第一部 第五章
第一部 第五章 エリストーナのひなの 1
第五章 エリストーナのひなの
* 1 *
「貴方は……、ウォルさん?」
「よぉ、この前振り」
気さくな感じで声をかけてくるウォルさんは、でもその口元に不敵な笑みを浮かべていました。
「ここはちょっと暗いな。月が出ていて明るいから、外に出な」
外に出て行ったウォルさんの後を追い、わたしも椅子から立ち上がります。
従う必要がないのはわかっています。
でも、従わざるを得ません。
この前会ったときにはわかりませんでしたが、ウォルさんの全身から魔力を……、いえ、歪みの力を感じていました。
雰囲気というのとは違います。
魔力や、歪みの力とは、空気に近いもののように思えます。
魔法を使うときは、魔力を団扇で扇いで風を吹かすように、対象となるものに注ぎ込むイメージです。
レレイナさんが魔法が使ったときには、魔法が発現した地点から風が吹いてくるのに似た感覚があります。
魔力や歪みの力を持つ物体などに出会ったことがありませんが、いま少し離れた場所に立っているウォルさんからは、寒いくらいの気温であることは変わらないのに、熱風が吹き付けてきているような感じがありました。
噂の主が彼なのかどうかはわかりませんが、ウォルさんは人ではありません。歪みの力を抑えていないのは、いまは隠す必要がないからでしょうか。
ウォルさんは、歪魔です。
それもとても強いな力を持つ、魔人です。
外に出て見たウォルさんは、本当にただの人のようです。
「いったい、何の用ですか?」
全身が震え出しそうになるのを、必死に堪えます。
人にしか見えないのに、人とは違う力を感じるウォルさんは、本当に恐ろしい存在でした。
「俺様はとくに用事はないんだがな。だがお前に用事がある奴が何人かいてな」
「何人か?」
ウォルさんの言葉に疑問を返したとき、馬の走る音が聞こえてきました。
やってきたのは、ユーナスさん。
「どうしてここに?!」
馬から下りてわたしを睨みつけてくるユーナスさんは、わたしの言葉に応えず、ちらりとウォルさんの方に目を向けました。
「魔力は回復したのか?」
「あぁ。そっちの方は大丈夫だ。だが、まぁ、まだ魔法が使えないな」
「わかった」
――ウォルさんと知り合い?
エリストーナを愛しているユーナスさんが、どうして魔人であるウォルさんと知り合いなのでしょう。
驚いている間に、ユーナスさんは腰の剣を抜き、わたしに迫ってきます。少し離れた場所に立っているウォルさんは、わたしに向かってニヤニヤとした笑みを浮かべているだけでした。
「どうしてわたしを殺そうとするんですか!」
後退りながら、わたしは大きな声でそう問います。
「どうしても君にはいてもらっては困るんだ。エリストーナのこれからのためにも、死んでくれ」
振り上げられた剣が、月の光を反射して煌めいていました。
わたしはユーナスさんの言葉の意味がわからなくて、自分がどうしていいのかわからなくて、近づいてくる彼を見ていることしかできませんでした。
わたしの死を望むユーナスさん。
ついさっきまで消えてしまいたいと思っていたわたしはでも、死にたくはありませんでした。
左手を魔石に添えても、引き出すための魔力がありませんでした。
後退る脚も、小屋の壁に当たってそれ以上後ろに下がることができなくなっていました。
――死ぬしかないの?
そう思ったとき、空から降ってきた声。
「炎の壁よ!」
転化の言葉に応じて、わたしとユーナスさんを分つように地面から燃え上がった炎。
「こっちに!」
まるで空飛ぶ箒のように杖に乗って現れたレレイナさんが降り立ったところに、わたしは駆け寄っていきました。
「さぁ、役者が揃ったぜ」
あっという間に消えた炎の壁の向こうから、ウォルさんの楽しそうな色を浮かべた視線とともに、そんな言葉が飛んできました。
*
「ウォル! 何故貴方がここにいるの!」
「ちょいと野暮用でな」
「……すべては、貴方が仕組んだことなの?」
久しぶりに見たウォルは、相変わらずの仕草で肩を竦めておどけて見せた。
これまでウォルの存在に少しも気づくことができなかった。
近くで魔法が使われたり、歪魔が側にいれば通常ならば感知することができるが、元々魔力を消し、存在を隠すことに長けたウォルは、レレイナでは感知することが難しい。
「ひな姉ちゃん、あいつって……」
「ウォルさんと知り合いなんですか?」
「ずいぶん昔に、ね」
後ろに隠れているひなのからかけられた問いに、レレイナは曖昧に答えていた。
「……あいつはウォルフォミルガ。先代魔王ミルーチェの側近のひとりよ」
不安そうにしているひなのの顔を見ていて、ウォルとの関係を隠すことはできないと思った。それから、これから彼と話すであろう内容を考えても、隠すのは無意味だ。
「ひなのをこの世界に喚んだのは貴方なのね、ウォル!」
一歩前に進み出て、レレイナはウォルに向かって声を張り上げる。
手元では空を飛ぶのに使っていた長い杖を手を振って消し、虚空から短杖を取り出していた。
もし、ウォルと戦うことになれば大量の魔力が必要になる。空を飛ぶときに使っていた杖もまた先端に魔石を取り付けたものだったが、蓄積されている魔力の量は短杖にはまったく及ばない。
レレイナに噛みつくような鋭い視線を飛ばしてきながらも、ウォルは口元に笑みを浮かべていた。
「召喚の魔法は俺様は修得できなかっただろう? あれを使えたのはお前と、……ミルーチェだけだ」
「じゃあいったい誰が、ひなのをこの世界に喚んだって言うのよ!!」
さも楽しそうに笑みを浮かべているウォルに、レレイナは堪えきれずに叫んでいた。
「わたしが、喚ばれた?」
「どういうことなの? レレイナ様」
後ろで呆然としているひなのを支えるように、その手をつかんでいるカツが問うてくる。
呆然としていても、ひなのは聞こえていることだろう。
「詳しいことは省くけど、ひなのを見つけたとき、私は巨大な魔法が使われたのを感じてその場所に向かったのよ。歪みの作用で偶然異界の物体が召喚されてしまうことはある。でもそうなる場所には大きな歪みがあるから、そんなことが起こる前にわかる。エリストーナの側にはそんな大きな歪みはなくて、ひなのが現れる直前、大きな魔法を使う感じがあったの」
最初から話しておくべきことかも知れない、とは思っていた。
しかし見つけた直後のひなのには言葉が通じず、説明するのは難しかった。
彼女が何者かによって召喚されたという事実は、言葉を覚え、生活に馴染んで行くに従って落ち着いてきた彼女を、不安定にさせる可能性が高く、言えなかった。
――いえ、本当は私が、怖がっていただけね。
ひなのとの生活は穏やかで、落ち着いたものだった。
エリストーナでの生活に慣れてくるにつれて見せるようになった笑顔を、失いたくないと考えていた。
自分で壊してしまったものの罪を、償えるような気がしていたから。
芯に強いものを持ち、しなやかさを備えたひなのの心は、しかし脆い部分があることもまた、わかっていた。
真実を告げることは、そうした彼女の脆い部分を、突き崩してしまいかねないと思っていた。
けれどももう、そんなことは言っていられない。
役者が揃っているだろうこの場で、彼女は真実に向き合うことになる。
ごまかしの言葉は、この場では使えない。
「ひな姉ちゃんが、異界の人?」
わかっていないように首を傾げているカツ。
無言のひなのは、唇を細かに震わせながら、レレイナの側から一歩離れていた。
ひなのの様子が気になりつつも、無理矢理彼女に向けた視線を外して、ウォルへと向き直る。
「その小娘をここに喚んだのは俺様じゃない。こいつの望んだ結果だ」
「ウォルフォミルガ!!」
ウォルの言葉に怒りの表情を浮かべて叫んだのは、ユーナスだった。
剣を抜きながらも近づいてくることも、この場を去ることもしていなかった彼は、怯えたような目で肩を震わせている。
「この小娘がこの世界に来ることになったのは、こいつの願いを叶えた結果だ。まぁ、本人にとっては望んだ結果ではなかったようだが」
剣先をウォルとひなのに交互に向けて迷っている彼の様子から、それが真実であることを感じ取る。
「召喚の魔法を発現させたの自体は、俺様だがな。こいつを使ってな」
虚空をつかんだウォルの手の中に現れたのは、彼の身長を超えるほどの長さの杖。
頭の部分の飾り立てられた輪のような部分には、こぶし大ほどの赤い宝石が取り付けられていた。魔石。
「それは、――ミルーチェ! 貴方が持っていたの?!」
「あぁ、そうさ。あいつを看取ったのは俺様だ。持っていても不思議ではないだろう? こうしてあいつは器物となった。気まぐれすぎて滅多に使わせてくれないがな」
歪みの結晶とも言える魔族のうち、力あるものは、死してなおその身体が滅びず、歪みの力が結晶化して魔石となることがある。とくに大きな力を持った魔族は魔石だけでなく、器物の形を取ることがあった。
ウォルの持つミルーチェのように。
レレイナが持つ短杖のように。
死してなお器物となるほどの歪みによって生まれた魔族は、器物となった後もわずかながら意思を残す。魔王であったミルーチェの意思は、持ち主であるウォルの意思すらはね除けるほどのものなのだろう。
「そんなことよりもレレイナよ。その様子だとまだ話していないんだろう?」
「何をよ」
手でミルーチェの杖をくるくると回してもてあそびながら、唇の片端を大きくつり上げたウォルが言う。
「この世界に召喚された者が、帰ることなんてできないってことを、だよ」
「ウォルフォミルガ!!」
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