第一部 第一章 魔女見習いの一日 3
* 3 *
集落の中などではなく、少し人里から離れたところにあるレレイナさんの家から街へと向かう道は、林の中にあって自然にたくさん囲まれています。
人通りが多いわけではないので道はあんまり整備されていませんが、元々はエリストーナに住む偉い方が狩りをするための宿舎として建てられたそうで、家もしっかりした造りですが、街へと向かう道の幅も十分な広さがあります。
街に持っていく荷物は酒瓶の他にもあって、けっこう重いのですが、エリストーナでの生活に慣れてきたわたしにはそれほど気になるものではありません。朝の寒いくらいの涼しい空気と、林の緑の匂いを含んだ空気を吸い込みながら、軽い足取りで歩いて行きます。
エリストーナの気候は東京よりも少し寒く、日本のカレンダーならばそろそろ五月ですが、まだまだ長袖でも肌寒さを感じるほどです。
でも林の中には、前回市へ行ったときとはほんの少し違っていました。
道の脇の木々は新しい葉を茂らせ始めていて、足下の草には小さな花を咲かせているものもあります。
朝方は痛いほどの寒さとなるこの辺りは、でも冬から春へと着実に移り変わっているのを感じます。
林を抜けた辺りで集落へと続く道と合流し、もう少し歩くとさらに別の道と交わり、ついにはファルアリースの東西をつなぎ、エリストーナの街を貫く広い街道へと出ました。
市の日だからでしょう、ファルアリースの大動脈と言える街道にはたくさんの人が行き交っていました。
背丈を超えるほどに積み上げた荷物を背負った、たぶん近くの集落の人や、遠くから来たらしい商人の方が四頭の馬に驚くほどの商品を載せて急いで街に向かっている中を、時折見知った顔の人と挨拶を交わしながらすれ違います。
街に近づいてくると、街道の左右には畑が広がっていて、春蒔きの麦が青々と育っているのが見えました。
家を出てから十五分ほど。段々と見えてきたのは、街を守る高い壁、街壁です。
たくさんの石を積み上げ、土で塗り固めた街を守る防護壁は、わたしが通っていた中学の校舎ほどの高さがあって、いつ見ても圧倒されてしまいます。
いまは水が入っていない深い堀にかかっている木製の跳ね上げ橋を渡り、警備をしている兵士の方に軽く会釈をして街に入ると、街道とは比べられないほどの人が行き交っていました。
今日は十日に一度の大市の日。
エリストーナでは月に六回の市が立ちます。
月曜から日曜までの七曜ではなく、月を上旬中旬下旬で分ける十曜を採用しているここでは五日に一回のペースとなります。
わたしが入ってきた東門とは反対側の西門を出たところには、ストーナル河と呼ばれている太い河が流れていて、大きな船が発着できる船着き場があります。
ストーナル河は女神ストーナが宿るとされている大河。
エリストーナという街の名前は、ストーナに寄り添うという意味を持つもので、ここに人が住んでいるのは女神ストーナと契約を交わし、住むことを許されたからだという伝承が残されています。
河を下った河口にある港町との間には定期船が運航されていて、市の日にはその船が入ってきています。五のつく日に開催される小市の日とは違って、十のつく日の大市には遠くの港とを行き交う定期船も戻ってきて、東西街道からの品々も集まって、大きな市となります。
さらには月末には月市と呼ばれる市が開かれ、リストメア王国とは違う国との交流船が戻ってきて、三日に渡ってお祭りのようになるそうです。
まだわたしは月市には来たことがないので、今月末が本当に楽しみで仕方がありません。
小市の日は船着き場に近い街の西側に露店が集中していますが、大市である今日は街に入ってすぐのところからたくさんの露店が出ていました。
「こんにちは、ひなのちゃん。買い出しかい?」
「はいっ、こんにちは。そうなんですよー」
「よぉ。ひなの。後でちょっとうちの店にも顔を出してくれよ」
「わかりましたー」
市にひとりで来たのはまだ三回目ですが、わたしのことを憶えていてくれている人からは声がかかってきました。
見知った人の笑顔に笑顔を返しながら、石畳の道を踏んで石造りや木造の建物が並ぶ街並みを、最初の目的地である中央広場西側のお店に向かっていきます。
街壁の内側の、エリストーナの街の人口は一万人ほどだそうです。
周辺の集落を含めた、まだ若い領主様が直接治めている直轄地の人口を含めても、三万人弱。
領地として治めている村や小規模な街を含めても六万人に満たない、東京などとは比べものにならないくらい小さな街が、このエリストーナです。
それでも街にはとっても活気があって、人々は明るく、気さくな方が多いのが特徴です。
東京のように車が走っていることもなく、たまに馬がすごい速度で走っていることもありますが、それでも穏やかで、ゆったりした雰囲気のある街は、わたしにとって過ごしやすい場所だと感じています。
――でも。
ふとわたしは立ち止まって、青い空を見上げていました。
運動会でも開けそうな広さを持つ中央広場から見上げた空は、どこまでも高く、澄んでいて、東京で見ていた空とは違っています。
わたしは、エリストーナが好きです。
過ごしやすく、活気があって、気さくな人が多くて、住みやすい場所だと思います。
でももし、いまも東京に住んでいたとしたら、この世界に来ていなかったとしたら、自分は何をしていただろうと思うことがあります。
ゴールデンウィークが終わって五月も半ばに近づく今頃は、間近に迫った二年最初の中間テストを控え、友達と一緒に図書室に籠もったり、家で勉強をしていたでしょうか。それとも勉強をする気が起きなくて、どこかに遊びに行っていたでしょうか。
空に手を伸ばしてみても、その時間を手に入れることはできません。
いまのわたしにとって、そうした時間は遠く、手に入れることができないものになってしまっていることだけは、確かでした。
「どうしたの? ひな姉ちゃん」
「カツ君?」
呼ばれて空から視線を落とすと、すぐ側にニッと笑う男の子が立っていました。
街では露店の他にも多くの常設のお店がありますが、そうした常設のお店で木工屋を営んでいるガロットさんの息子さんのカツ君が、わたしのことを見上げていました。
半ズボンを穿いてシャツの上にベストを羽織る彼は、少し年下の十歳。クセの強いツンツンした髪の下の顔に、年相応のやんちゃそうな笑顔を浮かべています。
「そうそう、昨日オレ、十一歳になったんだぜ」
「そうなんだ。おめでとう」
「あぁ。ひな姉ちゃんのおかげだよ」
頭の後ろで手を組んでにんまりと笑うカツ君に、わたしも思わず笑みを返してしまいます。
つい先々週、彼はとても悪い風邪にかかっていました。
お医者さんの持つ薬でも高い熱が下がらず、どうにも手の施しようがなくなっていたとき、彼のお父さん、ガロットさんがたくさんの知識を持っていることでも知られているレレイナさんの元に助けを求めてきました。
レレイナさんにもあまり多くの薬草の知識はありませんでしたが、わたしにはアルカディアがありました。
解熱剤として使えそうなものをアルカディアで検索して、そこから得た知識でどうにかエリストーナにも生えている草を探し出して、それが効いたのか、熱を下げることができました。
わたしはアルカディアのことが嫌いでしたが、でもカツ君を救う役に立てることができました。そのことでわたしは、アルカディアのことが以前よりも好きになることができていました。
そんなことがあって以来、カツ君はわたしを見つけると声をかけてきてくれるようになりました。
「来年には、婚約だって……、できるんだぜ」
「そうなんですね」
エリストーナでは成人は十八歳となりますが、十二歳からは仕事の手伝いをしたり婚約ができたりと、大人になるための様々な準備ができるようになります。
実際には仕事はもっと幼い頃からできることは手伝うのは普通のようですが、十二歳からは様々な権利や義務が発生するようです。
顔を少し赤らめて何かもじもじしているカツ君には、婚約を申し込みたい好きな人でもいるのでしょうか。
「それよりも、お父さんの手伝いはいいの?」
「いや、まぁ……、今日は店番だけだし、それよりもひな姉ちゃんの買い物、少し手伝おうか?」
「んー」
カツ君の提案に、考え込んでしまいます。
彼がいると、正直助かります。
本当はお父さんのお店を手伝わなければならないはずのカツ君の、期待の籠もったきらきらとした目に、自分の打算とを含めて断り切ることができませんでした。
「じゃあ、少しだけ、付き合ってもらえますか?」
「うんっ」
露店や常設店で売っている商品は本当に様々で、食品類や織物類はもちろん、装飾品、道具類、果ては馬などの家畜なんかも売っていたりします。
お店はあくまで商売の表の部分で、本当の交易は商館で大規模な物品のやりとりがあるものなんだそうです。
荷車が三台並んでも余裕がありそうな西側街道は、通りに常設の商店が並んだ商店街になっていて、さらに布を敷いた上に今日収穫してきただろう春野菜を置いている集落の方や、木で造られた屋台のようなものに綺麗なガラス細工を並べている商人の方など、本当にいろんなお店があって、全部を見て回りたくなるほどでした。
香ばしい匂いを漂わせる軽食を売っている屋台にふらふらと足が向きそうになるのをぐっと堪えて、歩くのも大変なほどの人通りがある中を守ってくれるように先を歩いてくれるカツ君と一緒に、まずは最初の目的地である常設の商店へと向かいます。
「こんにちはー」
「あら、こんにちは。ひなのちゃん」
足を踏み入れた木造の比較的小さな商店の、ちょっと恰幅のいい小母さんに声をかけると、笑顔で挨拶が返ってきました。
「なんだい、カツ。あんたまでいるのかい? 親父さんの手伝いがあるだろ?」
「いいんだよっ。ひな姉ちゃんの手伝ってるんだから!」
「またそんなことを。そう言ってひなのちゃんにつきまとって仕事をサボろうってんだろ?」
ここに来るまでに似たようなやりとりをもう二度ほどやっています。木工屋さんの息子として街に住んでいるカツ君は、商店街でも知られた顔で、そしてみんなから大切にされているのでしょう。
「今日はわたしからお手伝いをお願いしているんですよ」
「そうなのかい? あんまこいつを甘やかしちゃダメだよ、ひなのちゃん」
「いえいえ。本当に助かっています」
少し呆れを含んだ息を吐く小母さんに対して、カツ君は胸を張って勝ち誇っていました。
助かっているというのは本当のことです。
お店の棚に並んでいるのは、ロウソクや石けんや洗剤に、陶器の瓶に入っているのは様々な種類の油だったり、床には木炭、樽や麻袋に入った種類の違う灰だったりと、わたしにはいまひとつ何屋さんと言えばいいのかわかりません。
エリストーナの商店はある程度傾向があるのはわかるのですが、日本のお店と売っている商品の区分が異なっていて、ほしい商品がどこで売っているのかわからなくなることがあります。
そうしたときに街住まいのカツ君がいると、いろいろ訊くことができて、不慣れなわたしは本当に助かります。
「今日はこれをお願いします」
言ってわたしは肩に提げていた大きな袋から麻袋を取り出します。
「あいよ」
受け取った小母さんは袋の中に手を入れて中身を確かめます。
中に入っているのは、朝掻き出してきた炉の灰。
一週間、十日分の灰はそれなりの量になっています。
「ん。燃え滓もないし、水増しもないね。このまま買い取らせてもらうよ」
日本では灰を何かに使う機会は少ないのですが、エリストーナでは本当にいろんなことに使います。
畑の肥料になるのはもちろん、灰を水に沈めてできる灰汁はアルカリ性を示し、石けんや洗剤の材料になったり、様々な仕事で灰や灰汁が使われています。
「今日はどうするんだい? お金がいいかい?」
「あ、いえ。石けんと除虫香でお願いします」
天井から吊された棒天秤で灰の重さを量った小母さんが振り向いて言う言葉に、わたしはそう答えます。
エリストーナでは様々な事柄に税金がかかりますが、比較的裕福なのか、取引を活性化させるためなのか、小売店での取引には現金のやりとりにだけ課税され、物々交換は非課税となります。
だから今日は、少なくなっている洗濯用とお風呂用の石けんをいくつか、それと家の中で焚くことで虫除けの効果がある除虫香をいくつかお願いしました。
「それとこれ、あげるよ」
石けんなどと一緒に渡されたのは、ここでは珍しいガラスの小瓶。中に入っているのは少し黄色味がかっている液体でした。
「お風呂に入った後に髪につけるとふんわりするとかって代物らしいんだけどね、あたしにゃ必要ないものだからねぇ」
確かに小母さんの髪はクセの強いちりちりとした髪をしていて、ストレートパーマでもどうにかできないかも知れないくらいです。
「ひなのちゃんの綺麗な髪なら効果ありそうだし、お試しでもらった分だから、使い心地を教えてちょうだいよ。いいものだったら仕入れるつもりだからさ」
「はい、わかりました。そういうことでしたらありがたくいただきます」
笑顔の小母さんの好意をありがたく受け取って、石けんと一緒に小瓶を買い物用の袋に大切に収め、挨拶をしてお店を後にしました。
「さて、まずはひと回りしてみましょう」
「うん。つき合うぜ」
そろそろ手伝いに戻らなくてもいいのでしょうか、と思いつつもカツ君と一緒に、今日はどんな物が売っているのかを確認するために露店を見て回ることにします。
露店の数が減ってくる西門近くまできたとき、何か人集りができていました。
人通りを止めてしまうほどの人集りの向こうからは、怒っているような感じのある男の人の声が聞こえてきますが、ここからでは不安そうに言葉を交わす人々に紛れてしまって内容までは聞き取れません。
「なんだろ? ちょっと見てくるっ」
「あ! 気をつけないと危ないかもしれないよ!」
わたしの注意の声も遅く、カツ君は人の隙間に身体を滑り込ませて行ってしまいました。
なんとなく、悪い予感がしていました。
この人集りの向こうでは何か良くないことが起きているような気がしました。
見えなくなってしまったカツ君のことを待ちながら、わたしは不安が胸に広がっていくのを感じていました。
「どうだった?」
早々に戻ってきたカツ君に訊いてみますが、集まっている他の人がそうであるように、彼の顔にも影が差しています。
「どうしよう、ひな姉ちゃんっ。リーナが!」
「リーナちゃん?」
その名前には憶えがあります。
カツ君より一歳年下の可愛らしい女の子で、一度彼と一緒にいるときに会ったことがあります。
「詳しく教えて」
「うん。あのね――」
人集りの向こうでは、リーナちゃんがふたりの男の人に捕まっているそうです。詳しいことはわからないそうですが、彼女が何かを盗んだと、捕まえている男の人が言っているのだそうです。
わたしも声が聞こえるくらいまで人集りに近づいて行ってみます。
「いいからこいつの親父を呼んでこい!」
「散れ! 散れ! 邪魔なんだよ、お前らっ」
ずいぶん甲高い声と、正反対に野太いふたりの男の人の声が聞こえてきました。
「てめぇらには関係ねぇんだよっ。いいからこいつの親父を呼んでこい!」
再びリーナちゃんのお父さんを呼んでくるよう要求している甲高い声が響き渡ります。
――なんだろう。
何か引っかかるものがありました。
「リーナちゃんのお父さんって、何をしている人?」
「え? 商人だよ。定期船の船主」
わたしの問いに驚いた顔をしているカツ君の答えに、わたしの胸の中に生まれた疑惑が深まります。
定期船はストーナル河を下った港町との間で運航しているもの、さらに遠いところまで行っているもの、ファルアリースではない、遠い国の間を往復しているものなどいくつか種類があって、何隻かあります。
造船技術がどれほどのものかはわかりませんが、定期船の数は多いというほどではないと思います。交易が街の柱となっているエリストーナでは、交易船を持つ人は地位や財力だけでなく、街にとって重要な人のはずです。
「男の人は、この街の人?」
「うぅん。たぶん王都かどこかの商人だと思う。服とか高そうなの着てたし、腰に剣差してたし。それよりどうしよう。リーナを助けないとっ。あいつらはリーナが何か盗んだとか言ってるけど、そんなことする奴じゃないんだよ!」
いまにも泣きそうな顔をしているカツ君のことを見ながら、わたしは頬に人差し指を添えて軽く首を傾げながら考え込んでいました。
リーナちゃんとはあまり話したことがあるわけではありませんが、人から物を盗むような子には見えませんでした。
何かが見えてきそうな気がするのに、まだはっきりとはしません。
「おら、早くしろ! こいつの親父を呼んでくるだけでいいんだよ!」
同じ要求を繰り返す甲高い声に、疑惑がさらに深まります。
「兵士の人を連れてくるのじゃ、ダメなのかな?」
「ダメだよっ。騎士隊の人だったらともかく、王都の商人とかだったら兵士じゃ見て見ぬ振りか、奴らの言いなりさ」
農業と交易の街であるエリストーナでは、商人は手厚く保護されています。
もちろん明確な罪を犯せば捕まり、裁かれるでしょうが、この町の商人はもちろん、外の商人、とくにエリストーナが属しているリストメア王国の王都から来ている商人ともなれば、その権力は決して低くはないのでしょう。被害者であると主張しているいまの状況では、証拠のあるなしよりも被害者の主張の方が大きいのかも知れません。
――それがわかった上で、なんですね。
何となく、彼らの意図がわかったような気がしました。
それならばわたしでも何かできるかも、と思います。
――でも、いいのかな?
わたしはレレイナさんの家に住まわせてもらっている身。
あまりトラブルに首を突っ込むようなことは、レレイナさんにも迷惑をかけてしまうことになるかも知れません。
「ひな姉ちゃん、オレ、どうしたらいいんだろう……」
「うん……」
どうするべきか迷っているとき、微かにしゃくり上げる声が聞こえてきました。
男の人たちに捕まっているリーナちゃんが、人集りの向こうで泣いていました。
「――わたしに任せて」
「え?」
迷いは消えました。
カツ君にそう言い残して、わたしは人集りの中に身体を滑り込ませます。
少し遠巻きにしている人々の向こうに見えたのは、薄ピンク色のワンピースを着、短めの栗色の髪を可愛らしいリボンで二つに縛ったリーナちゃん。
それから、シャツと革のズボン、革の上着を身につけた、背の高い痩せたのと、小太りのふたりの男の人たち。
柄に装飾のある短剣を腰に差しているふたりは確かにこの街の人ではなく、身なりからするとそれなりに地位か財力を持っているように見えました。
「なんだよ、てめぇ! いいから早くこいつの親父を連れてこい!」
真っ直ぐに自分たちのことを見ているわたしのことを認めて、痩せた方の男の人が唾を飛ばしながら同じ要求を繰り返します。
物を盗られたというならさっさと取り返すか、兵士に届け出ればいいのに、それをせずにリーナちゃんのお父さんを呼んでいるということは、彼らにはその方が都合のいい理由があるのでしょう。
わたしのことを見つけて少し安心した顔になるのと一緒に、目尻に溜めていた涙が零れ出したリーナちゃんを見たとき、わたしの中にまだ残っていた迷いや恐れは消えてなくなっていました。
「何があったのか、教えてください」
人集りの中から一歩前に出て、わたしはどうやら太めの人よりも地位が高いらしい痩せた方の男の人の顔をじっと見つめて、お腹に力を込めながら声を放ちました。
「関係ねぇだろ、てめぇには!」
「関係あります。その子はわたしの友達です」
鋭い視線を向けてくる男の人の大声にも怯むことなく、わたしはもう一歩前に進み出ます。
「こ、こいつが俺の金を盗んだんだよっ。子供の罪は親の責任だ! だからさっさとこいつの親父を連れてこい!!」
顔を真っ赤に染めた男の人は、要求を変えることなく歯をむき出しにしながら叫んできます。
――たぶん、そうなんですね。
ここに来て、わたしはほぼ確信に至っていました。
「何があったのか、教えてもらえる?」
近づいて前屈みになって、リーナちゃんにも訊いてみます。
「てめぇには関係ないって――」
「わたしはこの子に訊いているんです!」
言葉を遮って言い返すと、男の人は喉の奥に息を詰まらせたように「くっ」とうめき声を上げてそれ以上何も言ってこなくなりました。
「……あの、ね。この人が金貨を落としたから、拾ってあげようと――」
「ちげぇ! こいつが盗んだ――」
しゃがんだままできるだけ力を込めた瞳で睨みつけると、男の人は言葉を途中で切って黙り込んでくれました。
「まだその金貨、持ってる?」
「うん……」
痩せた男の人につかまれている左手とは反対の、右手を開いて見せてくれるリーナちゃん。そこには確かにエリストーナでは見たこともない金貨がありました。
恐怖からでしょう、汗でじっとりと濡れてしまっている金貨を、わたしはリーナちゃんの手からつまみ上げ、自分の左手に握り込みます。
「これであなた方の金貨はわたしの手に移りました。この子を離してください」
「てめぇ!」
「何しやがんだっ」
身体を起こして左手を差し出すと、さっきよりもさらに怒りの色を濃くしたふたりが、腰の短剣の鞘に左手を添え、右手で柄をつかみます。
でもその拍子に、つかまれていた手を解放されたリーナちゃんは人集りの方に走っていきました。
人集りの前まで出てきていたカツ君にリーナちゃんが抱きついていったのを見てほっとしたのはいいのですが、ここからが問題です。
このふたりはたぶん、商人か誰かにつながる人で、リーナちゃんに金貨を盗まれたと罪を被せることで、何かを要求しようとしていたのでしょう。もちろん彼女のお父さんが定期船の船主であることを知った上で。具体的な内容はわかりませんが、おそらく要求内容は商売に関することか何かでしょう。
彼らの目的はリーナちゃんを解放できたことで挫くことができました。
けれどもその後どうするかなんて、考えていませんでした。
金貨を盗まれたからと主張しても、さすがに剣を抜き、逃げる訳でもない人を斬ったとなれば、商人にある保護も効きはしないでしょう。
けれど怒りで我を失っている様子のふたりに、そこまでの考えができるかどうかはわかりません。
――そうなったら、わたしが大変なことになってしまいますね……。
いままで感じていなかった緊張が、わたしの脚を震わせていました。
顔を真っ赤にして歯をむき出しにしているふたりは、いままさに剣を抜き放とうとするように、腰を落としてわたしのことを睨みつけてきています。
冷や汗が、背中を伝って流れ落ちていきました。
脚どころか全身が震え出しそうになるのを、そろそろ止めることができそうもありません。
魔法を、とも思いますが、こんな気持ちが乱れた状態でうまく使える自信はありませんし、レレイナさんからはみだりに人前で魔法を使ってはならないと、厳しく言われています。
打開策がないまま、逃げ出したい気持ちを抑え込みつつ、わたしは左手を差し出して立っていることしかできませんでした。
「何をしている、お前たち!」
声とともに人集りを割って現れたのは、白い革鎧を身につけた若い男の人でした。
柔らかそうな薄茶色の髪をし、精悍な顔立ちをして、鋭い瞳でわたしと、男の人たちを睨みつけるように見つめる彼は、エリストーナの街でも三人しかいない王国の正騎士の称号を持つユーナスさん。
「ひっ」
「し、白騎士っ」
ユーナスさんは王国の北西にある、封魔の地と呼ばれるところとの国境の警備に就いているとき、攻め込んできた魔族の軍隊を相手に警備の兵隊を率いて戦ったのだそうです。その戦いで敵の将軍を討ち取った功績により正騎士の称号を受け、その白い鎧から白騎士と呼ばれるようになり、ファルアリースでは知らぬ者がいないほどに有名な方です。
「王国の商人の方か? 街の中ではあまり騒ぎを起こしてもらっては困る。話を聞くために兵舎まで来ていただけるか?」
「い、いえっ。たいしたことはありませんでしたのでっ」
「そうですそうです。すみません!」
慌てたようなふたりは、わたしの手から金貨を奪うように持って行き、走って西門の向こうへと消えて行きました。
「済まないな、ひなの。来るのが遅れてしまった」
ユーナスさんはちょうどお城に行ったときに出会って、レレイナさんに紹介していただいて二度ほど話したことがありました。
まだ二十歳にもなっていないのに本当にしっかりした方で、エリストーナ出身の彼は、街を愛している、ちょっと素敵な方です。
「い、いえ、大丈夫、です……」
「おいっ」
近づいてきたユーナスさんの顔を見て、わたしはそれまでどうにか抑え込んでいた緊張の糸が途切れていくのを感じていました。
震えていた脚にはもうひと欠片も力が入らなくなっていて、驚いた顔をしているユーナスさんの胸が近づいてきていると思ったときには、わたしは意識が遠のいていっていました。
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