第一部 第五章 エリストーナのひなの 4
* 4 *
朝の訪れを告げる風が、閉められた窓の鎧戸を小さく揺らしていた。
この時期はまだ朝が白み始めるには少し時間がかかるが、もうそう遠くはない。人々が起き出し始めるのもそろそろのはずだった。
「急がなければ」
そう呟き、大きな布袋にまとめた荷物を肩に担いだ。
「どこに行くつもりだ」
見張り台の下にある、兵舎の居室としては最上階にある副隊長室の扉をノックもせずに開けて入ってきたのは、ファルとバルフェだった。
「ファリアス様……」
「事の顛末はレレイナ殿から聞いている。街を出るつもりか? ユーナス」
ひとつしか点けていないランプの元、微かに揺らめく火に浮かび上がっているように見えるファルの目は、十二歳の子供とは思えない鋭いものをしていた。
ファルの視線から目を逸らし、ユーナスは黙り込む。
ひなのが喚び出した岩は、ユーナスの鼻先をかすめて地面に落下した。
衝撃でかなりの距離を吹き飛ばされたが、それだけだった。
ひなのが、ユーナスを殺すつもりだったのかどうかはわからない。顔も見たくないと言われた彼は、それを問い質す事もできない。
だからせめてこの街から出ようと、彼女と会うことのない場所に行こうと、旅支度を進めていた。
正騎士の名誉も、エリストーナの兵士隊副隊長という地位も、将来の騎士隊隊長という未来も失うことはわかっていたが、望まぬものをこの世界に喚びだし、あまつさえ殺そうとしたことへの償いは、それくらいのことではできるとは思っていない。しかし何をすれば償えるのかわからなかったから、いますぐにできることをやろうと、彼は旅に出る事にしていた。
「私は、やってはならないことをしてしまいました」
「わかっている」
「私はそれを、償うことができません」
「そうだな」
「だから私は……」
「しかし、勝手に街を出ることは許さん」
逸らしていた視線を上げて、ファルのことを見てみると、先ほどよりもさらに強い視線をユーナスに向けてきていた。怒りの色を湛えていた。
「私は、でも――」
「それでもダメだ」
入り口に立っていたファルが部屋の中に入ってきて、ユーナスの前に立つ。
「お前のやったことは決して許されることではない。彼女に償う事も出来はしないだろう。しかし僕は、お前のやったことがすべて間違いだったとは思っていない。結果として正解だったのかも知れないとも思っている。それでもお前は自分を許せないだろうが、僕に無断で街を去ることは、領主としては許しはしない」
すぐ目の前に立って鋭い視線を向けてくるファルに、ユーナスは畏れを感じていた。
去年領主となった当時、十二歳という若さのファルに勤まるのかと思っていたが、一年と経たずに彼は領主として十分な仕事ぶりを見せていた。
そしていま見せる目は、冒険公と字名され、数々の功績とともにエリストーナの発展に尽力した先公にも劣らない、領主としての光を宿している。
「私は、どうすれば良いのでしょうか」
「街からは出た方がいいだろう。お前の父には真実を話さなければならないが、他の者には僕から上手く話をしておく。そしてお前は旅に出ろ。――バルフェ」
「はっ」
ファルの後ろに控えていたバルフェが差し出したのは、中身が詰まった小袋と、丸められた一通の書状。
「お前が求めていたものは、僕もまた求めているものだ。街を守る力は今後必ず必要になる。しかしどれくらい必要で、いつ必要になるのかわからない力を蓄えるのは難しい。だからユーナス、君にはそれを調べてきてほしい」
「調べる、ですか?」
「うん。封魔の地の状況を。東の国々の動向を。他にもいまのエリストーナに足りていないもの、街を脅かす可能性のあるものを見聞きし、報告してほしい」
もう二度と帰らないつもりだったユーナスは、ファルの言葉に返事ができないでいた。
「もちろん正騎士の称号と、ストーナムの名は背負っていて構わない。これがとりあえずの資金。それからもし必要になったら知っている商会に行ってこの書状を見せるといい。必要な資金はそれで用立てられるはずだ」
バルフェから手渡された小袋にはずっしりとした重さがあった。おそらく相当額の金貨が入っているのだろう。書状の方も確認してみたが、領主の印が押された正式なものだった。
「私はあの子に、ひなのにはもう二度と――」
「たぶんだけど、僕の見立てが間違っていなければ、ひなのはそんなに弱い人ではないよ」
鋭かった視線を和らげたファルの口元には、笑みが浮かんでいた。
「すぐには無理だろうけど、時が経ち、お前が自分のやるべきことを間違わずにやり続けていれば、いつかは彼女も許してくれるだろう。それに僕と同じように街を想うお前のことを、僕は失いたくない」
小柄な少年としか見ていなかったファルのことが、いまのユーナスにはとてつもなく大きな人のように見えていた。
立っていることができず、彼は片膝を突き、頭を深く垂れた。
「ユーナス・ストーナム。お前に諸国見聞の旅を命ずる。多くの場所を回り、つぶさに世界を見てこい。そして年に一度は、必ず帰ってこい」
「拝命いたします」
そう後頭部に降ってきた言葉に応えながら、ユーナスはひと粒の涙を零していた。
*
「いったい、貴方は何を考えてるの?」
「さてな」
一度目を覚ましたひなのだったが、ひとしきり泣いた後、再び眠りに就いていた。
いまもレレイナのすぐ隣にあるベッドでは、ひなのが安らかな寝息を立てている。
相当疲れたのだろう。
しかしそれも当然だった。
これまで小さな魔法を使ったことしかなかったのに、昨日は鐘楼を受け止めて打ち壊し、巨大な岩を喚び出すなどという強力な魔法を使ったのだ。レレイナでも滅多に使うことがないほどの大きな魔法は、恐ろしくひなのを疲れさせたはずだ。
そんな眠ったままのひなのを庇うように椅子から立ち上がったレレイナは、夕暮れ時になってどこからともなく現れたウォルを睨みつける。
相変わらずウォルの転移の魔法は魔力の感知が難しい。
視界の中に現れたから気づけたが、背後に現れていたら気づかないほどに。
「ひなのに、何か用なのかしら?」
虚空から短杖を取り出し、ウォルに向けて構える。
その短杖は昔ミルーチェからもらったもの。この世界に喚びだしてしまった詫びとして、渡されたものだった。
もしひなのに何かをするようだったら戦うつもりで、レレイナは杖から魔力を引き出そうとする。
しかしウォルは、苦々しく笑って見せた。
「何もしねぇよ」
「でも、私はあのとき!」
「わかってるよ。でもそのことは恨んじゃいねぇ。あのときはあぁするしか、大侵攻を止める方法はなかった。あいつも生きるために精一杯戦った。そして負けた。だからお前に恨みはねぇよ」
ミルーチェが魔王となる前、レレイナがこの世界に召喚される前から彼女の側にいたウォルは、大侵攻を止めるために潜入した魔王の城に姿を見せなかった。
七人の勇者のうち三人が殺され、レレイナがミルーチェに止めを刺した後、ウォルは彼女の亡骸を抱いて姿を消した。
ウォルの持っていた杖を見て、その魔力の特徴から、すぐにミルーチェの化身であることに気がついた。
できればどこかで生き残っていてほしいと、それはおそらく叶わないと思いつつも、この五十年を過ごしてきた。
「俺様はこいつを届けに来ただけだ」
ウォルが取り出したのは、長い杖の器物となったミルーチェ。
いまはもう喋ることすらできない、かつての親友。
「こいつがどうしても小娘の元に行きたがってな。何があるんだかわからんのだが、俺様はこいつの意志に従うしかない。どうせこいつは魔力だって使わせてくれないんだからな」
魔族は魔石に頼らなくても、魔法を使うことができる。
歪みの結晶と言える魔族は、己の存在を削って魔法を使うことになる。消費する魔力の一部は、魔石に蓄積したものを使うことも可能だった。
器物になるほどの強い歪みを残す魔族は、死しても意志を残す。
レレイナの持つ短杖はミルーチェの数代前の魔王だと言われているが、微かに意志のようなものを感じることはあった。それはしかし、極わずかなものだ。
魔力を引き出し、魔法を使うことを拒否するとは、一体どれほどの意志を残しているというのだろうか。
――あの子らしいわね。
久しぶりにミルーチェのことを、元気だった頃の彼女のことを思い出し、レレイナはクスリと笑ってしまっていた。
「転化の起点となったのはあの莫迦男の願いだが、召喚するものを選んだのはおそらくこいつだ」
「何故、ひなのなんかを?」
ひなのは召喚の影響で、魔力によってこの世界での身体が造られたことで、魔法の素質こそ得ているが、それ以外は普通の女の子だ。
アルカディアといったこの世界にはない素晴らしいものを持っていても、彼女の話ではそれは元の世界では普通に店で買えるもの。アルカディアがひなのを選んだ理由にはならない。
「さてな。そんなことは俺様にはわからんさ。あいつはいつもそうだったろ」
「……そうね」
魔王となるべく旅していた間のことを少し思い出す。
ミルーチェはいつもそうだった。
おそらく途中の思考があるはずなのだが、結論のみを口にし、行動を開始してしまう。そのことでよく振り回されもしたが、彼女は間違ったことは一度もしなかった。
「理由なんて知らねぇ。こいつはこの小娘のことが気に入ったんだろうってことしかわからねぇよ。封魔の地を平定するって言い始めたときも、レレイナ、お前を異界から喚び出すって言い出したときも、俺様は止めることなんてできなかった。そんなこいつが小娘の側にいたいっつうんだから、止めることなんてできねぇよ」
「貴方は、それでいいの?」
近づいてきたウォルが、ミルーチェをベッドに立てかける。
そのまましばらく動かず、ウォルは表情も見せずにうつむいていた。
「いいんだよ、俺様は。そのうちまた会えるだろうからな。それにこいつがこの小娘を気に入った理由も、ここにこいつがいればそのうちわかるだろうからな。だから、小娘が目覚めたらこいつを渡してやってくれ」
「……わかったわ」
「じゃあな」
結局その後、顔を見せることなく、ウォルは背を向けてそのままどこかに転移して消えていった。
ウォルがいなくなった直後、廊下から聞こえてきた足音。
「誰かお客さんが?」
「いいえ。誰もいないわよ」
そう言って部屋を覗き込んできたのは、カツ。
「こんにちは、レレイナ様。ひな姉ちゃんはどうですか?」
「一度は起きたんだけどね。たぶん明日くらいまでは、眠っていると思うわ」
朝にも食事を持ってきてくれたカツは、夕食の分だろう、袋から包みを取り出して机の上に置いた。
「そうですか……」
心配そうに顔を歪めるカツに、レレイナは言う。
「ねぇ。ひなのが異界の住人であることは、秘密にしておいてくれるかしら?」
夜、彼と別れるときにも言っておいたが、レレイナは改めてそのことを言いつける。
異界という言葉の意味を、カツが充分に理解しているとは思えない。しかし魔法と魔族に関わってこの世界にやってきたという事実は、あまり知られるべきことではなかった。
「もちろんです。誰にも言いません。オレは……、ひな姉ちゃんに命を助けてもらったんです。たとえひな姉ちゃんがすごく遠くから来た人だったとしても、そのことが魔族に関わってるとしても、オレはこの街にいてくれるならそれで充分なんです」
「そう、ありがとう」
胸の前でもじもじと鞄の紐をいじくっているカツの頭を撫でてやる。
「もしひなのが目を覚ましたら、お店の方に行かせるようにするわ」
「はい。わかりました」
礼をして、カツは部屋から出ようと歩き出す。
ふと立ち止まった彼は、少し考え込むような表情をしながら近づいてきた。
「あの、レレイナ様。ひとつ相談なんですが……。ひな姉ちゃんが今度開くって言ってたお店のことで」
「何かしら?」
眠っているひなのの方をちらりと見たカツは、口の脇に手を添えて声を潜めた。
耳を近づけて、レレイナは彼の話を聞き留める。
「いいんじゃないかしら。お店の件はお城に確認が必要だけど、たぶん問題ないでしょう。たぶんこの子、びっくりするわよ。それで進めてちょうだい」
「はいっ。わかりました」
潜めながらも元気の良い声を出して、もう一礼したカツは部屋から飛び出していった。
ベッドに腰を掛けながら、レレイナはひなのの寝顔を眺める。
「ねぇ、ひなの。いろんなことが動き出すわよ。貴女のしたことの結果によって。早く起きなさい。見逃してしまうわよ」
ひなのの黒い髪を撫でながら、レレイナは笑みを浮かべていた。
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