第一部 第五章 エリストーナのひなの 2


       * 2 *


 ――え?

 ウォルさんの言ったことの意味を、わたしは理解することができませんでした。

 ――帰ることが、できない?

 レレイナさんは元の世界に帰る方法を知らないと言っていました。

 同時に、世界のどこかには帰る方法があるかも知れないとも、言っていました。

 でもいまウォルさんは、確かに「帰ることができない」と言いました。

「レレイナさん。どういうことなんですか?」

 わたしの声にビクリと大きく肩を震わせたレレイナさんは、ウォルさんのことを見つめたまま振り返ってくれませんでした。

「どうせお前のことだ、ミルーチェの元を去った後も、実験は続けていたんだろ? それで帰れてないってことなんだ。そういうことなんだろう?」

 ニヤニヤと笑うウォルさん。

 肩を細かく震わせているレレイナさんは、それでもわたしのことを見てくれることはありませんでした。

 ――怖い。

 そう思いました。

 レレイナさんが知っている真実を聞いてしまったら、わたしはどうなってしまうのか、わかりませんでした。

 いまでももう泣きそうなくらい胸が詰まっているのに、それ以上の事実を聞きたくありませんでした。

 でも、いまは聞くしかありません。

 聞かなければ、わたしはレレイナさんの顔を、二度と見ることができないように思えました。

「教えて、ください、レレイナさん。たぶんわたしは、知らなければならないんです」

 やっと振り向いたレレイナさんは、困ったような、疲れたような、それと一緒に、泣きそうな顔になっていました。

「ごめんなさい、ひなの。ずっと言えなかった。言わないでいたの。ごめんなさい」

 杖をウォルさんに向けて構えながらも、振り向いたレレイナさんは話してくれます。

 ラタトアの光に照らされているレレイナさんの目尻には、光るものがありました。

「私もまた、この世界で生まれ育った人ではないの。異界から来たの。先代魔王ミルーチェに召喚されて……。その頃封魔の地はとても乱れていて、ミルーチェは自分が魔王となって平定するため、力を求めていたの。そうして、私は彼女によって喚び出された」

 それは長くて、でも短い話でした。

 レレイナさんが元いた世界は、エリストーナに近い世界だったそうです。

 ミルーチェさんに召喚され、彼女に多くのことを学んだレレイナさんは、彼女の片腕となり、封魔の地平定に協力しました。

 それと同時に、元いた世界への帰り方を探していたレレイナさんでしたが、見つからないまま封魔の地平定が成り、その後ミルーチェさんの側を離れ、ファルアリースの様々なところを旅して方法を探して歩いたそうです。

 たくさんの方法を試し、でも結局帰る方法は見つかりませんでした。

 そうして時間が過ぎ、あるとき封魔の地が大侵攻を開始し、平和を望む魔族の手引きによって魔王の城へと忍び込む七人の勇者のひとりとなったレレイナさんは、ミルーチェさんを自らの手で討ちました。

「歪魔も人間と同じように、一枚岩ではないの。一部には平穏を望む者もいるけど、多くは争いを好んでる。強い勢力を持つ魔族がミルーチェを担ぎ上げて始めたのが前回の大侵攻。彼女に自分で止めを刺したとき、私は元いた世界に帰ることを諦めたの……」

 レレイナさんの目尻からあふれた涙が、月明かりにきらきらと光って零れ落ちていっていました。

 胸が苦しくて、泣きたくなっているのに、わたしはショックが大きすぎて、泣くことができませんでした。

 カツ君が握ってくれる手を、強く握り返すことしかできませんでした。

「帰れないって、どういうことなんですか? 何か……、何か根拠でもあるんですか?!」

 改めて問うたわたしの言葉に、唇を噛むレレイナさん。

 帰る方法を探し、いろんな実験をしていたと言うなら、知っているはずです。諦めた理由があるはずです。

「話しちまえよ、レレイナ。わかってんだろ?」

 ウォルさんの横槍に一瞬怒りの表情を浮かべるレレイナさんですが、また悲しい顔になって、口を開きました。

「ミルーチェほど成功率は高くなかったけど、私も召喚魔法が使えるの。いろんなものを召喚してみたわ。たいしたものは喚べなかったけどね。それから、召喚魔法から、物体を送る魔法、送還魔法も使うことができるようになった。でも、ダメなのよ」

「何が、ですか?」

「送還魔法で物体を違う世界に送ることはできる。正確には、魔法の発現を確認できて、送れたというのはわかるの。けれど、送った物体がこの世界からはなくなってはくれない。そのままその場所にあるままなの」

 魔法を使うと、魔石から引き出した魔力は発現と同時に消滅します。現実の現象になることで、エネルギーが消費されたということだと思います。

 そして魔法に失敗すると、放出した魔力は魔石に戻ってしまうか、霧散してしまうのがわかります。

 魔法の成功と失敗は、魔力を感じることができるなら、わかることです。

 送還魔法で物体を送ったことも、魔力の消滅を感じることができたなら、感じることができるのだと思います。

「送った物体が消えない?」

「えぇ。送還魔法自体も決して成功率は高くないのよ。成功することも失敗することもある。いろいろ試している間に、必ず失敗する物体があることがわかったの」

「それは、なんですか?」

 本当に辛そうに、顔を歪ませたレレイナさんは教えてくれました。

「送還魔法で一度送って消えなかった物体と、召喚魔法で一度召喚した物体は、もう一度送還しようとしても、絶対に失敗する。理由は確かめる方法がないからわからない。私が知っている異界は、元々私がいたところだけ。喚ぶのも送るのも、その世界からよ。だから……、だからたぶんだけど、同じ世界に、同じ物体が存在することはできないってことなんだと、そう考えてる」

 ――同じ世界に同じ物体が存在できない?

 いまひとつ意味がわかりませんでした。

 送っても物体が消えないという事実。

 二度と同じ物体を召喚できないという事実。

 そこから考えて、どんな結論が出せるのか、わたしにはわかりませんでした。

「レレイナ。どうせお前のことだから確かめたんだろ? 諦めの悪いお前のことだ、ちゃんと確かめてるだろ? お前が諦められるくらいの決定的なことを、さ」

 喉の奥で笑いながら、ウォルさんがレレイナさんに向かっていました。

 苦しいとは違う、暗い表情になったレレイナさんは、諦めたようにため息を吐いていました。

「えぇ。確かめたわ。私がこの世界に召喚していたのは、元の世界で私の手元にあったもの。私にはミルーチェのような、はっきりとした形のない、自分の望みに一番近いものを召喚する、なんてことはできないからね。馴染みのある物体は、ミルーチェほどの魔力が使えない私でも召喚ができるの」

 いままでで一度も見たことがない、たくさんの涙を流しているレレイナさんは、唇を震わせながら、わたしに教えてくれました。

「私は、元の世界にいる私を召喚しようとした。もちろんだけど、召喚は失敗した。でも同時に、私はそのとき、あの世界にもうひとり私がいることを感じたの」

 言われてからしばらく、レレイナさんの言葉の意味が頭に入ってきませんでした。

 ――もうひとりの自分?

 召喚魔法とはいったいどんな魔法なのでしょうか。

 二度同じものを喚び出すことができず、二度と同じものを送ることができない。

 元の世界にいるという、もうひとりの自分。

 ――そうか。メールに近いんだ。

 電子メールは、送信ボタンを押して相手に送っても、元々のメールは送信済みボックスに入るだけで、消えてなくなったりはしません。

 紙に書いた手紙のように、ポストに入れることによって手元からなくなることはありません。

 言うなればメールは、書いた情報のコピーが送られるということです。

 もしそれが本当なら、わたしは電子メールのように、召喚魔法によってわたしという人間の情報だけがエリストーナに来て、魔力によってこの身体が造られたということになります。

 もう一度同じ物体を召喚したり、召喚したものを召喚し直すことができない理由はわかりませんが、この世界で造られた身体を直接別の世界に送る方法がないのだとしたら――。

 ――それが本当だったとしたら、わたしは……。

「わたしはもう、帰ることはできないんですか?」

「わからないわ。何か方法があるかも知れない。でも、どういう理屈があれば帰る条件が整うのか、私には見つけ出すことができなかった。だから、私は帰るのを諦めた」

 膝から力が抜けて、ぺたんと座り込んでしまいます。

 カツ君が何かを言ってるのは聞こえていましたが、彼の言葉を理解することができませんでした。

 ――帰れない? 帰れない? 帰れない?

 ただそのことだけが頭の中を巡っていて、むき出しの土を見つめながら、わたしは何も見ていませんでした。

「まぁ、お前がこの世界に来ることになったのは、こいつが望んだからだけどな」

「違う! 私はこんな無力な小娘なんて望んでいなかった!! こんなものが喚び出されるなら、私は魔人の力なんて借りようと思いもしなかった!!」

 ウォルさんの言葉に叫び声で返すユーナスさん。

 涙すら出ない顔を上げて、わたしは激しく首を横に振っている彼のことを見ます。

「どういう、ことなんですか?」

「俺様には召喚の魔法は使えないがな、杖になってもミルーチェには使うことができる。あるときミルーチェが騒ぐんでな、わざわざこんなところまで来て、こいつの望みを叶えてやることにしたんだよ」

 やっと力が入るようになってきた膝に手を突きながら立ち上がります。

 ユーナスさんとの間にいるカツ君の肩に手を置いてどかして、わたしは前に踏み出しました。

「ユーナスさんは、どんなことを望んだんですか?」

 エリストーナのことを愛して、街のためにいろんなことを考えているユーナスさん。

 それによって喚び出されることになったわたし。

 わたしは、彼の望みを知らなければなりませんでした。

「私は……」

 しばらく考え込むように、一度うつむいたユーナスさん。それから顔を上げ、わたしの目を真っ直ぐに見ながら彼は言いました。

「私が望んだのは、エリストーナを救うための力だ。君にも話しただろう。エリストーナはまもなく戦禍に巻き込まれる可能性が高い。しかし街を守るための力は大きくない。もっと強い力がなければ、街を守ることができない」

「それで、どうしてわたしが召喚されることになったんですか?」

「そんなこと、私にわかるわけがない! 君が、君さえいなければ、もう一度召喚魔法が使えたかも知れないのにっ。君のことなんて、最初からいらなかったんだ!」

 怒りなのか、恨みなのか、強い光の籠もった目でユーナスさんはわたしのことを睨みつけてきていました。

 ウォルさんに目を向けると、おどけたように肩を竦めていました。

「どうやらミルーチェがお前のことを気に入ったみたいでな。魔力はもう一度召喚の魔法が使えるくらい溜まったんだが、使うことができなくてな」

「だから、わたしを殺そうとしたんですか? ユーナスさん!」

「それだけじゃねぇさ。歪魔の噂を流したのだってこいつさ。なぁ?」

 ニヤニヤと笑いながら言うウォルさんの言葉にユーナスさんの顔を見ると、彼は唇を噛みながら目を逸らしていました。

「……なんで、なんでそんなことしたんですか! ユーナスさんは街を愛していたじゃないですかっ。どれくらい歪魔が恐れられているかも知っていたはずじゃないですか! それなのに、それなのに……、どうしてそんなことをしたんですか!」

「……歪魔と同じように、同じくらいではないにしろ魔女も恐れられている。街中で魔法を使うか、上手く魔女への阻害に噂の矛先を持って行ければ、直接手を下さなくても君を街から追い出すことができると思っていたんだ。思っていたほど上手くは行かず、ただ噂ばかりが広がる結果となってしまったがな」

 直接その言葉を聞いているのに、わたしにはそれを信じることができませんでした。

「いくら、いくら力がほしいからと言って、そんなことをしていいと思ったんですか! どれくらい街の人たちが怖がっていたのかわからなかったんですか! そうなると、予想できなかったとでも言うんですか!! その上街のためと言っても、わたしを殺してまで、力がほしかったんですか!!」

「ほしかったさ! エリストーナを守るためにはいつか必要になるのだから!!」

「街を守るためだったら、街の人たちのいまの幸せを、……わたしの幸せを犠牲にしても構わなかったと言うんですか!」

 わたしが睨みつけると、怖がるように後退る彼。

 彼はたぶん、本当にエリストーナのことを想ってウォルさんに召喚を頼んだのでしょう。

 でも、結果として喚ばれたのはわたし。

 勝手に喚び出されて、いらないものだと言われて、帰る方法もない。

 わたしはこの先、どうやって生きていけばいいのでしょうか。

 帰ることもできないわたしは、何を目標に生きて行けばいいのでしょうか。

「わたしは――」

 もう一歩前に出て、わたしはユーナスさんを強く睨みつけます。

「わたしは元々いた世界で、幸せだったのかどうかわかりません。何かやりたいことがあって生きていたわけでも、はっきりした夢があったわけでもありません。でも……、でも、この世界に来たくはありませんでした」

 振り返り、泣きそうな顔をしているカツ君のことを見ます。

 この世界に来たくなかったわたしは、本当ならカツ君と出会うこともなく、彼の熱を下げた薬草も、持ってくることがなかった人です。

 すでに彼に出会ってしまっているわたしは、本当なら彼を救うことができなかったはずの人です。

 彼を救うことができたことは、わたしにとって良いことだったと思います。でもやはり、わたしはこの世界に居続けたいとは思えません。

「わたしは、貴方のことが嫌いです」

 ユーナスさんに向き直り、わたしははっきりと言いました。

 エリストーナにとって彼は良い人でしょう。

 わたしにとって彼は、わたしをこの世界に喚び出した張本人です。

「わたしをこの世界に喚んで、自分の都合でわたしを殺そうとした貴方の顔は、見たくありません」

 言いながらわたしは左手の指で胸元の魔石に触れます。

 魔力は、ほとんどありませんでした。

「使いな」

 言ってウォルさんは手にしていたミルーチェさんの杖を投げてきました。

 右手を上げてみると、自分から飛び込んでくるように、杖はわたしの手に収まりました。

 真っ直ぐに右手を伸ばして、ミルーチェさんを水平に構えます。

 触れてみると金属なのか木なのかよくわからず、装飾なのか、そういう風にできたものなのか、うねった木のような表面をしていました。

 そして何よりも、膨大な魔力を感じました。

 その魔力は、まるでわたしの想いを感じているように、杖の先端へと集まっていきます。

「杖を渡せ」

 右手で剣を構え、左手を差し出すユーナスさんは、でも近づいてくることはありませんでした。

「わたしは、帰りたかったんです。わたしにとっての幸せがどんなものなのかは、わかりません。でも、それをゆっくり探したかったんです。……そんな当たり前のことに、いまさら気づいたんです。この世界に来て、わたしはそのことがわかったんです」

 ユーナスさんの頭上に向け、わたしはミルーチェさんを構えます。

「……帰れない君に今更謝っても仕方がないだろう。だが、私は街を救いたかった。そのための力がほしかっただけだ。戦うための力を、そのための助けになるものを。いまもその力が必要なんだ。だから、その杖を渡すんだ!」

「そんなこと、知りません。わたしには関係ありません。わたしは、こんな世界に来たくなかったっ。元の世界に帰りたかった! お父さんとお母さんに会いたいだけだった!! 貴方の望みに比べれば、わたしの望みはちっぽけなものかも知れません。でも、そんな小さな望みすら叶わなくした貴方の顔なんて、見たくありません!」

 杖の先端に集まった大量の魔力を空へと解き放ちます。

 それから、わたしは転化の言葉を唱えました。

「岩よ」

 わたしの言葉に応えて、さっきまでいた木工小屋ほどの大きな岩が空に出現しました。

 呆然とそれを眺めるユーナスさんは、諦めたようにため息を吐き、剣を腰に収めました。

「貴方に喚ばれなければ、わたしはこの世界に来ることもなかった! わたしは、わたしは貴方のことが大嫌いです!!」

 滞空させていた魔法を止めると、岩が降ってきました。

 初めはゆっくりと、すぐに速度を上げた岩は、地面へと激突します。

 轟音が鳴り響き、悲しそうな笑みを見せたユーナスさんは、見えなくなりました。

「わたしは、ただ、家に帰りたかった……」

 そう言うのと同時に、わたしの視界は急速に暗くなっていきました。

 レレイナさんとカツ君の声が近づいてくるのは聞こえていましたが、何を言っているのかはわかりませんでした。

 力が入らなくなって倒れていくのを感じながら、わたしはもう二度と会うことがないお父さんとお母さんの顔を思い出していました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る