葉の勉強をしています。
学校で英語を勉強していたとは言え日本語しか喋れなかったわたしにとって、この世界の言葉が喋れるかどうかはここで生きられるかどうかに関わる問題だったので必死でしたし、違うところも多いのですが、英語に近いエリストーナの言葉はそれほど違和感なく憶えることができていました。
――そうか。カツ君は文字が読めないんだ。
エリストーナの識字率はどれくらいなのかわかりませんが、日本ほど高くないのは確かです。会話はできても読み書きができない人が多いという話は、レレイナさんから聞いていました。
そもそもエリストーナには日本で言うところの幼稚園や小学校というものはありません。
学校自体はありますが、商人や神官になる人向けの、ある程度裕福な家の人が通うもので、子供の誰もが通う学校というものは存在しないと聞いています。仕事で使うような、日常的な単語さえ読めれば支障はないらしいです。
――やっぱり、いろいろと違うんだ。
話には聞いていましたが、東京で生まれ育ったわたしにとっての常識と違うところを直接目の当たりにすると、驚くのと一緒に戸惑ってしまいます。
「やっぱりすごいんだね、ひな姉ちゃんはっ」
「そ、そんなことないですよー」
わたしのことを持ち上げる言葉を繰り返すカツ君に恥ずかしくて目を逸らしたとき、広場を挟んで反対側にある大きな建物が見えました。
中央神殿。
増税の目的のひとつは、中央神殿の建て直しとなっていました。
街で一番大きい神殿は、北側にあるお城の隣に建ち、重要な儀式の多くを行う大神殿で、広場にある中央神殿はそれに次ぐ二番目に大きな神殿です。
エリストーナでは守り神であり、ストーナル河の化身でもある女神ストーナを中心に、他にも多くの神様が崇められています。
太陽神や大地神といった自然がそのまま神様になったものの他に、商売の神様や航海や旅の神様といったたくさんの神様が街にいくつかある小規模な神殿、多くの祠などで祭られています。
中央神殿はそうした神様を祭る場所として重要なだけでなく、街の人々に最も親しまれている神殿だと思います。
木造なのにとても大きな偉容を誇る中央神殿に寄り添うように、見上げるほどの高さの高い塔があります。
それは鐘楼。
中央神殿は別名鐘楼神殿とも呼ばれ、街の中に住む人だけでなく、近くの集落や村にも聞こえるほどの大きさで鐘を鳴らし、時刻を知らせてくれます。その音は微かながら、レレイナさんの家でも聞こえるほどです。
古びているというよりも、時間を重ねて風格を漂わせるようにも見える鐘楼に、わたしは広場を渡って近寄ってみました。
――なぜか、寂しい気もしますね……。
建物は古くなると建て直すもの。
でもエリストーナの人々に長い間愛され続けてきた建物を壊してしまうのは、ここに住むようになってまだそんなに経っていないのに、もったいなくも思えました。
「どうかしたの? ひな姉ちゃん」
一緒に着いてきていたカツ君に問われますが、いまの気持ちをどう言っていいのかわかりませんでした。
「なんでもない、と思うんだけど、これを壊しちゃうんだなぁ、って」
「そりゃあ古いから仕方ないよ。親父が生まれる前にできたらしいし」
「そうなんですね」
中央神殿と同じく石を土台にして、たくさんの木を組み上げて造られている鐘楼は、近づいてみると塗られた染料がはげていたりしていて古びてはいますが、そんな様子を見ても風格を失うものではありません。初詣などで行くことがある古い神社などと同じく、みんなに愛されて、しっかりと修繕しながらここに建っている建物なのだということがわかります。
取り壊すことは決まっていることなのだと思いますが、すぐ側に立って、手で触れ、真上を見るほどの高さの鐘楼を見上げると、なんだか悲しい気持ちになっている自分に気づきました。
――あれ?
ふと足の下に何かを踏んづけている感触に気づきました。
革を縫い合わせてできた靴の底は厚手の革でできているので、小石を踏んづけているだけでも感触が伝わってきます。
足をどかしてしゃがんでみると、小さな木の欠片が落ちていました。
「なんだろう、これ」
手を伸ばして拾ってみた木の欠片は、おそらく鐘楼から落ちてきたものなのだと思いますが、表面がささくれ立ったりしていなくて、綺麗というほどではありませんでしたが滑らかになっていました。
――こういうものをどこかで見たことあるような……。
木の欠片は他にもいくつかあって、さらにおが屑のような粉になったものが撒いてあって、それらをどこかで見たことがあるような気がしました。
「何かあったの? ひな姉ちゃん」
「うぅん。何でもないよ」
考えてみても思い出せなくて、カツ君の呼び声に手に持っていた木片を捨てて立ち上がります。
「街の人が暗い顔をしていたのは、増税の告知があったからなんだね」
「ん……。それもあると思うけど、違うよ」
わたしの言葉に、カツ君の顔にも他の人と同じように暗い影が差していました。
「何か、あったの?」
「うぅん。何もないよ、……まだ」
「まだ?」
口をきつく引き結ぶカツ君の表情は、苦しそうに見えました。
街の人にも、いつも明るいカツ君にも暗い影を落とすこととは何なのか、気になります。
「どういうこと?」
「何日か前から、噂が流れてるんだ。歪魔が街に入り込んだ、って」
「歪魔が街にって……」
先日ユーナスさんとも歪魔の話をしていましたが、歪魔は現在封魔の地に追いやられていて、リストメア王国内にはほとんどいないはずです。
五十年前に魔王が討ち取られて終結した大侵攻の直後は、王国にもたくさんの歪魔がいたようですが、王国軍などの討伐によって、もう長い間エリストーナの近くで歪魔が現れたことはないと、レレイナさんから聞いていました。
歪魔への対策のために建造されたという街壁。それができる前には歪魔の襲撃によって多くの被害が出ることがしばしばあったという話も、聞いていました。
「俺、怖いよ……」
両手を強く握りしめて、引き締めた唇を微かに震わせているカツ君。
歪魔への恐怖は、彼にも語り継がれているのでしょう。
もしかしたら戦争よりも恐ろしいことになるかも知れない歪魔の街への侵入の噂は、増税よりもよほど街に暗い影を落とすものなのだと感じました。
カツ君を元気づけたいと思いましたが、言葉が思い浮かびません。
これほどまでに彼を怖がらせる歪魔のことをほとんど知らず、たいした力も持っていないわたしには、かけて上げられる言葉が見つかりませんでした。
「いまの街にゃそんなことより気をつけることがあるがな」
突然後ろからかけられた声。
背筋に走った寒気のようなものに、わたしは反射的にカツ君を後ろに隠すようにして振り返っていました。
立っていたのは若い男の人。
街の人と変わりのないシャツとズボンを身につけ、ツンツンとした黒い髪の男の人は、でも何かが違っていました。
「なぁ、嬢ちゃんよ。ちょっと面貸してくれよ」
少し顎を反らしながらどこか凄みのある顔立ちの彼は、笑みの形に片方の唇の端をつり上げているだけでした。
でもわたしは、そんな彼の笑みに、背筋に汗が流れ落ちていくのを感じていました。
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