第一部 第三章 魔法の真実と現実 3
* 3 *
「近いうちに倒壊するだろう」
「え?」
ガロットさんたちと急いで向かったのは中央広場。
お店で見つけた虫に食われた木に似たものを見たのは、中央神殿の鐘楼でのことでした。
エルナちゃんをお店に残して、着いてきてしまったカツ君と一緒にガロットさんは持ってきた工具などを使って調べていました。
「まだ寒いからだろう。外には出てきていないが中はすっかり食い荒らされている」
表面を剥がした鐘楼の柱の内側は、虫が食べたのでしょう、幾筋もの穴が掘られていました。
「どれくらい食われているかはもっと調べてみなければわからないが、土台近くがかなりやられている。この時期には強い風が吹くことがある。場合によってはその風だけで倒壊しかねない」
怒ったような厳しい目つきで、ガロットさんは鐘楼を見上げていました。
「しかし何故だ?」
「どうか、されたんですか?」
呟くような言葉に、わたしはその意味を訊いてみます。
「いや……。この虫は夏になれば増えて広がることもあるが、この時期には紛れ込んできていても、身を潜めてあまり増えたりはしない。それに鐘楼はやられてるが、神殿の方には被害がないようだ。どうしてこんなことになっている? 種類が違うのか? 先月状態を調べたときにはこんなことにはなっていなかったのに……」
考え込むようにうつむいて髭をさすっているガロットさんに、わたしもまた頬に指を添えて小首を傾げていました。
春になったとはいえ、まだ暖かくないこの時期に、夏に繁殖する虫が増えるというのはおかしなことです。先月調べて異常がなかったのに、今日は倒壊の危険があるほど虫に食われている理由は、思いつくことができませんでした。
もし種類が違って、エリストーナのいまの時期でも増える虫だとしたら、隣接する中央神殿にも被害がありそうですが、ガロットさんが調べた限りはそれはないようです。
何故鐘楼だけに大きな被害があるのか、わたしにはよくわかりませんでした。
「そ、そんなことよりっ。ここは危ないんだろ? 早く誰かに知らせないと!」
カツ君の慌てた声に我に返ります。
いつもより人通りが少なめと言っても、今日は小市の日。いまこの時間も中央広場にはたくさんの人が行き交っています。
鐘楼はお城のように巨大な建物ではありませんが、人が住めるほどの敷地に、鐘の音が遠くまで響くよう高く建てられた建物です。
もしいま鐘楼が広場に向かって倒れたりしたらどれほどの被害になるのか予想もできませんでした。
「そこの兵舎に知らせてこよう」
「はいっ」
行き交う人の間を縫って広場の反対側にある兵舎に向かって走り出します。
早くこのことを知らせて、広場の人を避難させ、鐘楼が倒壊しないよう対策を立てる必要がありました。
広場の真ん中辺りまできたとき、風が吹いてきました。ちょうど、大風が。
埃を巻き上げ、露店の商品を巻き込むほどの強い風に、乱れる髪とめくれ上がりそうなスカートの裾を押さえるわたしも、広場にいる人たちも、思わず立ち止まってしまっていました。
風が弱くなってきたと思ったとき、後ろの方から聞こえてきた音。
バキンッ、という、何かが砕けるような音。
振り返ると、天を突くようにそびえる鐘楼の先端が揺れていました。
揺れにあわせて連続する砕ける音とともに、ゆっくりとではありましたが、広場に向かって鐘楼が傾いてきているのがわかりました。
「ひな姉ちゃん!」
「逃げて!」
カツ君の悲鳴のような呼び声に、わたしはそう返事をしていました。
鐘楼の異変に気づいているのは、わたしやカツ君、ガロットさんだけのようです。
すごい風だったと先ほどの大風のことを話しあう人々の声が聞こえてくるばかりで、傾きを大きくしつつある鐘楼に気づいて逃げ出そうという人はひとりもいません。
「わたしが少し時間をつくるから、みんなを広場から逃がして!」
言ってわたしは、左手の指を魔石に添えます。
――わたしに、できるの?
魔石から魔力を取り出しながら、わたしは考えてしまいます。
これまで火を点ける魔法や、物体を動かす魔法などは使ったことがありました。小さな魔法ばかりを。
止まることなく傾きを大きくなってきている鐘楼ほど巨大なものをどうにかする、大きな魔法は使ったことがありませんでした。
それに、わたしはまだまだ魔法の発現に失敗してばかりいます。まともに使えるのかどうかも、わかりませんでした。
――でも、やるしかないっ。
カツ君とガロットさんの大きな声によって、広場は先ほどまでとは違うざわめきが起こっているのは聞こえていました。けれど目だけで左右を見ると、避難が完了しているというようには見えません。
できうる限りの魔力を魔石から引き出し、わたしは右手を鐘楼にかざします。
土台近くの柱が砕け、一気に倒れてきてもおかしくない鐘楼を眺めながら、どんな魔法を使えばいいかを考えます。
――つまみ上げる?
物体を動かす魔法は、手を意識して使います。
見えない手で動かしたいものを持ち上げ、目標となる場所に動かすイメージ。
――でもそれじゃダメかも。
鐘楼がどれくらい虫に食われているかはわかりません。
つまみ上げるイメージの魔法では、もしかしたら途中から折れて倒れてきてしまうかも知れません。
ついに鐘楼の傾きが止まらないところまでになってきました。
あちこちで悲鳴が上がり、人々の走る足音が聞こえてきます。
もう考えている時間はありませんでした。
「壁よ!!」
頭の中にイメージしたのは、巨大な壁。
鐘楼の傾きに沿うように壁を想像し、大きな声で転化の言葉を唱えて魔法を発現させます。
「くっ……」
鐘楼は、止めることができました。
わたしに直接その重さがのしかかってきているわけではありません、
けれど、物体移動の魔法や、いま使っているそれに近いこの魔法は、効果を持続させている間、ずっと魔力を消費しなければなりません。その上、物体の大きさが大きいほど、重さが重くなるほど、魔力の消費量は大きくなります。
魔力の他に消耗しているものがあるわけではないはずですが、不可視の壁を強く想像する頭が、熱を持ってきているのを感じます。
魔力が底を突くのと、想像を維持するための集中力が切れるのとどちらが早いかは、わかりません。
「ひな姉ちゃん!」
離れた場所からかけられたカツ君の声に、魔法の発現が途切れないように気をつけながら振り向くと、広場にいた人は全員隅まで逃げていました。
――このままじゃ、ダメだ。
鐘楼の先端は広場の端までは届きません。
でもこのまま壁の魔法を辞めてしまえば、かなりの範囲に破片が飛び散ってしまうかもしれません。たくさんの人が怪我をする可能性はまだ残っています。
それに、広場の真ん中近くにいるわたしは、このままでは鐘楼に押しつぶされてしまいます。
魔力を右手だけでなく、左手にも流れるようにし、わたしは魔石に添えた左手を握って鐘楼へと向けました。
壁の魔法を維持したまま、わたしは叫びます。
「拳よ!」
四十五度ほどまで倒れてきている鐘楼の真ん中くらいに、わたしはいま残っているできるだけの魔力を使って、見えない大きな拳を叩きつけるイメージで魔法を発現させました。
木が砕け散る音とともに、維持できなくなった壁の魔法が解け、ふたつに折れ曲がりながら鐘楼が倒れてきます。
頭をかばいようにしてしゃがみ込んだ直後、飛び上がるほどの衝撃が響いて、石畳に激突した鐘楼から埃が舞い上がって何も見えなくなりました。
飛んできた破片が腕や脚に当たる感触はありましたが、でもどうにか、わたしのところには大きな物が飛んでくることはなく、鐘楼本体が頭の上に落ちてくることもありませんでした。
――うまくいった、かな?
舞い上がった埃が収まり、立ち上がると、上下二つになった鐘楼は、わたしから十歩ほどの距離に粉々に砕けて倒れていました。
「ふぅ……」
腰が抜けそうになる安心感とともにため息を吐いて、カツ君たちの無事を確認しようと振り返ります。
――あ……。
その瞬間、わたしに突き刺さってきたのは、たくさんの視線。
みんなの目は、安心しているようなものではなく、ただひたすらにわたしのことを見つめてきていました。
恐怖に引きつっている表情。
怒っているような燃える瞳。
見たくないと背けられた顔。
いろんな様子の人々を見て、わたしはレレイナさんに言われた言葉を思い出していました。
――そういう意味だったんだ。
街で魔法を使ってはいけない。わたしはそう言われていました。いまは、とくに、と。
魔法の存在は、昔話にも語られているため、知らない人の方が少ないでしょう。でも、魔法を実際に見たことがある人は、魔法を使える人自体がエリストーナ・フォークロアにも数人しか出てこないくらいなので、ほとんどいないのでしょう。
いま街は歪魔の噂で震え上がっています。
そんなときに魔法を使えばどうなるのか、さっきのわたしは考えている時間はありませんでした。隠れて使う余裕はありませんでした。
すぐ近くに、何かが落ちてきました。
小石、でした。
向けられた様々な色を宿した視線だけでなく、砕け散った鐘楼を背にしたわたしに、人々が一歩ずつ迫ってきます。投げられた小石が身体に当たります。
カツ君の方を見てみると、彼はガロットさんに片手で口を押さえられ、暴れる身体をがっちりと抱きしめられていました。
ガロットさんの顔には苦々しげな表情が浮かび、他の人にはわからないくらい小さく、首を横に振り、街の向こうを示すように顎をしゃくっていました。
――逃げないと。
このままここにいては、わたしがどうなってしまうのかわかりません。
レレイナさんの弟子なんだと、魔女見習いなんだと、人間なんだと叫べば、わかってくれる人もいるかも知れません。
けれどいまわたしに向けられている多くの視線には、言葉は届いてくれそうにない雰囲気がありました。
一歩二歩と後退ると、ガロットさんは頷きました。
彼の目には、他の人のような恐怖や怒りの感情ではなく、真っ直ぐにわたしのことを見つめる、静かな色を湛えていました。
――いまは、逃げるしかない。
街の人たちにとって恐怖の対象となってしまったわたしは、ここにはいられませんでした。どうにか逃げ延びて、誤解を解く時間が必要でした。
――でも、そんなことできるのかな?
わたしが街に来るようになってからはまだあまり時間が経っていません。わたしのことを知っている人はあまり多くありません。
歪魔だと思われているだろうことを、わたしにどうにかできるかわかりませんでした。
胸元に、小石が当たりました。
まだ小さな子供が投げた石でした。
激しい胸の痛みに、石ではなく、胸の内側からこみ上げてくる痛みに、わたしはそれ以上ここにいられなくて、みんなに背を向けて走り出していました。
*
日の傾きが刻々と大きくなる窓の外を眺めながら、ファルは眉間にシワを寄せていた。
地響きを伴う大きな音がしてから、もうずいぶん時間が経っていた。
何が起こったのかは外を見てもすぐのはわからなかったが、街を見渡せる四階の窓からしばらく眺めていて、気づいた。
いつも突き出た姿を見せている中央神殿の鐘楼が、消えてなくなっていることに。
鐘楼を含む中央神殿は街の中でも古い部類に入る建物で、完成まで二十年をかけた現在の街壁の建造が開始された五十年前よりさらに古い。
度々修繕もしていたが、木造であるために劣化が進み、ついに新しいものに建て直すことに決まったのが去年のことだった。
十年前に石造りに建て直された大神殿では主に街にとって重要な儀式や祭事が行われるため、人々には馴染みが薄く、比較的裕福な人が集まっている街の北側のその先、城と隣り合った北端にあるために一般人の参拝者は決して多くはない。
女神ストーナの信仰の場として、エリストーナに来て必ず通る場所と言える中央広場に位置し、多くの参拝者の集まる中央神殿の建て直しは急務のひとつ。
そんな古い中央神殿であったが、それでもいきなり倒壊するほどまでに劣化しているという報告は受けていない。前回の調査では、建て直しは必要でも、まだまだ大丈夫だと報告されていた。
何かが起こったことは確かだったが、ファルの元にはまだ報告が届いていなかった。
ノックの音に「入れ」と声をかけ、振り返ると入ってきたのはバルフェ。
「遅い」
「申し訳ありません」
幾枚かの書類を手にやってきたバルフェに、ファルは窓の側から離れて椅子に座った。
「それで、何が起こった?」
「まだはっきりとはわかっていません」
「わかっていることだけでいい。要点だけを話せ」
「鐘楼が、倒壊しました」
それは街を眺めたときにわかっていたことだったが、改めて言われて、ファルはため息を漏らしていた。
「どうして倒壊した?」
「現場が混乱していて原因についてはわかっていません。……ただ、現場に居合わせた人々の話を聞く限り、歪魔が出て、鐘楼を破壊した、と」
「ふぅむ……」
これまで噂ばかりでまったく姿を見せていなかった歪魔が現れたという話は、にわかに信じがたかった。
歪魔が街に入り込んだのが真実だったとして、噂が出て以降ずっと身を潜めていた、――身を潜める知恵のあった歪魔が、何故鐘楼を破壊したのか、理由がわからなかった。
「被害はどの程度だ?」
「比較的軽微です。鐘楼が根本から折れてバラバラに壊れてしまっているのが一番大きな被害ですが、中央神殿にはほぼ損傷はありません。怪我人などは小市で人が多かったにも関わらず、倒壊の際に飛び散った破片で軽傷を負った者がわずかにいるだけで、他の被害と言えば広場の石畳の一部を張り替えないといけないだろうことと、混乱に乗じた窃盗が発生しているくらいです。現在のところ城の兵も一部回して現場で人々の整理と現場の確認をしていますが、正直なところ混乱がひどく沈静化にはしばらくかかるかと。また逃げた歪魔を捕まえると言って街の男たちが見回りを始めています」
「歪魔は逃げたのか……。どんな姿をしていたんだ? そいつは」
「黒髪の少女の姿だったと」
「……」
バルフェの言葉にすぐに思いついたのは、ひなののことだった。
レレイナの弟子であり、魔法の素質があるというひなのなら、もしいまの歪魔の噂に震えている街で魔法を使ったとすれば、歪魔と取り違えられてもおかしくはない。
しかしそれだけでは、鐘楼が倒壊した理由が見えない。
もしひなのを歪魔と誤認しているのならばすぐに捜索を中断させるべきではあったが、鐘楼倒壊の原因がわからなければ止まるものも止まらないだろう。
「できるだけ速やかに鐘楼が倒壊した原因を調査しろ。それとレレイナ殿はなんと言っている?」
「レレイナ様は部屋におられるかと……」
「すぐにこの部屋に連れてきてくれ。話が聞きたい」
「しかし……」
ためらいの言葉を口にするバルフェを睨みつける。
バルフェはリムルシェーナに偏見を持っているように、魔女や魔法使いについてもあまり良い感情を抱いていない。しかしながらいまは歪魔が関わっていると思われる問題が発生しているからには、彼女の意見が重要であることは明白だった。
「すぐに」
報告書を机の上に置いて足早に部屋を出ていくバルフェを見送って、ファルはため息を吐いていた。
――わからないな。
歪魔とされているのがひなのの可能性があるのはわかっていたが、いまはそのことに積極的に手が出せる状況ではない。捕まれば彼女がひどい扱いを受けること、最悪殺されるかも知れないことも理解していたが、順番に対応していかなければならない事柄だと、ファルは考えていた。
一番わからないのは、倒壊の原因。
ひなのがもし歪魔とされているなら、彼女が鐘楼を破壊する理由は思いつけなかった。レレイナから聞いていた話でも、この前直接話したときでも、彼女が街に危害を加える人物には見えなかった。
ファルにも、レレイナにも正体を隠していて、ひなのが本当の歪魔だったのだとしても、鐘楼以外にほとんど被害を与えなかった理由が見えてこなくなる。
いま手元にある情報だけでは、欠落が多すぎるように思えて、状況を性格に判断することができなかった。
「何か、別の者が入り込んでいる気がするな」
椅子に座ったまま、徐々に茜色に染まりつつある窓の外を眺め、ファルは歪魔とは異なる何かが街に入り込んでいる予感に、眉根にシワを寄せていた。
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