第一部 第一章

第一部 第一章 魔女見習いの一日 1


第一章 魔女見習いの一日


       * 1 *


 指先に感じる痛いほどの冷たさに目が覚めます。

 綿をたくさん仕込んだ掛け布団から出てしまっていた左手を引っ込めつつ、まどろみが心地よくて、ベッドの中のぬくもりから動くことができません。

 薄目で見た視界に入ってきたのは、見慣れてしまった板張りの天井。

 窓の隙間から差し込む朝日はまだ強くはなかったけれど、部屋の中を見えるようにするには充分になってきつつありました。

 そろそろ起きなければならない時間になっています。

 今日もやることがたくさんあることも、わかっています。

 でも赤い焼き煉瓦を積み上げた壁からは、布団から出ている顔が痛く感じるほどの冷気が放射されていました。

「うぅ……」

 季節はもう春先と言っていい時期だと聞いていますが、起きるのに勇気が必要なほどの朝の寒さに、わたしは小さな悲鳴を上げつつ布団の中に顔まで潜り込んでしまいます。

 布団の中で思い浮かぶのは、今日やるべきこと。やらないといけないこと。

 たくさんあるのはわかっているのに、布団のぬくもりと寝起きのまどろみは、手放すのが寂しいと感じるほどに惜しいものです、

 エアコンはもちろんストーブなんてものもなく、暖炉もないこの部屋では、布団の中にいるいまが一番至福の時間です。

 いつまでもこのままでいるわけにはいかないのはわかっているのに、いつまでもこのままでいたくなってしまいます。

 ――そうだ。

 ふと、今日が何の日だったのか思い出しました。

 ここ数日のことを思い返して、間違いでないことを確かめます。

 思い出してしまったならば、もう布団の中にはいられません。

「――えいっ!」

 気合いとともに身体を起こします。

 ここからは時間との勝負。

 寝ているときに着ていた肌着から出ている腕と脚に冷気が直撃して、もう一度布団の中に潜り込みたくなりますが、それを堪えてベッドの横のサイドチェストから、畳んだ服を引っ張り込みます。

 すぐに服を着たい衝動を抑えて一瞬考え、わたしは肌着を脱ぎ捨てました。

 服とともに畳んでおいた肌着は、昨日洗って干しておいたもの。夜の間に冷えてしまっていても、太陽の匂いの誘惑は絶大です。

 木綿のショーツは二枚の布をざっくりと縫い合わせたような形のもので、男女兼用です。同じく木綿のシュミーズは女性用のもので、男性用と違って背中側の、肩胛骨から腰の辺りにかけて紐が渡されています。

「うぅ……」

 その紐は締め付けることによって腰回りと胸を安定させる、ブラジャーとコルセットの機能を兼用したようなもの。

 胸の大きい女性が多いエリストーナでは一般的なものですが、つい先日十四歳になったばかりのわたしには、男女兼用か子供用のもので充分かも知れません。

 痩せ気味の腰と、成長の遅い寂しさすら感じてしまう胸のために余るほど紐を引っ張って、ちょっと悲しい気分をため息で吐き出しつつ、邪魔にならないよう結んでおきます。

 次にけっこう分厚い生地の太ももの付け根近くまである、靴下というかタイツのようなものを穿き、ズリ落ちないようにシュミーズから伸びている紐に結わえます。

 それから白い毛織物の長袖シャツを頭から被って着て、黒いビスチェ風のスカートを穿き、緩めてある紐を胸元でしっかり結びます。続いて白く染め抜いた革のエプロンを身につけ、腰の辺りのリボンのような帯でしっかり固定しました。

 最後に、丸くて平たい宝石がはまったブローチを胸元にピンで留めて、着替えは完了。

 脱いだ肌着を畳んで革を縫い合わせた靴を履き、ベッドから抜け出します。

 目が届く場所に服の乱れがないか見てから、右足を軸に一回転。

 ミニと言うほどではないですが、けっこう短い丈のスカートがふわりと広がり、どこにも問題がないことが確認できました。

 見回した部屋の中にあるのは、ベッドと小さなサイドチェストの他に、大きめのローチェストと書き物をするための机と椅子。

 家具と言えるものはたったこれだけしかない四畳半ほどの広さの部屋。

 それがいまわたしが寝起きしている場所。

 外側の壁に寄せてある机に手を突いて窓の鎧戸を開けると、まばゆい朝日とともに、草や木や土の匂いがする外の空気が入ってきました。

 もうすっかり地平線から昇りきっているでしょう陽射しに照らされて見えるのは、土が剥き出しになっている庭と、その向こうに草木が生い茂る林。

 生まれてから十三年間住んでいて、飽きるほどに見慣れていた東京の家の二階から見える景色は、ここでは見ることはできません。

 もうこの世界に、エリストーナという街に来てしまってから四ヶ月ほどが経っているというのに、まだ見慣れた気がしない景色に、でもわたしは林間学校に行ったときのような、ちょっと楽しい気分が浮かんできて笑みが零れていくのを感じていました。

 たくさんの自然が含まれた匂いを胸一杯に吸い込んだわたしは、机の上に置いておいた木桶の中の、氷のような冷たさをしている水で顔を洗い、ブラシを取って肩をちょっと超えてきた髪を整え、それから桶の隣に置いてある黒い板に指を滑らせます。

 十インチほどの画面に表示されたのは、バッテリの残量。

 満充電にはなっていませんが、画面の部分も含めて全面に内蔵されている太陽光充電パネルは、鎧戸の隙間から差し込む朝日を受けて、夜に使った分の充電くらいは済んでいました。

 スレート端末「アルカディア」。

 中世ヨーロッパのような文明と気候のいまわたしがいる土地は、ファルアリースと呼ばれる場所。

 ファルアリースにおいて広い土地を領土としているリストメア王国に所属している街、エリストーナ。

 街の近くに建つこの家の中で、異世界の住人であるわたしとともに、アルカディアは明らかな異物。

 でも東京からエリストーナに来てしまったわたしにとって、アルカディアはあちらから持ってくることができた数少ない持ち物で、とても大切な物です。

 椅子に掛けておいた綿のクッション入りの平たい袋を被るように肩から掛けて、アルカディアをその中に納めます。本当はもう少し充電していたかったのですが、今日これからやることを考えたら、あまり時間に余裕がありません。

 部屋を出る準備を終えたわたしは扉を開けて板張りの廊下に出て、できるだけ足音を立てないようにしながら突き当たりまで歩いていきます。

 扉のない入り口から入った先は、土間となっている広いキッチン。

 まずは窓の鎧戸を次々と開けて光を取り込んでから、大きめの手桶を持って勝手口から外に出ます。

 朝、最初にやるべき仕事は水汲み。

 洗濯物を干すのにも使っている土が剥き出しの広場の隅にある井戸で手桶に水を汲み、勝手口を入ってすぐ横に置いてある大きな水桶に移し替えます。

 中学で使っていたバケツよりも重い手桶で、一度に運ぶ水の量も多い水汲みはそれだけでけっこう重労働ですが、井戸があるだけマシです。井戸がなかったら往復十五分ほどかかる近くの集落の向こうの川まで汲みに行かなければなりません。それに、こうして家事をやるようになって一ヶ月ほどの間に、ずいぶん慣れてきました。

「さぁて」

 キッチンに戻ったわたしは、次にやるべきことのために掃除用具などをまとめて置いてあるところから、灰掻きを手にします。

 キッチンにあるのは水桶以外には、様々な作業や食事をするための広いテーブル、食器を納める大きな棚と調味料などを納める細い棚、それから、炉です。

 土の床に煉瓦を敷き詰め、火の粉が飛ばないよう左右にも煉瓦を積み上げている炉は、平炉と呼ばれているもの。

 鉄製のオーブンは発明されておらず、石や煉瓦をたくさん必要とする窯はエリストーナでは数えられるほどしかありません。

 壁を挟んだ隣のリビングとして使っている部屋の暖炉と煙突を共有するため、キッチンの奥手側に設置されている平炉は、エリストーナでは煮炊きをするための一般的な設備です。

 まずはいつもスープをつくるのに使っている大鍋を、腰を痛めないよう気をつけながら金属製の台に待避させ、炉に残った大きな燃え滓を邪魔にならないよう除けておきます。それから灰掻きを持って炉に溜まった灰を、樹皮を編んでつくられたザルを重ねた底の浅い木桶に掻き出していきます。

 五日分の灰は、結構な量です。

 ザルを使って小さな燃え滓を取り除き、桶の灰はその前の分の灰を入れてある麻袋に入れておきます。

 灰はゴミではありません。

 東京に住んでいたときは使うことがほとんどないどころか、キャンプくらいでしか灰を見ることすらほとんどありませんでした。でもエリストーナでは様々なことに使える資源のひとつ。

 灰を掻き終えたわたしは、水を使って炉を掃き清め、それから勝手口を出てすぐのところに積み上げてある薪を持ってきます。炉に燃えやすいように並べてから、一番上に除けておいた燃え滓を乗せます。

 テーブルの上の火口箱を手にしたとき、思い出すことがありました。

「たまには使っておけって、言っていましたよね」

 いまわたしがこの家に住んでいるのは、家事をする家政婦として雇われているからではありません。

 魔女の、見習いとして、置いてもらっています。

 まるでアニメかゲームの世界のようですが、エリストーナには魔法と呼ぶべきものが確かにあります。

 魔法使いの素質を持っている人は、エリストーナだけでなく、リストメア王国内でも数えるほどしかいないそうで、昔から魔法使いや魔女といった人々のことは語り継がれているためその存在は知られていますが、実際に会った人や、魔法を見たという人はほとんどいないくらいだと聞いています。

 それほどに希少な魔法の素質があるとレレイナさんに言われたわたしは、いまは彼女を師事して魔女見習いとしてここにいます。

 ――上手く、できるでしょうか。

 不安が胸を過ぎります。

 魔法を習い始めてからまだ一ヶ月半ほどしか経っていません。

 東京にいたときには魔法を使おうなんてもちろん考えたことがなくて、最初のうちはどうやったらいいのかぜんぜんわかりませんでした。

 けれどもじっくり教えてもらって、まだ上手くはありませんが、やっと少しは使えるようになってきました。

 そんな状況なので積極的に使いたいとは思えないのですが、魔法の素質を持つ人は小さなものでもいいから時折魔法を使わなければならないものだと、レレイナさんに言われています。

「やってみよう」

 決意を言葉に出して、火口箱をテーブルに戻したわたしは、胸元のブローチに揃えた左手の指を添えます。

 ブローチにはまっている赤い石は、魔石と呼ばれる魔法の力を蓄積できる効力を持ったもの。

 どうにかつかむことができるようになってきた魔力の流れを感じ取って、魔石から自分の身体に魔力を取り出し、炉にかざした右手から薪へと注ぎました。

 魔力は目に見えるものではないので、見た目には何も変化はありませんが、薪の上にわたしが注いだ魔力が降りかかっているのは感じられます。

 魔法と言っても、呪文があるわけでも、それぞれの効果に名前がついているわけでもありません。魔法というのがどんなものであるのか、レレイナさんに教えてもらって、少しずつですがわかってきています。

 魔法とは想像を現実に転化する方法。

 頭の中に描いたものを実現する奇跡。

 魔法にとって重要なのは、魔力の扱いと同時に想像力。具体的な想像こそが、魔力を現実の現象に転化するための鍵です。

 ――火を。

 炉に積み上げた薪をしっかりと見てから目をつむって、頭の中で火を思い浮かべます。

 必要なのは火種。

 燃え滓があるので火は点きやすいはずですが、新しい薪は乾燥したものでも決して火が点きやすいとは言えません。

 少し強めに、炉で燃えさかる火を想像しながら、わたしは転化の起点となる言葉を口に出して唱えます。

「火よ」

 薪に注いだ魔力が消滅し、魔法が発現したのが感じられました。

「よしっ。……あれ?」

 火は、点きました。

 無事魔法の発動には成功しています。

 けれど目の前では、天井近くの煙突の入り口に達するほどの火、というか炎が、荒れ狂っていました。

「わ、わ、わ、わっ!」

 顔をあぶるような熱さに、わたしは思わず後退ってしまいます。

 火を怖がるなんてこと、もうないと思っていました。

 東京で暮らしていたとき、ガスコンロで料理をつくることくらいはありました。でも平炉で扱う火は、ガスの火よりも温度は低いんだと思いますが、コンロのように簡単に調節ができるわけではなく、薪が爆ぜて火の粉が飛ぶこともあります。

 家事をするとレレイナさんに言ったものの、最初は火が怖くて仕方がありませんでした。

 それでも、火の粉でも簡単には燃えない革のエプロンを買ってもらってからは、火を怖がることはなくなっていました。

 いま目の前の炎は、普段の炉の火とは比べものにならないほどのもので、消さないといけないと頭ではわかっていても、動くことができなくなっていました。

「火よ、鎮まれ」

 高く澄んだ声とともに放出された魔力。

 それにより発動した魔法は、荒れ狂っていた炎を弱め、鎮めていきました。

「レレイナさんっ」

 振り返って見たキッチンの入り口に立っていたのは、本当はドレスか何かだったと思われる黒い服を崩して着ている、若い女性。

 この家の主であり、わたしの魔法の師匠でもある、レレイナさん。

 先端の飾りの部分に緑の魔石をはめ込んであるバトンのような短い杖を右手に掲げ、寝癖ですごいことになっている髪をなでつけているレレイナさんは、大きなあくびをしながらわたしに近づいてきます。

「……あの、その、すみません」

 細めた緑の瞳で見つめてくるレレイナさんのことを真っ直ぐに見ていることができず、わたしは足下に視線を落としてしまいます。

 右手でくるりと杖を回して虚空に消したレレイナさんは、そんなわたしの頭を優しく撫でてくれました。

「怪我はないようね、ひなの」

 まるでお母さんのように、細めた瞳に優しい色を浮かべているレレイナさん。

 レレイナさんは三百年ほどになるエリストーナの歴史の中でも、ほんの数名しか名前が記録されていない魔法使い、魔女のひとり。

 それだけでなく、エリストーナを含むファルアリースの地に残る神話に語られる、神様に祝福されて生まれたとされる長寿族らしいです。その証拠に、寝癖の残る長くて細い黒髪から覗く耳は、長く尖っています。

 日本人とは少し違う鋭角的な顔立ちをし、エリストーナの女性としては小柄ながら、中学二年生の標準程度の身長をしているわたしよりもけっこう背が高いレレイナさんは、二十代そこそこに見えますが、本当の年齢は想像することもできません。

 ひとしきりわたしの髪を撫でた後、小さく息を吐いたレレイナさんは、顔を上げたわたしの目を見ながら微笑んでいました。

「魔法を使っておけと言ったのは私なのだから、そこのところを気にする必要はないの。成功のためには失敗はつきものよ。でも教えた通り、魔法は想像を現実に転化するもの。思い描いたものがそのまま実現するものよ」

「それは、……わかっています」

 まだ魔法を上手く成功できたことはあまりありませんが、そういうものだということは教えてもらっていて、わたしもわかっているつもりでした。

「失敗することは問題ないの。上手く使えるようになるためには必要なことだから。私も近くにいれば、失敗したときには駆けつけてあげられるからね。でも、いまみたいに時間に余裕があるときには、最初は最低限の魔力で魔法を使って、うまくいかなかったらもう少し力を込めて使えばいいのよ。それが魔法を上手くなるためのコツ」

「……はいっ。わかりました」

 ちょっと泣きそうになってきた気持ちを振り切って顔を上げると、レレイナさんは優しく微笑んでいてくれました。

「それじゃあ朝食の準備は、お願いね。私は着替えてくるから」

「はい!」

 もう一度わたしの頭を撫でてくれてから、あくびを漏らしつつレレイナさんはキッチンから出ていかれました。

 失敗して落ち込んでいた気持ちも、驚いて激しくなっていた鼓動も、いまは鎮まっています。胸元に手を当てながら、張りつめていた気持ちを細くゆっくりとした息にして吐き出しました。

 レレイナさんは、とてもいい人です。

 どうしてなのかはわかりませんが、エリストーナに来てしまったわたしを、誰よりも先に見つけてくれて、家に置いてくれて、この世界のことや、魔法のことなどを教えてくれています。

 レレイナさんがわたしにそこまでしてくれる理由は、わかりません。

 でも、わたしはレレイナさんがいなければ、この世界で生きていることはできなかったでしょう。

 言葉も、生活習慣も東京とは大きく違うエリストーナでいまわたしが生きていられるのは、レレイナさんがいてくれたからこそです。

「よし!」

 弱くなった炉の火に向き合って、わたしは気合いを入れます。

 待避させていた大鍋を炉の上に設置された自在鉤にかけ直して、炉の脇に置いてある鞴で火を調節します。

 わたしはいま、幸せです。

 エリストーナに生きていて、レレイナさんと一緒に過ごすことができていて、幸せを感じています。

 あのときレレイナさんがわたしを見つけてくれたこと。

 それがいまの幸せの始まりなのだと、いまでも思います。


          *


 朝日が目に染みて目を開ける。

 白い天井をなんとなしに眺めてから身体を横に向けて机の時計を見てみると、起きるつもりだった時間を十五分も過ぎていました。

「ね、寝坊っ!」

 布団をはね飛ばすように起き出して、部屋を駆け足で出てトイレの脇にある洗面台で顔を洗う。髪を整える。

 部屋に戻ってクリーニングが終わって壁のフックに掛けておいた制服を取って、パジャマを脱ぎ捨てました。

 エアコンのタイマーをセットするのを忘れていて、パジャマを脱いだ瞬間、一月もまだ上旬の冷たい空気にちょっと身体が縮こまってしまいそうになります。

 今日から三学期。

 冬休みの間は友達と遊びに行ったり、お正月にお爺ちゃんとお婆ちゃんの家に行ったり、みんなで初詣に行ったりして、楽しいことがいっぱいありました。

 今日は早く起きてそんな話を友達としようと思ってたのに、すっかり台無しです。

 制服を着たわたしは、ローチェストの引き出しから靴下を取りだそうとして、ちょっと考えます。

 靴下でもいいかも知れないけど、まだこの時期は少し短くしているスカートから出ている肌が寒い。冬用のタイツはこの前引っかけてしまって、まだ新しいのを買っていません。

 少し悩んで、靴下よりかマシかと思って、薄手ですがストッキングを穿くことにしました。

 時計に表示された時間は、いつも部屋を出るのと同じくらいになっています。

「急がないとっ」

 机のフックに吊しておいた鞄を取って、忘れ物がないかを確認。それから机の上で充電していたスレート端末に指を走らせました。

 表示を切り換えて、学校用のアプリを立ち上げ、データ送信する宿題が送信済みになっていることを確かめます。

 早く起きるつもりだったのに寝坊してしまったのは、忘れていた宿題に気がついたから。

 忘れていたのは数学の宿題で、問題自体はそんなに難しくはなかったのだけど、五ページ分の量に結構かかってしまって、途中で眠くなってしまったのもあって、終わった頃には一時を過ぎてしまっていました。

 大丈夫なのを確認してから、充電が終わっている端末を手に取ります。

 いつもと同じ、ずっしりとした重さを感じるスレート端末「アルカディア」。

 性能が高く、防水で、車に轢かれても傷つかないくらい強靱で、高いところから落としても壊れないくらい耐久性が高くて、バッテリの保ちもよく、全面に太陽光充電パネルが内蔵されているアルカディアは、発売からそれなりになっているいまでも最高のスレート端末として知られています。何より内蔵されているデータ量がすごくて、図書館ひとつ分くらいの情報が入っているんだそうです。

 お父さんとお母さんが中学に入学するときに買ってくれたものですが、わたしはあまりアルカディアのことが好きではありません。

 実用性重視で、無骨で、重いアルカディアは、男の子にはうらやましがられることもありますが、わたしはもちろん、友達にも不評だったりします。

 友達が冬に出た可愛いのやスタイリッシュな端末に買い換えていくのを、羨ましく感じることも多々あります。

 確かに使ってみると便利で、いろんなことができるのですが、高価で壊れることのなさそうなアルカディアを新しいものに買い換えられるのは、たぶん高校に入るときじゃないかと思っています。

 お父さんとお母さんがわたしのことを想って買ってくれたのはわかっています。

 でも、たまにアルカディアのことを恨めしく思ってしまうことも、止めることはできません。

「はぁ……」

 ため息を漏らしつつアルカディアを鞄の中に仕舞って、わたしは一階へと下りていきます。

 急いで一階に下りてLDKに飛び込むと、朝食を食べているお父さんと、わたしの分の食事を並べてくれている途中のお母さんが一緒に笑顔を向けてきてくれました。

「おはよう、ひなの」

「おはよう。お母さん、わたし、急がないとっ」

「まだ遅刻するような時間じゃないだろう。ちゃんとお母さんのつくった朝食は食べていきなさい」

「うん、わかってる。でも……」

「さ、座って。すぐに食べられるものだけでいいから。それからね」

 女性としては少し背が高くて、スラリとしているけど、女性らしいプロポーションはわたしの目標だったりします。

 怒ると本当に怖いのですが、でもいつも優しいお母さんは、お母さんと言う以上に、わたしにとって目指すべき人であるように、常々思えています。

 近づいてきたお母さんが、わたしの髪を撫でるように手を伸ばしてきました。

「寝癖。濡らさないとダメみたいね」

 撫でてくれた頭の後ろの辺りに、くっきりと寝癖ができている感触がありました。

「身だしなみにはちゃんと気をつけないとね。さぁ、先にご飯を食べちゃいなさい」

「う、うんっ」

 焼き上がったばかりのトーストにバターを塗って急いで口に運び、自家製ドレッシングがかかったサラダも食べて、手づくりのコーンスープもしっかり飲んでいきます。

 お母さんの美味しい朝食はできれば味わって食べたかったのですが、早く登校したかったので今日は急いで食べてしまいます。

 朝食を食べ終え、お母さんに手伝ってもらって寝癖を直したわたしは、お父さんの笑顔に見送られて玄関へと向かいます。送りに来てくれたお母さんにひとつ息を吐いて気持ちを落ち着かせてから、振り向きます。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 靴を履いてお母さんに軽く手を振った後、玄関の扉に手をかけて大きく押し開けます。

 ――え?

 外に出ようとした瞬間、ヘンな感じがしました。

 誰かに右腕を引っ張られているような感触に、思っていた以上に足を大きく踏み出して転けそうになってしまいます。

 誰かが腕をつかんでいるはずなんてないのに、抵抗しようとしてもどうすることもできない力は、さらに強く引っ張っているような気がしていました。

 家の中に戻ろうとしたとき、ふわりと浮き上がるような感触がして、身体がなくなってしまったかのような、何とも言えない感じがありました。

 それも一瞬のこと。

 戻ってきた身体の感触に、ぎゅっと目をつむって、踏み出した足を踏ん張って、転けるのは回避しましたが、何かがおかしくなっていました。

「どうしたんだろう」

 どうしてか目を開けられなくて、開けるのが怖くて、わたしは呟いていました。

 いつも通りに家を出ただけのはずなのに、何かが違っているような気がして仕方がありませんでした。

 新春と言ってもまだ冬の冷たい風がいつもよりもさらに冷たいような気がして、その上いつもと違う匂いがするようで、まだ玄関のポーチに立ってるだけのはずなのに、怖くて目を開けることができませんでした。

 でもこのままではいられません。

 ポーチの数歩先の門を開けて、道路に出て、急いで学校に行かなければなりません。

 目を開けたわたしに見えたのは、信じられない光景でした。

「え?」

 草原でした。

 わたしの目の前に広がっていたのは、玄関前のポーチでも門でも道路でもなく、黄土色をした草原でした。

 胸近くまでの高さのある草が生える草原は、地平線まで広がっています。ただわたしの足下だけは、雷でも落ちたみたいに、黒く焼けた地面があって、小さな広場になっていました。

 何が起こったのかわからなくて、わたしは後ろを振り返ります。

 そこには、いま出てきたばかりの玄関はありませんでした。

 やはり草原が広がっていて、少し起伏があるらしい草原は、遠くに見える森まで続いていました。

「何が、起こったの?」

 呟いてみても、ぜんぜん理解できません。

 家を出た瞬間、わたしは見知らぬ場所に立っていました。

 見慣れたものは何ひとつなく、聞こえるはずの朝の街の音の代わりに、さやさやと緩やかな風にざわめく草の音しか聞こえませんでした。

 幻を見ているとしか思えません。

 実はまだわたしはベッドの上で寝ていて、夢を見ているとしか思えませんでした。

 けれど草の香りも、土の匂いも、どちらも本物としか思えない現実感がありました。

「お母さん? お母さん?!」

 玄関にまだいるはずのお母さんを呼んでみても、返事はありません。

 ただ草原が広がり、草と土の匂いがしているだけでした。

 夢ならば醒めれば終わる。そう思うのに、わたしの目からは堪えきれずに涙があふれ出してきていました。

 どうすればいいのかぜんぜんわかりません。

 この先どうしたらいいのか考えられません。

 ただ立ち尽くすしかないわたしは、何度も、何度も、何度も、お母さんとお父さんのことを呼ぶことしかできませんでした。

 その時でした。

 風のものとは違う草の音が聞こえて来ました。

 何かが草をかき分けて近づいてくるような音がしているのに、周りを見回しても何かがいる様子がありません。

 ここが夢の中じゃなくて、現実なのだとしたら、逃げなくてはならないかも知れません。こんな人がいそうにもない場所で近づいてくるのは、もしかしたら危険な動物かも知れません。

 そう思っていても、足は動いてくれません。

 どっちの方向に逃げればいいのかもわからないまま立ち尽くしている間に、草をかき分ける音はどんどん近づいてきます。

 すぐ側で止まった音。

 涙はもう止まっていて、それよりも強い恐怖が、わたしの胸にわき上がってきていました。

 わたしのことを窺ってでもいるのか、少しの間、何事もなく、風の音がしていました。

「――、――――。――」

 いまからでも逃げなくてはと思っているとき、声がしました。

 高く澄んだ声。

 女性が発したと思われる、人の声。

 でも、言葉の意味がわかりません。

 日本語でも、英語でも、第二外国語として習っているドイツ語でもない、知らない言葉。

「――――!」

 そう、もう一度声を発しながら草の中から立ち上がったのは、初めて見る女性。

 日本人とは違う顔立ちをし、少し太めのわたしの髪とは違う、繊細で細い黒髪をした女性は、本当に人間なのかどうかもわかりませんでした。

 睨むように細められた緑の瞳と、何よりも髪から突き出た長くて尖った耳は、人のものとは思えませんでした。

 身長ほどもある木の杖を手に、土が焦げた広場へと踏み出してきた女性に、わたしは後退ります。警戒するみたいに周りを見回した後、彼女はけっこう身長差のある上の方から、わたしのことを睨みつけるように見下ろしてきました。

「――――。――、――――」

 話しかけられているのはわかりますが、何を言われているのかはわかりません。

 そのことを示すために、わたしは首を左右に振り、意味があるかどうかはわかりませんが、身を守るために鞄を胸の前で抱きしめます。

 少し考え込むように口元に軽く握った拳を当てて、どこでもない方向を見つめる女性。

 何かに気づいたように目を見開いた彼女は、わたしの鞄に顔を近づけてきました。

 彼女が見つめている場所には、学校指定の鞄なので、通っている学校の名前が書いてあります。

 何を思ったのか、何も握っていない左手を少し下がれと言うように突き出してきた女性は、右手の杖で地面に何かを書き始めました。

「名前?」

 書かれたのは、確かに日本語で、「名前」という文字。

 それから自分のことを指さし、彼女は言いました。

「レ、レ、イ、ナ」

 ひと言ずつ区切って言われたのは、たぶん女性の名前。

「レレイナ、さん?」

 そう繰り返すと女性は大きく頷き、わたしのことを指さしてきました。

 名前を訊かれているのはわかりました。

 たぶんこの女性――レレイナさんは、わたしとコミュニケーションを取ろうとしていることも、理解できました。

 少し前まで感じていた恐怖は、いつの間にか薄らいでいました。

「ひ、な、の。わたしの名前は、白河、ひなの、です」

 レレイナさんと同じように、ひと言ずつ区切って、それから自己紹介をしました。

「ひなの」

「はい。わたしは、ひなのです」

 名前以外の言葉がわかっているかどうかはわかりません。けれどレレイナさんは頷き、優しい笑みを浮かべました。

 杖をもう一度構え、名前と書いた文字の下に彼女は文章を書き始めます。

『私が教えます。着いてきなさい』

 文章を読み終え、顔を上げると、杖を左手に持ち替えたレレイナさんが、右手を差し出してきていました。

 いまいる場所がどこなのか、わたしにはわかりません。

 お母さんとお父さんにもう一度会えるのか、それもわかりません。東京に帰れるのかどうかも、わかりません。

 この先わたしがどうしていいのかも、考えることができませんでした。

 そんな場所で、そんなときにわたしの前に現れた女性、レレイナさん。

 彼女のかけてくれる笑顔に、差し出された手に、わたしは自分の手を伸ばしていました。

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