第一部 第五章 エリストーナのひなの 3
* 3 *
「遅刻しちゃうっ」
アルカディアを起動して宿題が全部送信済みなのを確認したわたしは、鞄にそれを仕舞って急いで部屋を出ました。
「おはよう、ひなの」
階段を下りてダイニングに駆け込むと、いつもと変わりのないお母さんの柔らかい笑顔が迎えてくれました。
「何度も起こしたのに」
「うん。ごめんなさい。おはよう」
お母さんが部屋に来て何度か起こしてくれたのはうっすらと憶えていますが、日付が変わった後までかかった宿題で、二度寝してしまっていました。
ゴールデンウィークくらいゆっくり休ませてくれればいいと思うのに、数学も国語も理科も、それぞれの量は少なくても合わせるとかなりの量の宿題が出ていて、あんまり遊んでる暇もありませんでした。
「おはよう」
「おはよう、お父さん」
お父さんの斜め向かいの席に座って、お母さんが持ってきてくれた朝食を食べ始めます。
「スープもちゃんと飲みなさい」
牛乳を飲んでトーストを頬張って立ち上がろうとしたわたしに、お母さんが言います。
たぶん寝坊したわたしのためにすぐに食べられるよう用意してくれた食事は、簡単なものでしたがやっぱりお母さんの味で、いつも通り美味しいものでした。
ゆっくり食べていられないのが残念なくらいの朝食を食べて、残りの準備を終えたわたしは急いで玄関に行って靴を履きました。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「うん、行ってきますっ」
いつものように玄関まで送り出してきてくれたお母さんに返事をして、玄関の扉を開けて駆け出します。
どうにかいつも乗ってる電車に間に合って、扉の側の棒に捕まってやっとひと息つくことができました。
電車の中にはサラリーマンの人やOLさんの他に、わたしと同じ学校の制服を着た人がたくさん乗っています。
反対側の扉のところには、制服を着た男の子と女の子が、潜めた声で話しながら、笑い合っていました。
たぶん、恋人同士なんでしょう。
下の方で指と指を触れあわせるくらいにつないでる手は、とても幸せそうな感じがしました。
――わたしにも、そういう人が現れないかな。
わたしにはいまのところ、好きな人も、好きだと言ってくれた人もいません。
いつかはわたしもあのふたりのように、お父さんとお母さんのように、好きな人が現れるんじゃないかと思いますが、いますぐには望めそうもありませんでした。
電車を降りて学校へと向かい、友達やクラスメイトと挨拶を交わしながら教室へと入ります。
しばし昨日やってたドラマの話や、ゴールデンウィーク中のことを友達と話した後、やってきた担任の先生の号令で席に着きます。朝のホームルームにやってきた先生は、簡単な注意事項を話してから、端末を出す様に言ってプリントのファイルを全員に送信しました。
配られたファイルは、進路希望に関するもの。
二年生になってまだそんなに経っていないのに、もう将来のことを考えなくてはなりません。
提出日などを言った先生は、授業の準備をするためにいったん教室を出て行きました。
第一第二第三とある進路希望の項目を見ながら、わたしは考え込んでしまいます。
お父さんにもお母さんにも相談していませんでしたが、高校に行くことだけは決めていました。
でも、高校でやりたいことがあるわけではありません。
自分の学力に見合う高校を選んで行くことしか考えていませんでした。
――わたしは、何がしたいんだろう。
埋めるべき言葉を思いつかなくて、わたしはアルカディアに表示されたプリントをじっと眺めていることしかできませんでした。
高校に行って、たぶんその後大学にも行って、さらにその後、自分が何をしようかということについて、思いつけませんでした。
自分がどんな人になるのか、どんなことがわたしにとって幸せなのか、わかりませんでした。
「あれ?」
アルカディアの上に落ちたひと粒の水滴。
いつの間にか、わたしは泣いていました。
こぼれてくる涙を止めることができなくて、アルカディアの上にぽつぽつと涙の滴が落ちていきます。
一時限目の先生が入ってきて、騒がしかった教室の中が静かになっても、わたしはただアルカディアを見つめていました。
何で泣いているのか、わたしにはわかっていました。
――これは、夢。
端末を片手に授業を始めた先生の声が歪んで聞こえました。
顔を上げた教室の中が歪んで見えていました。
わたしにとって普通で、少し退屈で、でも大切だった日常は、もう手に入らないものです。
「やだ」
立ち上がって手を伸ばします。
歪みながら遠ざかっていく教室に向かって近づこうと走り始めたのに、それよりも早い速度でわたしの日常が遠ざかっていきます。
当たり前だったものは、もう手に入りません。
大切だと今更ながらに感じたものは、もう遠く手の届かないものになっています。
それでも、わたしは全速力で走って、遠ざかっていくそれに追いつこうとします。
「やだ。やだっ。やだ!」
暗い闇の中で光の粒のようになってしまった教室は、一度強い光を放って、消えてしまいました。
「帰りたい……。帰りたかった。わたしはただ、帰りたかっただけなのに……」
へたり込む地面もなく、わたしは闇の底へと落ちていきます。
どこまでもどこまでも落ちていって、わたしはわたしの望みとともに、闇の中に消えてしまいました。
*
目を開けると、天井の木目が見えました。
怠い身体を起こして見えたのは、わたしの部屋。
エリストーナの、わたしの部屋でした。
「起きたのね、ひなの」
「レレイナさん……」
椅子に座っていたレレイナさんがわたしの顔を覗き込んできます。
たぶんもうお昼かそれくらいの時間なのでしょう。閉めたままの窓の鎧戸の隙間から差し込む陽射しの角度と、まだまだ厳しいはずの朝の寒さがない部屋の中で、疲れた表情のレレイナさんはわたしが寝ているベッドの前に立っていました。
もしかしたら夜からいままで、ずっとわたしのことを見ていてくれたのかも知れません。
自分が、どんな顔をしているのかわかりません。
レレイナさんにどんな顔をしていいのかわかりません。
「ごめんなさい、ひなの。もっと早くに話そうと思っていたのだけど……」
そう言ったレレイナさんは、唇を引き結んでわたしから目を逸らしました。
「じゃあやっぱり、帰る方法はないんですね」
確認の言葉に、レレイナさんは目を逸らしたまま頷きました。
「あ……、う……」
何かを言おうとするのに、言葉になりませんでした。
あのときは出てこなかった涙が、あっという間にあふれて、零れてきました。
――帰りたかった。
エリストーナに来てから、ずっとずっと、帰りたいと思っていました。
でももう、帰る方法はありません。
お父さんとお母さんに会うことも、学校に通うことも、あの世界で未来をつくっていくことも、わたしにはできません。
「帰りたかった……。わたしは、わたしは帰りたかった……」
わたしと同じように涙を流し始めたレレイナさんが抱きしめてくれました。
暖かな胸に顔を埋めても、わたしの涙は止まってくれませんでした。
「ひなのは、元の世界に帰って、何がしたいの?」
「お母さんの、料理が食べたいです」
「うん」
「学校に行きたいです」
「うん」
「友達と話して、恋をして、仕事をして……。普通の、普通の生活がしたかったんです」
「うん」
強く抱きしめてくれるレレイナさんの身体に自分の手を回して、強く抱きつきます。
「……私もそうだった。元の世界でも魔法使いだったし、ひなのとはいろいろ違うけど、普通に生きていければいいと思ってた。帰れないんだとわかったとき、私もたくさん泣いたわ」
少し震えた声で、レレイナさんはそう言いました。
どれくらい泣いていたんでしょうか。
岩を喚び出すなんて大きな魔法を使ったからでしょうか、たくさん泣いたからでしょうか。疲れすぎて涙が涸れてしまった頃、身体を離したレレイナさんは目尻に残った涙を拭ってくれました。
「でもね、ひなの。この世界は、ファルアリースだけじゃなくて、もっと広い世界があるの。魔法も、知らないものがまだまだたくさんある。ミルーチェがつくった召喚魔法以外にも、世界を行き来する方法があるかも知れない」
わたしの目を真っ直ぐに見て、レレイナさんはそう言いました。
「本当に、あるでしょうか?」
「わからないわ。でも、百年近く旅をしていたけど、それでも知らないこと、わからないことがあったわ。ミルーチェの召喚魔法とは違う魔法や、別の方法が、いつか見つかるかも知れない」
「……はい」
レレイナさんの頷きに、頷きで応えます。
希望は、たぶんほとんどないでしょう。
それでもわたしは、いまでも帰りたいと思います。帰ることを願っています。
レレイナさんの感じたことが確かであるなら、元の世界にはもうひとりのわたしが、元々いたままの白河ひなのがいるんでしょう。
たとえそうだったとしても、わたしは帰りたいと思っていました。
「いつか、世界を旅しなさい、ひなの。私はもう諦めてしまったけど、ひなのは自分が納得できるまでは、探し続けてみなさい」
「はい。わかりました」
また涙が出てきそうになりました。
でもわたしは、笑いました。
レレイナさんに出会うことができたわたしは、この世界に生まれたわたしは、幸せなのだと、そう思います。
それよりも大きな幸せを、わたしは探したいと思いました。
「もう少し眠りなさい」
「はい」
レレイナさんに手伝ってもらって身体を寝かせます。
掛け布団を掛けてもらったところで、わたしは急速な眠気に襲われて、眠りの中に落ちて行きました。
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