第一部 第五章 エリストーナのひなの 5
* 5 *
「んーーーーっ!」
空は青く、どこまでもどこまでも澄んでいました。
東京では見たこともないほどの濃い青色をした空を仰いで、わたしは大きく伸びをします。
丸一日以上眠り、わたしは目を覚ましました。
目が覚めたわたしは、レレイナさんとたくさんの話をしました。
それから、たくさん泣きました。
少しも納得できなくて、ぜんぜん受け入れられないことばっかりで、頭の中がぐちゃぐちゃになっていたのに、そのとき家にやってきた、前と変わらず心配してくれるカツ君が持ってきたまだ暖かい食事の匂いに、わたしのお腹は鳴っていました。
その後、近くの集落の人とか、よく話をしていた街の人が、いっぱい差し入れを持ってきてくれました。
街では、鐘楼の倒壊は姿なき歪魔の仕業とされ、レレイナさんの弟子であるわたしはその被害を防ごうとした見習い魔女であることが、お触れとして告知されたそうです。
そしてユーナスさんは、街から逃げた歪魔を追って旅立ったことになっていると。
一度にいろんなことがありすぎて、わたしの頭はまだぜんぜん整理が着きません。
それからまだ、わたしは帰ることを諦めたわけではありません。
レレイナさんから改めて説明を受けたいまでも、帰りたいという想いが、帰りたいと望む気持ちが、消えてなくなったりはしませんでした。
それでもいまわたしは、この世界に生きています。
この世界の、エリストーナに住む人間のひとりです。
そのことを否定することも、拒否することもできません。
「よしっ」
自分に気合いを入れ直して、わたしは手桶を持って井戸へと向かいます。
水を汲む朝のいつもの作業。
あれから三日が経った今日、わたしにはエリストーナでの日常が戻ってきていました。
差し入れてもらった食材を使って手早く朝食の準備を整えて、レレイナさんと一緒に急いで食べてしまいます。
この後、お城から迎えが来る予定になっています。
レレイナさんだけでなく、わたしも。
たぶん事情聴取になるようですが、昨日使者の方が帰った後、どんな話して、どんな話はしないでいるかは、打ち合わせ済みです。
朝食の後片付けを終え、迎えが来るのを待つばかりとなったいま、わたしはハーブを煮出したお茶を飲んでいるレレイナさんに声を掛けます。
「ちょっとだけ、外まで来てもらってもいいですか?」
「何か用事?」
「はいっ。少し思いついたことを試してみたいので」
小首を傾げながらも「わかったわ」と返事をして立ち上がったレレイナさんの後ろに着いて、わたしはキッチンの背もたれ付きの椅子をひとつ抱えて外に出ます。
「えぇっと、その辺に立ってもらえますか?」
「ここかしら?」
家から出てすぐのところで立ち止まってもらい、わたしはもう少し先に進んで椅子を置きます。
それから提げていた袋からアルカディアを取り出し、うまい角度に立てかけます。
「もう少し前で……。それから、ちょっとだけ右、じゃなくて左に」
「何をするの?」
不思議そうな顔をしつつも、わたしの指示に従ってくれるレレイナさん。
説明は後回しにして、わたしはアルカディアのアプリに必要な操作をしてその場を離れ、小走りにレレイナさんの近寄って隣に立ちます。
カシャリ、という音の後にアルカディアを取りに戻ると、いい具合に正面入り口の方向から家の全景と、小首を傾げているレレイナさん、それから笑っているわたしが写っていました。
「これは何なの?」
「『写真』という、アルカディアの機能です。見たままのものを、こうやって残すことができるんです」
「すごいのね。でも、これが試したかったこと?」
「『写真』もありますが、試したかったのは別のことです」
言ってわたしは椅子の上にアルカディアを水平に置き、いま撮った写真を添付ファイルとしてメーラーを呼び出します。
メールの本文は、昨日の夜、長い時間を使って書いた文章。
いろいろ考えている間に、とても長い文章になっていました。
宛先は自分。自分自身のアルカディアに届くよう、メールアドレスをセットします。
「少し離れててください」
そう言ってレレイナさんをアルカディアから遠ざけた後、わたしは真っ直ぐに右手を伸ばしました。
――ミルーチェさん、お願いします。
心の中で呼びかけながら何かをつかむように開いた手を握るようにすると、そこに姿を見せたのはわたしの身長よりも長さのある黒い杖でした。
先代魔王、ミルーチェさんの化身である器物。
拳ほどの赤い魔石が先端の飾りのところにはめ込まれたそれは、わたしが目を覚ましたときにベッドに立てかけられていたものでした。
レレイナさんが言うには、ミルーチェさんがわたしのことを気に入っているとウォルさんが言って置いていった、そうなのですが、どういう意味なのかよくわかりませんでした。
でもミルーチェさんを手に取ってみた瞬間、どういうことなのか、おぼろげながらも理解できた気がしました。
レレイナさんの短杖と同じく、存在を自由に薄くすることができて、必要なときに呼びかければ現れるミルーチェさんは、ウォルさんに最初に渡されたときには気づきませんでしたが、手にしっくりと馴染んで、昔から自分で使ってきた道具のように自然な感じがありました。
姿を消していても確かに存在を感じることができるミルーチェさん、ミルーチェの杖は、わたしのものというより、気に入られたわたしの側に、彼女がいてくれるのだと感じます。
ミルーチェの杖を右手で水平に構え、魔石に蓄積されている使い切れないほどの魔力を引き出して身体に溜め、集中しながら左手をアルカディアに伸ばします。
送信ボタンを押してから、両手で杖を構えました。
これから使うのは、送還魔法。
あの夜、ユーナスさんにどうにか当てずに済んだ岩を喚び出した魔法は、召喚魔法だったのだそうです。
ミルーチェの杖があったからこそ使えたのだと思いますが、あのときの魔法の使い方は、わたしの頭と身体が憶えています。
レレイナさんが言うには、召喚魔法が使えれば送還魔法はそう難しくないそうで、レレイナさんに使い方を教わっていました。
今日がその初実験。
すぐ目の前の椅子の上では、アルカディアの表示がネットの接続待ちで止まっていました。
目をつむって、わたしは元の世界を思い浮かべます。
いまのわたしでは帰る方法がない世界。
それでも帰ることを諦めきれない世界。
遠く手が届かないものを思い浮かべながらも、わたしはあちらの世界にあるはずのあっちのアルカディアを探ります。
「繋がれ!」
身体に溜めていた魔力を一気にアルカディアに向け、そのまま転化の言葉を唱えました。
送還の魔法のための魔力は、霧散することなく、転化の言葉と同時に消滅し、魔法が発動したことを感じることができました。
目を開けてアルカディアの画面を見てみると、「送信完了」の文字が表示されていました。
「何をしたの?」
「たぶんあちらの世界にいるもうひとりの自分に、……手紙を送ったんです」
「どんな内容なの?」
「えぇっと、それはその、秘密ですけど……。自分以外にもうひとり、違う自分がいることを、知ってもらえたらな、って思って」
近寄ってきたアルカディアを眺めているレレイナさんに、わたしは笑顔を見せます。
表示上は送信完了になっていても、わたしは本当にちゃんと送れたのかどうか、ちゃんとあちらのわたしに届いているのかどうか、確認する術はありません。
届いていても自分から自分宛の不可思議なメールなんて、間違いか何かかと思われて捨てられてしまうかも知れません。
それでも、わたしは少しでも何かを伝えたいと思いました。
東京で、どちらの方向も見ずに生きているわたし。
いまこうして、エリストーナで生きているわたし。
道は違ってしまっていても、どちらもひとりのわたしなのだと、少しでも感じてもらいたいと思いました。
そしてわたしは、この世界の白河ひなのは、これからもエリストーナで生きていきます。
「あの、レレイナさん」
家へと向かって歩き始めたレレイナさんの背中に呼びかけます。
「なぁに?」
「わたしは……、わたしは白河ひなのです。エリストーナのひなのです。これからも、よろしくお願いします」
言って深く頭を下げました。
「えぇ。ひなの。これからも。改めてよろしくね」
頭を上げたときに見えたレレイナさんの笑みに、優しい色が浮かんでいる緑の瞳に、わたしはいっぱいの笑顔を返していました。
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