第一部 第一章 魔女見習いの一日 6
* 6 *
いつもは歩いて十五分ほどかかる道のりを半分ほどの時間で駆け抜け、家にたどり着いたわたしは荷物をキッチンに放り出して自分の部屋へと駆け込みます。
涙は、まだ止まりませんでした。
服を着たまま、靴を脱ぐことも忘れて、ベッドに潜り込んで身体を小さく縮込ませていることしかできませんでした。
いまの気持ちをどう表現したらいいのかわかりません。
ただひたすらに、胸が痛い。
お米が入った袋を胸に抱いて、ただただ涙を流していることしかできませんでした。
エリストーナに来てしまってから四ヶ月。
わたしはその間、幸運で、そして幸せな時間を過ごしてきたと思います。
レレイナさんに出会って、家に住まわせてもらって、いろんなことを教えてもらって、右も左もわからない世界で生きていくことができるようになりました。
数日と経たずに死んでしまう可能性も高かったわたしは、いまはここで生きることができています。
そのことは幸運であると、幸せなことであると言っても、過言ではないはずです。
でもここは、違う世界です。
わたしが十四年近く生きてきた東京とは、まったく違う世界でした。
気候も、景色も、生活も。
風の音すらも、漂う匂いすらも、食べ物の味すらも。
違うことが嫌いであったわけではありません。
最初のうち苦労はたくさんありましたが、それが嫌なことばかりというわけではありませんでした。
むしろわたしは、ここが好きです。エリストーナのことが好きになっています。
レレイナさんがいて、カツ君や街の人や集落の人がいて、みんな優しくて、暖かい場所だと感じられるここが、好きだと感じています。
でも、やはり違います。
ここはわたしが生まれ育った場所ではありません。
お父さんがいて、お母さんがいて、友達がいて、学校があって、そんな当たり前のものがあった日本とは、違う場所です。
「帰りたい……」
この世界に来て、幾度そう思ったでしょう。
どれくらい泣いたでしょう。
最初のうちわけがわからなかったときは、毎日こうして泣いて過ごしていました。
ただ布団に潜り込んで、身体を小さく丸めて、止まることのない涙を流していることしかできませんでした。
そして今日も、涙を止めることができそうにありません。
――帰りたい。帰りたい。帰りたい。
ずっとそう思っていて、でもたぶん、帰る方法はなくて、こんなところに来てしまった理由もわからないわたしは、ずっとその気持ちを抑え込んできました。
今日味わってしまったお米の味が、その想いをあふれ出させてしまいました。
「どうしたのかしら? ひなの」
かけられた声に、わたしはさらに身体を小さく丸めることしかできません。
「済み、ません。夕食の準備は、もう少し、待っていてください。……すぐに、できるだけすぐに、つくりますから」
詰まる喉でどうにか言葉を絞り出します。
涙でくしゃくしゃになっている顔を、レレイナさんに見せたくはありません。
これまでずっと優しくしてくれていた人に、こんな想いを伝えることはできません。
「いいのよ、それは」
近づいてきた声がベッドを軽く軋ませました。
「何があったのかを教えてちょうだい、ひなの」
ベッドに座ったレレイナさんの声は、優しくて、お母さんとは違うのに、まるでお母さんに言われているみたいでした。
「……これを、今日、街でいただいたんです」
身体を起こして、でもレレイナさんに顔は向けられなくて、うつむいたまま握っていた袋を差し出します。
わたしにも見えるように開かれた中身は、籾。
籾殻がついたままのお米が中に入っています。
「これは何?」
「『お米』……、『米』という穀物です」
「麦とは違うの?」
「はい。種類の違うものです。……わたしの、わたしの生まれ育った場所でよく食べていたものです」
うつむいたまま、わたしはそう答えます。
「なるほどね」
袋の口を閉じて、わたしの手に握らせてくれたレレイナさん。
それからわたしの顎に手を添えて、強引に顔を上げさせてきました。
「帰りたいのね、ひなの」
言われて、少し収まっていた涙がまたあふれ出してきました。
わたしはこれまで、一度も帰りたいとは言いませんでした。
言えませんでした。
だって、怖かったから。
答えを聞くのが怖くて怖くて、仕方がなかったから。
でももう、無理そうです。
いままでレレイナさんに問うことができなかったことを、今日は訊くしかありません。
「あの、レレイナさん」
優しい笑みを湛えているレレイナさん。
緑の瞳が、真っ直ぐにわたしの潤んだ瞳を見つめていました。
それを見た瞬間、何となくわたしはわかりました。
いえ、たぶんそれは最初からわかっていることでした。
レレイナさんはこれまで一度もその話題に触れたことがありませんでした。筆談でしか話せなかったときも、エリストーナの言葉をわたしが覚えて、生活に支障がないくらい話せるようになった後でも、レレイナさんは一度も話そうとしませんでした。
これまでにも予想していた答え。
それでもわたしは、直接問うしかありませんでした。
「わたしが、元の世界に帰る方法は、ありますか?」
口元に笑みを浮かべたまま、けれど、わずかに細められた緑の瞳。
――あぁ、やっぱり。
そう思いました。
この時点で、わたしは質問の答えを、理解しました。
そうだとしても、わたしは答えを聞かなければなりません。
「私は、ひなのを元の世界に還す方法を知らない」
予想通りの返答。
四ヶ月の間、レレイナさんが一度も触れなかった話題。
だからあるとき、そうなんだろうと思うようになりました。
それでも、それをはっきり聞くのは怖くて、いままで直接訊くことができませんでした。
エリストーナに来てしまったわたしにとって、レレイナさんに出会えたことはとても幸運なことだったでしょう。
でも、この世界に来てしまったわたしは、不幸だと言わざるを得ません。
お父さんにもお母さんにも友達にももう二度と会えないわたしは、持っていたはずの幸せを、失ってしまっていました。
あふれた涙が頬を伝って、次々と滴になって落ちていきます。
喉にこみ上げてくるものを、もう我慢することができません。
「どうして……、どうしてわたしはここに来てしまったのでしょう」
一度あふれ出してしまった想いは、もう止めることができませんでした。
背中に手を回して抱き寄せてくれるレレイナさんの柔らかい胸で、わたしは大きな声を上げて泣くことしかできませんでした。
「ひなのがエリストーナに来てしまった理由は、私にもわからない。ただの偶然なのかも知れない。でもね、ひなの」
優しく背中を撫でてくれるレレイナさんが、耳元で囁くように言います。
「この世界はとても広いのよ。私の知らない知識も、私の知らない魔法も、まだまだたくさんあるはずよ。その中に、元の世界に帰る方法があるかも知れない」
「そんなものが、本当にあるでしょうか?」
長寿族であるレレイナさんは、長い間、様々なところを旅してきたと聞いています。
そのレレイナさんにも知らないことがまだあるというのでしょうか。
「ある、とはっきり言うことはできない。でももしかしたら、世界のどこかにはあるかも知れない」
レレイナさんの胸から顔を上げて、その瞳をじっと見つめます。
わたしのことを見つめ返してくれる瞳には、希望の色は浮かんでいませんでした。
でも、嘘を言っているようにも、見えませんでした。
「どうやったら、レレイナさんも知らないことを知ることができるでしょう?」
「旅に出なさい、ひなの」
「旅に?」
わたしのことを包み込むような笑みを浮かべて、レレイナさんは言います。
「いまずぐでなくていい。私のところに来て、ひなのはたくさんのことを憶えたけど、旅に出るには充分とは言えない。でもいつか、旅に出なさい。知らない場所に行き、知らない知識を、魔法を集めなさい。それができるよう、私はこれからもたくさんのことを教えて上げるから」
――なぜ?
そう思いました。
優しい笑みを浮かべているレレイナさんの瞳に、揺らぎはありません。
でもなぜ、レレイナさんがわたしにこんなに良くしてくれるのかも、わかりません。
お金には困っていないのだと思います。魔法の素質は希少なもので、わたしにはそれがあります。だからと言って、レレイナさんがわたしに良くしてくれる理由は見つかりません。
「なぜレレイナさんは、わたしにそんなに良くしてくれるんですか?」
「そうね――」
少し考え込むように目を逸らしたレレイナさん。
何かを思い出しているみたいに口元に笑みを浮かべて、何かを懐かしんでいるように細めた目をしていたレレイナさんは、わたしのことを見て言います。
「昔の知り合いに似ているから、かしらね」
「昔の知り合い?」
「えぇ。その子はよく笑う子で、でも泣き虫で、そして頑張り屋さんだった。ひなのはその子によく似ているのよ」
わたしのことを見つめる緑の瞳に、わずかな曇りがあることに気がつきました。
ファルアリースでも珍しい長寿族であるレレイナさんが、どれくらい生きてきたのかはわかりません。
でももし、その人が人間だとしたら……。
「……あの、その人はいまは?」
「死んだわ。もう五十年も前の話」
何でしょうか。
懐かしむようだった瞳にいま浮かんでいるのは、悲しみなのでしょうか。
それとも何か少し違うようにも思える複雑な想いが浮かんだ瞳の色を、わたしは理解することができませんでした。
「大丈夫よ、ひなの。貴女が旅に出たいと思えるときが来るまでは、ここにいて構わない。ここにいる間は私はできる限りのことを教えてあげる」
「……はい」
そう言ったレレイナさんの笑顔は、顔かたちも、声も、瞳の色も違うのに、どこかお母さんに似ているような気がしました。
だからわたしは、いまはここにいようと思うことができました。
本当に旅に出ようと思えるときがくるかどうかはわかりません。でもそう思えるときが来るまでは、レレイナさんと一緒に過ごしていたいと、思うことができました。
「でも少しいままでと違う方法も試してみようかしらね?」
「違う方法、ですか?」
「えぇ」
少しいたずらな笑みを浮かべているレレイナさんは、ベッドから立ち上がって跳ね上げたままの鎧戸から外を眺めます。
手招きされて近寄って彼女と同じ方向に顔を向けると、広場の隅に建っている倉庫が見えました。
街の名士が建てたというこの家には、母屋の他に作業用の小さめの小屋と、日本の蔵に近いつくりの倉庫があります。
「あの倉庫の中には私がいろんなところで集めてきた物が入っているのは、知ってるわね」
「はい」
レレイナさんの言う通りそこには大小いろんな道具などが収められていて、整理していないからといままで掃除はしていませんでした。
「あそこに入っているのは旅の途中で見つけたのや、街で見つけた異界から流れ着いたかも知れないものが集めて入れてあるの。で、そろそろいっぱいだから、ある程度処分しようと思うのよ」
「えぇっと?」
どういう意味があるのかわからなくて、レレイナさんの顔を見てわたしは小首を傾げてしまいます。
「街で、お店を開いてみない? ひなの」
「え?」
思いがけないことを言われて、どう反応していいのかわかりませんでした。
「本当に異界から流れ着いたものは他の場所に保管してあるから、あそこにあるのはほとんどいらないものよ。だからあそこのもの、売ってみてくれない? 街に、お店を構えてね」
「そ、そんなこと、わたしには……」
お店を構えるなんてこと、わたしにできるとは思えませんでした。
東京にいるときだって、アルバイトはもちろん、お店とかの手伝いもしたこともありません。
「そんなに難しいことがあるわけじゃないし、これまで私が見てきたひなのにならできるんじゃないかしら。……まぁ、あそこの道具類の正体はわからないものが多いけど、貴女にはアルカディアもあるしね」
「……で、でも」
「道具を置くのだから常設のお店の方がいいけれど、お店を開くのは市の日が良いかしらね。他にも教えたいことも、やってほしいこともあるし。別にあそこにあるものだけじゃなくて、ひなのが考えた商品を置いても構わない。それにお店をやっていれば、いままでよりもたくさんのことを知ることもできる。私が教えられることは、あくまで知識。それ以外にも自分で感じて、考えて、たくさんの経験をすることも、旅を出るには必要なことになるでしょう」
言ってレレイナさんはわたしの肩を抱き寄せます。
いままでで一番優しさを込めた瞳でわたしのことを見てくれます。
「ひなのなら、できると思うのよ」
「……はい。わたし、やってみます」
いつの間にか、涙は止まっていました。
しっかりとレレイナさんの顔を見つめて、笑みを返します。
レレイナさんからの提案に、わたしはもう怖いという気持ちも、悲しみも、迷いもなくなっていました。
「他にやりたいことは、ある?」
「えっと……。とりあえずご飯の、お米の炊き方を調べて……、それからできたら、『お醤油』と『お味噌』がほしいですね」
エリストーナの食事は塩味を基本として、コショウなどの香辛料、いろんな種類があるハーブなどで変化の幅はあるのですが、どうしても物足りません。
お醤油やお味噌に含まれている旨味の成分が足りないのではないかと思います。
「それはアルカディアでわかることなの?」
「ご飯はこのお米がありますから、調べれば炊き方はわかりますけど……、『お醤油』と『お味噌』は難しいですね。たぶん、材料がないと思います」
いろんな種類の豆類は売っているのは知っていますが、大豆はいままで見たことがありません。エリストーナには入ってきていないものなのかも知れません。
「ひなのの味付けは、けっこう独特なのよね」
「えぇっと……、そうかも知れません」
考え込むようにわずかに目を細めるレレイナさんの言葉に、思い当たる節はあります。
しっかり意識しているわけではありませんが、わたしはどうしても家で食べていた食事を思い描いて味を調節していたと思います。
「でも好きよ、ひなのの料理。もしその『オショウユ』と『オミソ』というのもつくることができたら、私にも食べさせてちょうだいね」
「はいっ。必ず!」
そう言って笑ってくれたレレイナさんに、わたしもやっと、心からの笑顔を返すことができるようになっていました。
*
アルコールランプに把手をつけたような陶製のランプは、夜となった部屋を意外に明るく照らし出しています。
椅子に座り、机に向かっているわたしの前にあるのは、立てかけたアルカディアと、籾の入った袋、それから羊皮紙と何冊かの本です。
遅くなってしまった夕食を終え、片付けをした後、わたしは寝る前の日課に取りかかっていました。
綿実油のランプとアルカディアの液晶の灯りを頼りに、インクに浸した羽根ペンを羊皮紙に走らせます。
レレイナさんに言いつけられている日課は、アルカディアに内蔵されている書籍の転記。
主に百科事典の内容をエリストーナの言葉に訳して書いていく作業となるのですが、これがなかなか進みません。
日本語とエリストーナの言葉の対訳辞書なんてものはもちろん存在しませんし、意味がわかっていても訳すのが難しい言葉がたくさんあります。
活版印刷術がなく、エリストーナでは手書きのものしかないため書籍は貴重で、国語辞典もないため、レレイナさんが持っている図鑑のような本や語録集などを借りてそこから言葉を拾ってきたりしていますが、度々訊かなければならない言葉が出てきます。
でも今日やっているのは、いつもの百科事典の翻訳転記ではありません。
アルカディアに表示しているのは、料理の本のページ。
それもお鍋でご飯を炊くための方法について。
材料についてはまだまだわからない言葉がありますが、料理に関する言葉はだいたい憶えています。
最初から成功できるかどうかは不安なところですが、この家にある鍋でもお米は炊けそうです。
ついでに概要部分だけですが、お醤油のつくり方と、お味噌のつくり方についても、転記しておきます。
アルカディアはいまのわたしにとってとても大切なもので、大事にしていますが、たぶんいつかは壊れてしまうことでしょう。
修理することが不可能なアルカディアから、必要なことは早めに転記しておくべきです。
「ふぅ……」
ずいぶん時間がかかって、夕食が遅くなってしまったのもあって、いつもより遅い時間になってしまいました。
羊皮紙を手に取り書き終えた内容を読み返しつつ、わたしはため息を漏らしてしまいます。
エリストーナに来てしまってから四ヶ月。
レレイナさんに拾ってもらって、街の人にも受け入れてもらって、不自由のない生活はできるようになってきました。
それでもやはり、わたしは家に帰りたいと、願い続けていました。
この世界に来てしまってからやっと、わたしは元の世界に生きていた自分が幸せだったのだと、理解することができました。
帰る方法は、いまはわかりません。
でもいつかは、帰りたいと思っています。
明日レレイナさんに訊かなければならないところを確認しつつ、アルカディアの電源を落として、本と筆記用具を片付けたわたしは、服を脱いで畳んで、ベッドに潜り込みます。
いまの生活もまた、幸せなのだと思います。
それでも元の世界に帰りたいと願っているわたしは、その方法を探すために旅に出なければならないのでしょう。
布団の中で身体を丸めて、目をつむります。
「やれることをやってみよう」
小さく声に出して、わたしは決意を新たにします。
手がかりは何もありません。
本当に帰れるのかどうかすら、わかりません。
それでもいまはやれることを、とりあえずはレレイナさんに提案してもらった、街でお店を開いてみようと考えつつ、いつしか眠りへと落ちていっていました。
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