第一部 第三章 魔法の真実と現実 5
* 5 *
――これから、どうしよう。
夜なのに街から急いで出ようとしていた商人の方の荷車の影に隠れて、どうにか東門を抜けることができたわたしは、暗がりを選んで走って、レレイナさんの家までたどり着くことができました。
家にはまだ、レレイナさんは帰ってきていないようです。今日、街に出かけるときのまま、家の中はひんやりとしていました。
灯りは点けず、暗さに慣れた目でキッチンに行き水をひと口飲んだ後、わたしは自分の部屋に入りました。潜り込みたくなる衝動を抑えて、ベッドに腰掛けます。
このままエリストーナにいられないことは、わかっています。
噂が流れているときにも、今日の鐘楼のときにも、人々の歪魔への強い想いは、恐怖は、伝わってきていました。
もし歪魔として捕まったらどうなるかは、あまり考えたくありませんでした。
「街を出よう」
声に出して身体を奮い立たせて、部屋にある袋を手に取ったわたしは、必要なものを詰めようとローチェストに近づきます。
――制服、どうしよう。
ローチェストの奥には、この世界に来てしまったときに着ていた中学の制服が隠すように入れてあります。
エリストーナにはない素材で、エリストーナにはないボタンやファスナーが使われていて、着て歩くことができるものではありません。
でもアルカディアと同じく元の世界から持ってきた数少ないわたしの持ち物で、手放したいものではありません。
もしここを離れるのだとしたら、とくに当てがあるわけではありませんが、たくさんの荷物を持っていくことができないこともわかっています。
引き出しの奥に入っていた制服やストッキングを取り出して悩んでいるとき、微かに扉が開く音が聞こえてきました。
――どうしよう。
もしかしたら誰かがここまでやってきたのかも知れません。
近づいてくる潜めた足音に、わたしは窓からでも外に逃げようかと考えますが、制服を手にしたまま、動くことができませんでした。
「ひな姉ちゃん、いる?」
聞こえてきたのは、カツ君の声。
緊張していた身体が安堵で崩れそうになるのを堪えながら、心細そうな彼の声に、わたしは制服を引き出しの奥に戻して立ち上がりました。
「カツ君? どうしてここに?」
部屋の扉を開けるとすぐそこに、ランプを手にしたカツ君がいました。
他に誰かがいる様子もありません。カツ君ひとりが、すぐ目の前にいました。
「えぇっと……、親父がこれを持って行けって。それと、隠れるなら北にうちの作業小屋があるんだけどさ、そこならしばらくは大丈夫だからって」
袋の中から差し出されたのは、パンと何かの包み。それに、落としてなくしてしまったはずの、今日買ったカツ君がつくったお皿などでした。
受け取った包みを解いて木の容器を開けると、まだ暖かさを感じるスープが入っていました。
「あり、がとう……」
思わず、涙が出そうになっていました。
逃げることばかり考えていて、他に何も考えられなくなっていて、差し出されたスープの温かさに、わたしは胸にこみ上げてくるものがあるのを感じていました。
「食べよう? もう、お腹が空いて大変なんだ」
朝ご飯は食べましたが、食事を摂ることも忘れていたわたしは、良い匂いのスープに、いままで忘れていた空腹を感じるようになっていました。
いまはまだ、この家の側には人の気配はないようです。
灯りを煌々と点けるわけにはいかないため、カツ君が持っているランプを借りてキッチンへと行き、わたしはそこでお皿とスプーンを準備し、ふたりで食事を始めました。
スープは熱いほどではありませんでしたが、ひと口飲むごとにわたしの身体を温めてくれました。スープに浸して食べるパンは、いつもはあまり美味しいとは感じないのに、今日は泣きそうなほど美味しく感じました。
カツ君やガロットさんのように、わたしのことを知り、信じてくれる人がいることがわかっただけで、こんなにも安心することができるんだと感じていました。
「さぁ行こう」
北の作業小屋の詳しい位置や、いまの街の様子を聞きながら食事を終え、カツ君はそう言って立ち上がりました。
「うん……」
わたしも立ち上がりますが、歩き出すことができません。
次に自分がどうするべきかを、考えてしまっていました。
カツ君に会えて、食事をしたことで、逃げることしかなかったわたしの頭は、先ほどよりももう少し考えることができるようになっていました。
いつもなら、お城にいるファル君の側には、たくさんの人がいて、いざとなれば彼のことを守ってくれるでしょう。でもいまは、街には多くの人が歪魔を、わたしを探していて、もしかしたらお城の兵士の方も動員されているかもしれません。
それでもファル君を守る人が全員いなくなるということはないでしょうし、男の人三人くらいならば、襲撃されても問題はないんじゃないかと思います。
『ひなの。君にはエリストーナの住人のひとりとして、君にできることをやってもらいたいと考えてる』
ふと、ファル君に言われた言葉を思い出していました。
ファル君はわたしを、エリストーナの住人と認めてくれて、やれることをやってほしいと言っていました。
いまもそう考えてくれているかはわかりません。でも彼なら、事情を知れば、わたしのことを信じてくれるのではないかと思えました。
逃げ出そうという気持ちも、迷いも、そう考えているうちに消えてなくなって来つつありました。
「ひな姉ちゃん? どうしたの?」
「ゴメン、カツ君。わたしはやることがあるの」
わたしはカツ君の問いかけに、そう笑みを見せながら答えていました。
――わたしに、何ができる?
魔法の力もあまりなく、剣を持っている男の人たちに対して、わたしができることは大してありません。
もしあの人たちを見つけることができたら、一瞬でも足止めして、声でも上げることができたら、人を呼ぶことができる。
わたしができることはたぶんそこまで。それでも、ファル君の助けに少しでもなれるかも知れない。ファル君を襲おうとしてる人の存在を知っているわたしだけが、いまできること。
「そうだ」
振り向いて棚から取り出したのは、コショウが入った壺。
「他には?」
コショウだけではダメかも知れません。他にも使えるものがないかと思って、わたしは肩に提げた袋からアルカディアを取り出して、指を滑らせ起動させます。
「なんなの? それ」
液晶画面が光を放ち、ランプの灯りしかなかったキッチンを照らし出しました。
驚いている様子のカツ君に笑みを投げかけて、わたしはその問いに答えます。
「魔法の道具、かな? えぇっと、知識の石盤、アルカディア。わたしの大切な相棒。あのときカツ君の熱を下げることができたのも、これがあったからなの。ゴメンね、わたしの力なんかじゃないの」
「そう、なんだ……」
驚き過ぎて言葉を失ってるらしいカツ君を横目で見ながら、わたしは声に出してアルカディアに呼びかけました。
「『催涙成分の検索』」
アルカディアの特徴は、情報量の多さだけではありません。何より優秀なのは、検索能力だと言われています。
曖昧な言葉でもそれに合うものを搭載された情報から探し出して表示してくれる機能こそが、アルカディアの真価だと言ってもいいんだと思います。
でも、催涙成分の情報については、年齢による制限がかけられていて、検索をすることができませんでした。
――それなら。
わたしは次に、いまこの家にある調味料などを次々と読み上げて、鼻や目に刺激のあるものを探し出します。
そうして集まったのは、粉のカラシやいくつかのハーブなど。
――これを、どうする?
瓶などに詰めて投げつけても、受け止められてしまっては効果を発揮することができません。投げつけた時点で効果を発揮するようなものに入れておく必要があります。
――うん、ある。
調理器具の棚の引き出しからナイフを取り出して、わたしは自分の部屋へと向かうために走り出しました。
「突然どうしたの? ひな姉ちゃん」
「ゴメンね。わたしはまだ行けない。お城に行かないといけないの」
部屋に行って取り出したのは、引き出しの奥底に仕舞ってあるもの。この世界に来たときに穿いていたストッキング。
一瞬ためらって、でもファル君の顔を思い出して、わたしはナイフでストッキングをある程度の長さに切り取ります。
キッチンに戻って集めた材料を混ぜ合わせてある壺の口を、ストッキングで覆うように被せてひっくり返します。
ストッキングを持ち上げて少し揺すってみると、中身のいろんなものが混ざった粉が、思った通り漏れ出てくることが確認できました。
「お城へって……。いまひな姉ちゃんは追われてるんだよ? 落ち着くまではそんなとこに行ったら危ないよ!」
「わかってる。でも、ファル君が……、領主様が今晩襲われるかも知れないの。それを知ってるから、わたしは行かなくちゃいけないの」
ランプとアルカディアの光の中で、わたしは心配そうな顔をして見つめてくるカツ君の顔を、真っ直ぐに見つめ返します。
一瞬泣きそうな顔になったカツ君ですが、諦めたようにため息を吐いて言いました。
「……お城に忍び込むなら、いい入り口があるよ」
「そうなの?」
「うん。前に遊んでるときに見つけたんだけど、たぶん秘密の通路だと思うんだ」
「教えて!」
思わずカツ君の両肩をつかんでしまっていました。
「うん……、案内するよ。それと、これ」
カツ君が取り出したのは、濃い茶色の外套。
夜ならばこれを着ていれば見つかりにくいでしょうし、着ている人をよく見るものなので、正体も隠せるかも知れません。
「いつ襲われるかわからないから、すぐに行こう」
「わかった」
同じ外套を着たカツ君の案内で、アルカディアを仕舞い、必要な道具を袋に収めたわたしは家を飛び出しました。
もう暗い気持ちも、ためらう想いも、いまはなくなっていました。
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