第一部 第一章 魔女見習いの一日 2
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今日の朝食は夕食のスープの残りがメインです。
夜の間に残っていた種火で鍋の中の具材はすっかりとろけてしまっていますが、その分いい出汁が出ていると思います。
エリストーナではあまり出汁を取るということはないようで、素材を煮込む他は、調味料で味を調えることが普通みたいです。
鍋の中に残っているスープに水を足して温めつつ、少し柄杓で掬って味をみてみると、野菜とお肉のいい旨味が出ていました。
「さて」
ひと声かけてからわたしは、勝手口の脇にある扉を押し開けます。
そこは食料庫。
夕食の具材はとろけて小さくなってしまっているので、少し具を足さなければなりません。
部屋の中よりも温度が低くなるよう工夫されている食料庫には窓はなく、キッチンから差し込む光でいまある食材を確認していきます。
食料庫は六畳ほどの広さがありますが、この家ではレレイナさんとのふたり暮らしのため、あまり多くの食料は置いてありません。
朝食用の具材を選びつつ、使い切ってしまった食材についても確認していきます。
食材を抱えてキッチンに戻り、テーブルの上に並べて準備しておいたナイフで大きめに切り分けます。
今日の朝食はキャベツと豆、それから少々の塩漬けの豚肉。
塩味は塩漬け肉から出る分で充分過ぎるほどなので、味の調節はハーブとコショウを使うことにしました。
調味料を置いてある棚から乾燥させて細かく刻んであるハーブが入っているものと、コショウが入っている陶器の壷を持ってきて、わたしは小さくため息を吐いていました。
「これも早く使い切らないといけないですね」
両手で包めるくらいのサイズのコショウの壷の中には、粉にしたコショウがまだたくさん入っています。
粒のままのコショウはけっこう日保ちするのですが、粉にするとどんどん風味が失われてしまいます。
コショウはエリストーナでは栽培できないものなので、調味料としては少し高いのですが、先日の市で粉にしたコショウがたくさん余っているとお店の人に声をかけられて、安くしてくれると言うのでたくさん買ってきてしまいました。
よく使う調味料とは言っても、レレイナさんとふたり分で使うには少し多すぎたかも知れません。
こんな風にわたしが食事をつくるようになったのは、ついひと月ほど前からでした。
レレイナさんに言われて始めたのではなくて、わたしがやりたいと思って自分から言い出したことです。
エリストーナに来てしまって、レレイナさんに拾ってもらってからもう四ヶ月ほどが経っています。
四ヶ月の間に、わたしはレレイナさんからたくさんのことを教わりました。
わたしがいた草原も、この家も、エリストーナという街の近くで、街の領主の方の領地であること。
エリストーナはリストメア王国という国に所属している自治領であること。
リストメア王国を含むこの辺りの地域はファルアリースと呼ばれる土地で、いまひとつ広さについてはわかっていませんが、たぶん日本と同じかそれ以上の広さがあることは、理解することができました。
レレイナさんが言うには、ファルアリースは歪みが発生しやすい土地なのだそうです。世界そのものが歪むということらしいです。
歪み、というのがいったいどういうものなのか、教えてもらっていますが、まだわたしにはいまひとつわかっていません。
でも歪みによって様々な現象が発生したり、影響が出たりすることがある、という話は聞いています。
主に歪みは場所に自然と発生するもので、歪みの力を魔石に蓄えることで魔力として魔法に使うこともできますが、放っておくとたいていは勝手に霧散してしまうらしいです。けれどある程度大きな歪みは霧散せず、不思議な現象を発生させるということです。
生物や物体に影響をもたらし、この世界のものとは異なるものへと変質させてしまったり、とくに大きな歪みが発生した際には、ファルアリースには存在しない、異世界の物体を呼び寄せてしまうこともあるとか。
呼び寄せられたものの多くはファルアリースにあるものと見分けのつかないもので影響がないそうですが、時折、異世界の人の手が加わった、意味のある物体を呼び寄せてしまうこともあります。
そうしてわたしが召還されてしまったのだと思う、とレレイナさんは言っていました。
また長寿族であるレレイナさんは長い間旅をし、異世界のものと思われる物体を集めて回っていました。
集めた物の中に、日本語で書かれた本があったそうです。
本では発音はわかりませんが、どうにか日本語を習得していたレレイナさんと最初は筆談で会話をし、教えてもらって少しずつエリストーナの言葉で話ができるようになりました。
魔法の素質については最初の頃からあると言われていましたが、習い始めたのはひと月ほど前から。
その頃から、わたしはレレイナさんの家の家事をするようになりました。
少しは自分でできるようですが、あまり家事に積極的ではないレレイナさんは、それまでは近くの集落の人を雇って家事をしてもらっていました。
拾ってもらって、この家に住まわせてもらって、いろんなことを教えてくれるレレイナさんに、少しでも返せるものがないかと思って、集落の方にも教えてもらってまともに食事がつくれるようになってきたのは、つい最近のことです。
レレイナさんにはやはり、感謝してもし切れないほどのものを与えてもらっていると、わたしは思います。
「それから、あとはどうしよう……」
鍋にハーブとコショウを味見をしつつ加えて、食料庫に入って残った食材を戻したわたしは考えます。
朝食は軽めに済ますのが普通です。もう一品と思うとパンが良いのですが、昨日の夜で食べ終わってしまっていて、買ってこなくてはなりません。
スープだけでもレレイナさんは文句を言わないと思いますが、物足りない感じがするのは否めません。
「いまあるのは、小麦粉と、バターと、卵と……」
ふと思って、わたしは腰に下げている袋からアルカディアを取り出し、指で触れて起動させます。思い付いた料理ができるかどうかと、つくり方について検索をかけました。
「うん。たぶん、大丈夫」
さすがは図書館ひとつ分の情報が収められているアルカディア。
現代とは材料が違っていても、つくり方の情報を見つけることができました。
食料庫から持ち出してきた小麦粉と牛乳、卵白を取り除いた卵黄を木のボールに入れ、さらにたっぷりの蜂蜜を加えて混ぜ合わせます。
砂糖はエリストーナでは生産されておらず、交易で得られはしますが、高級品です。蜂蜜は養蜂が行われているため、決して安くはないものの砂糖に比べれば気軽に使うことができます。
バターは保存のため塩味が強いので、少し水で洗って塩抜きをし、分けておいた卵白と一緒に別のボールに入れて木製の泡立て器で泡立てます。
腕が痛くなるほどかき混ぜて泡立てたそれを、小麦粉などを混ぜ合わせたボールに移してさらにかき混ぜ、タネは完成。
分量は割と適当ですが、たぶん大丈夫。
大鍋を引っかけているのとは別の自在鉤にフライパン置きをかけて高さを調節し、フライパンを置いて温めてからバターを引いて、タネを適量流し込みます。
平炉で調理する際の肝は、火加減です。
ガスや電気のコンロと違って自在に火加減を調節することはできず、火の強さと距離が難しくて焼くときに焦がさないようにするのは簡単ではありません。
できあがったのはパンケーキ。
スーパーで売っているホットケーキの素に含まれる膨張剤は入っていなくて、卵白とバターを泡立てることで代用としたので、それほどふんわりとはなりませんでした。
四枚できたうちの二枚は少し黒めになってしまいましたが、最初にしてはよくできたと思います。味も、切れ端を食べてみた限り問題はありません。
「そろそろかしら?」
「はいっ」
充分に煮込めたスープを木の深皿に移してテーブルに並べ、パンケーキを取り分けて食料庫から持ってきたチーズを食べやすいサイズにカットしていた頃、そろそろ呼びに行こうと思っていたレレイナさんがキッチンに入ってきました。
エリストーナではダイニングという概念があまりないため、髪も服も先ほどよりマシにしているレレイナさんと、キッチンでそのまま食事です。
「いただきます」
「いただきます」
河や大地、太陽や風といったものに神様がいるとする自然信仰のファルアリースでは、食事前の祈りといったものはありません。
本当なら別の意味や由来があるのかも知れませんが、食事のときのかけ声はやはり「いただきます」と訳すのがよいと思います。
椅子に向かい合って座って、早速の食事。
具を多めにしたスープは昨日の残りがとろけて少しとろみがあって、味付けは塩味が強く、ハーブとコショウで変化をつけていますが、わたしが料理に慣れていないこともあって文句なく美味しいと言えるものではありません。
お醤油もお味噌もここにはありませんが、出汁くらいは取ってみたらどうなんだろう、と思いながら、レレイナさんの方を窺ってみると、蜂蜜を塗ったパンケーキを頬張りながら、考え込むような表情を浮かべていました。
「割とおいしいわね」
「よかったです」
パンケーキはエリストーナでも食べることのあるものですが、パンの代わりとしてつくるもののため、甘みをつけることは少ないようです。
ナイフで切り分けたパンケーキをさらに口に運んでいるレレイナさんの様子に、ひと安心。
「さて、今日は何をしようかしら?」
「あの、今日は、市の日なんです」
食事や掃除に洗濯といった家事、魔法の勉強の他にも、毎日やることがたくさんあります。
日常会話に支障はない程度になっているにしても、まだまだ知らない単語が多いので言葉の勉強はいまも続けていますし、他にもレレイナさんに言いつけられている仕事もあったりします。
でも今日は、何より大事な仕事があります。
朝起きるときに気づいたのは、今日が市の日であること。
街には常設のお店も多くありますが、市の日には商人の方が交易品を持ってやってきたり、街の近くの集落の人が集まってたくさんの露店が立ちます。
切らしていたり少なくなっている食材を買うには、市の日が一番です。
「そうだったわね。それじゃあまたお酒をお願いね」
レレイナさんはお酒がとっても好きです。
冷蔵庫という文明の利器はエリストーナにはもちろんありません。食料庫の中は外よりも少し温度が低くなってはいますが、食材もお酒もあまり保存が利くものではありません。
市の日の買い物の中には、必ずお酒が入ります。
「何かリクエストはありますか?」
「んー。この時期だとそろそろビールが出ているかしらね? あとは適当に、何か珍しいものでも出ていたら、お願いね」
「はいっ」
食事と片付けを終え、レレイナさんからお金を受け取ったわたしは、早速市に行くための準備を始めます。
エリストーナに来てしまってから四ヶ月。
ここひと月ほどは、少しずつですが、落ち着いた生活ができるようになってきました。
まだまだ知らないことや、わからないことがたくさんありますが、日常と呼べる日々が始まっていると感じます。
それをもたらしてくれたレレイナさんには、いつもいつも感謝しています。
エリストーナに生きているわたしは、幸せです。
幸せな生活ができていると、そう思うことができるようになってきました。
「行ってきます、レレイナさん」
「行ってらっしゃい、ひなの」
レレイナさんの笑顔に送られて、わたしは街へと向かう道を歩き始めました。
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