第一部 第四章 月下の追跡 3


       * 3 *


 抜け道の出口から少し離れたところに流れている水路は、エリストーナにとって最も重要な水源になっています。

 他にも何本か街に水を引いている水路はありますが、元々あった川に手を入れて水路にしたという北水路の流れは太く、深いため水量が多く、ここにもし何かがあれば街に流れる水に大きな問題が発生します。

 かなり高く昇った大月ラタトアと、その妹女神とされる速度の速い小月ラタータが照らす夜道を、わたしは北水路に沿って走っていました。

 水路に沿って草が生えていたり、時折街路樹のような木が生えている脇には、細いですが土が剥き出しになっている道があります。この道はストーナル河まで続き、そして水路と河をつなぐ地点には、大きな水門があると聞いています。

 春と言っていい時期のいま、横目に見える水路は流れこそゆったりとしていますが、ストーナル河には山から流れてくる雪解けの水で流れも、水量も夏より増えているらしいです。

 そんなときに水門を壊されてしまったりしたら、街にどれほどの被害が出るのか想像もできません。

 ファル君に伝えておけば、と今更ながらに思いますが、もうわたしは走るしかありません。

 たぶんわたしが見たことがない落ち着いた声の人が水門までたどり着いたら、もうどれほども時間がないはずです。

 体育の時間でもこんなに急いだことはなかったと思うくらいずっと走り通しで、やっと見えてきたストーナル河の煌めき。

 ラタトアとラタータの光があってもよくは見えませんが、水門は石と木でできたとても大きなもので、体育館の正面扉よりも大きな板がたぶん二枚あって、一枚が水を通すために上がっているのが見えました。

 その脇にある小屋のところには、人影がありました。

 ――まだ、間に合う!

 もつれそうになる脚を一所懸命動かして近づくと、縛られているらしい人影がふたり、小屋の脇に転がされていて、それからもうひとり、黒い服を着ている人が、小屋の脇に立っていました。

「これ以上近づくな!」

 わたしに気づいたらしい男の人は、腰に差した剣を抜いて、転がされている人に突きつけました。

 あと一〇歩ほどの距離で、わたしは立ち止まらざるを得ませんでした。

「お前は何者だ!」

「わたしは……」

 答えようとして、なんと答えていいのかわかりませんでした。

 名前を名乗ればいいのか、レレイナさんの弟子の魔女見習いであると答えればいいのか、異世界から来た漂流者であると答えればいいのか、それとも、人間と答えればいいのか、わかりません。

「その格好……。お前があの歪魔か」

 熱くなって途中で脱いだ外套の下は、いつもの格好でした。

 白い革のエプロンも着けているわたしの姿は、たぶん街でいまも探している人がいるのでしょう。

「人間にしか見えんな。まぁいい。どうせなら俺と来ないか? 歪魔だという噂が立ったら街には居られないだろう? 悪いようにはしないさ。ここを離れて、旅をするようになるだけだ」

「旅を?」

 確かに、歪魔だとされてしまったわたしは、これ以上街には居られないかも知れません。

 レレイナさんにはとてもよくしてもらいましたが、これ以上はあの人に迷惑を掛けるばかりなのではないかと、思えました。

 それに、レレイナさんは元の世界に戻る方法を知らないと言っていました。

 そのときにも言われたように、旅に出て、遠い場所で探せば、もしかしたら元の世界に帰る方法も見つかるかも知れない、とも思えました。

 軽く握った拳を胸元に当てて、少しうつむきながら、わたしは返事に迷っていました。

 正体もわからない人に着いていくのは危険なのはわかっています。でも、街に居られずに旅に出るしかないのであれば、まだひとりよりもマシかも知れないとも思えました。

 でもそれよりも、いまわたしには重要なことがあります。

「……もし、もしわたしが一緒に行くと言ったら、水門を壊すのをやめてもらえますか?」

「それはできない。一度受けた仕事はやり遂げなければならない。金印を奪うのには失敗したが、途中で投げ出すわけにはいかない。そういう取引がしたいわけじゃない。先にやることだけは済ませておこう」

 言って腰に吊した袋か取り出した丸い玉。

 剣を捨てて左手に持った球から伸びた紐に、男の人が右手を近づけると、火花が上がりました。

「やめてください!」

「うるさい! これで街は水浸しになり、南の畑は全滅だ!」

 走り寄って奪おうとしますが、わたしが手を伸ばしたときには導火線に火が点いたその玉は、暗い水路の中へと投げ込まれ、沈んでいってしまいました。

 すぐさま水路の縁まで行って覗き込んでみますが、ふたつの月が昇っていると言っても、水深のある水路の中は暗く、玉がどこにあるのかは見えません。

「無駄だ。あれは水の中でも爆発する。これで水門は終わりだ。逃げるなら早く――」

「うるさい!!」

 わたしの腕をつかんでくる男の人の手を振り払い、振り向いて睨みつけます。

「わたしは……、わたしはこの街が好きです。エリストーナのことが好きですっ。カツ君にも、ガロットさんにも、エルナちゃんにも、ファル君にも、悲しい顔をしてほしくありません!!」

 ひるんだように後退った男の人から、水路へと目を戻します。

 左手の指を胸元のブローチにはまった魔石に添え、開いた右手の平を水路の底へ向けました。

 少しは溜まってきている魔力は、でも充分な量ではありません。二度も三度も、魔法を使っている余裕はありそうにありません。

 ――助けて、誰か……。もし、もし神様がいるなら、女神ストーナがいるなら、わたしに力を貸して!

 心の中で必死に祈りながら、わたしは暗い水路の奥底をじっと見つめます。

 ――あれは?!

 祈りに応えてストーナが助けてくれたのか、わたしは水門の板のすぐ側に微かな光を見いだしていました。

「手を!」

 大きな手を思い描いて、わたしは光を見つけた場所に魔石から引き出したわずかな魔力を注ぎ込みます。

 一瞬のことではっきりした場所がわからなかったので、光った場所の水ごと、水路から引き上げました。

 もうこれほどの魔力が溜まっていたのか、人ひとりがすっぽりと入ってしまいそうな水の玉が宙を浮き、頭上にかざした右手の上に留まっていました。

 水の玉の中を見てみると、導火線に火がついたままの爆弾が、確かにありました。

「ちぃっ」

 舌打ちの音とともに、男の人が剣を拾ってわたしに走り寄ってきました。

 ――逃げられないっ。

 思って目をつむったときに聞こえてきたのは、知っている人の声でした。

「そこまでだ!」

 目を開けてみると、立ち止まった男の人の剣を自分の剣で跳ね飛ばしていたのは、ユーナスさん。

 月明かりの下でもその白さがよく見える鎧を身につけたユーナスさんは、他の兵士の方に指示をして、男の人を捕らえていました。

 ――これで、もう大丈夫だ。

 気が抜けそうになるのを堪えて、もうほとんど残っていない魔力を途切れさせないよう集中を続けます。

 早く安全なところに水の玉を下ろさなければなりませんでした。

「この者も捕らえよ! この空を飛ぶ水……、件の歪魔と思われる奴だ!」

 そう言ってユーナスさんは右手に持った剣をわたしに向けてきていました。

 ――なんで?

 整った顔立ちのユーナスさんの目が、わたしに向けられていました。

 その目はこの前兵舎で休ませてくれたときの優しいものではなく、まるで恨みがあるかのように、月明かりの下で青く光ってわたしを射貫いていました。

 ユーナスさんはわたしのことを知っています。

 レレイナさんの弟子で、魔法を使えることも、ユーナスさんには話していることです。

 夜とは言え、いまの明るさで、この距離であれば、わたしの顔がわからないなんてことはないはずでした。

 それなのになぜ彼がわたしのことを歪魔だと言うのか、わかりません。

 ――何か勘違いをしている? それとも、疑いがあるから捕まえるだけ?

 ユーナスさんがどう考えているのかはわかりませんが、彼がわたしを見つめてくる目には、何か危険なものを感じていました。

 ――そんなことより!

 まだどうにか宙を浮かせられている水の玉を振り仰いでみると、いまちょうど導火線の火が、爆弾の中に入っていくところでした。

「みんな離れてーーっ!!」

 言い終えることができず、爆弾が爆発し、その圧力はわたしの魔法を吹き飛ばしていました。

 霧ほどに細かくなった水しぶきで、辺りは真っ白に染まって何も見えなくなりました。

 ――わたしはこの後、どうすれば……。

 このままここに留まって、ユーナスさんに捕まってお城で話をした方がいいのかな、と思っていたとき、目の前の霧が揺らぎました。

 危険を感じて反射的にしゃがんだ頭上を通り抜けていったのは、白刃。

 濃密な霧を斬り裂くように現れたのは、ユーナスさんでした。

 地面に転がるようにして逃れたわたしを見下ろしてくる彼の視線は、怒りとも違う、強い恨みが籠もっていました。

 ――勘違いじゃない!

 それを感じ取ったわたしは、這うようにその場所から離れ、立ち上がって走り出します。

 ――このままじゃ殺される!

 微かな舌打ちの音が聞こえたような気がして、わたしは振り向くこともできずに霧の中を抜けて木立の影に隠れるようにして走り続けます。

 ――なんで、ユーナスさんがわたしを殺そうとするの?

 わかりません。

 何もわかりませんでした。

 とにかく彼がわたしのことを殺そうとしていて、彼の側にいてはいけないことだけはわかりました。

 ぐちゃぐちゃで何もわからない頭を抱えながら、わたしはがむしゃらに走り続けていました。


          *


 小月ラタータの駆ける足は速く、姿を見せたと思えばすぐに天頂へと上り詰め、西へと逃げ去っていく。

「はぁ……」

 西に傾きつつあるラタータを振り仰ぎ、カツはため息を漏らしていた。

 ひなのを隠し通路の入り口で見送った後、少しの間待っていたが彼女が出てくることはなかった。一度家に帰り、隠れている間にお腹が空くだろうことを考えて、木工小屋に食事を持って行って、そこでもしばらくひなのが来ることを期待していたが、やはり彼女は来なかった。

 おそらくガロットはカツが帰ってくるまで起きているだろう。次は朝に行くことを考えて帰ろうと、彼はいつもより兵士の数が多い北門で名前を告げて通り抜ける。

 ひなのの家に向かっているときにはたくさんの人が走り回っていたが、歪魔の捜索もとりあえず落ち着いたらしい。人々の声も、足音もいまはなく、いつもは足を踏み入れることのない大きな建物の多い北の街並みを、カツは家に向かって歩いていた。

 ラタータとラタトアの月明かりの下、寝静まった街には人の気配も、生活の音もほとんどない。

 人とすれ違うこともなくひとり街を歩くカツは、空を仰ぎながらひなののことを考えていた。

 ――ひな姉ちゃん、大丈夫かな。

 自分自身が追われているというのに、いくら領主を助けるためとは言え、自分から城の中に潜り込むひなののことが、カツにはよくわからなかった。

 歪魔は見つけ次第退治するものと決められている。人であるひなのがいきなり殺されるかどうかはわからなかったが、歪魔だと思われているからにはそうなってもおかしくはない。

 どんなことをひなのが考えているのか、考えてみても、カツにはわかることではなかった。

「でも、ひな姉ちゃんは、そういう人なんだろうなぁ」

 少し前にカツが高い熱を出して倒れたとき、医者にもレレイナにもどうすることもできなかった。それをひなのが探してきてくれた薬草で、熱を下げることができた。

 熱で頭がボォッとしていたが、あのときひなのが服も顔も泥だらけにして、摘んできた薬草を手に駆け込んできたのを憶えている。

 そのときのひなのは、泥で汚れていたのに、カツには輝いているように見えた。

 むやみに口に出さないよう言われている救いの聖女、リムルシェーナに思えた。

 あのときまでほとんど話したことがなかったカツのために、どうして泥だらけになるまでひなのが必死になれたのかはわからない。けれど彼女は、誰かのために必死になれてしまう人なんだろうと、カツはまだ東の空に留まっているラタトアを仰ぎながら考えていた。

 そんな彼女だからこそ心配だったし、無茶なことは止めたいと思ったが、一度やると決めた彼女のことを止めることができないことも、カツには何となくわかっていた。

 空に向かってため息を漏らしたとき、後ろから馬の足音が近づいてきた。

 危ないと思って道の端に避けたが、何頭かの馬がカツの前で止まった。

「君は、確か……」

 馬から下りてきたのは白い鎧を身につけた兵士。いや、正騎士ユーナスだった。

「ひなのと一緒にいた木工屋の子供か」

「ユーナス様?」

「お前たちは先に行け。そいつを連行して城に報告をするんだ」

 兵士のうちのひとりの馬に縛られて乗せられているのは、身体の大きい男のようだった。ユーナスの指示で、兵士たちは走って行った。

「こんな夜遅くにどうした? 子供がひとりで街を歩いていていい時間ではないぞ」

 笑顔を見せて近づいてくるユーナスに、カツは走り寄る。

 彼は少し前にひなのを助けてくれた人だった。ひなのも彼のことを知っているようだった。

 ――ユーナス様なら、ひな姉ちゃんを助けてくれるかも!

「もし知っていたら――」

「ひな姉ちゃんを助けて!」

 身体を屈めてきたユーナスにそう訴える。

「ひな姉ちゃんは歪魔に間違われて追われてるんだ! でも本当は、倒れてきた鐘楼からオレたちを守ってくれただけなんだ! だから……、だからひな姉ちゃんを助けてほしいんだ!!」

「そうか、そうだったのか」

 優しく頭を撫でてくれるユーナスの手に、カツは安心することができた。

「君はひなのがいまどこにいるのか、知っているかい?」

「もしかしたらいま頃、親父の木工小屋に向かってるかも知れない」

「詳しい場所を教えてくれ」

 訊かれてカツは、木工小屋の詳しい位置を教えた。

「わかった。ありがとう。ひなののことは私に任せてくれ。必ず助けに向かうよ」

 少しうつむき、優しさに満ちたユーナスの目がカツからは見えなくなる。

 ――え?

 まだ見えている唇の端が、歪んだようにつり上げられて見えて、カツは声には出さずに疑問を感じていた。

「安心していい。このまま私はひなのの元に向かう。もう夜も遅い。君は家に帰っていなさい」

「う、うん……」

 カツの頭をぽんぽんと軽く叩いて顔を上げたユーナスの顔は引き締められていて、先ほど見えた嫌な感じの笑みはない。

 けれどカツには、先ほどの笑みを忘れることができなかった。

「さぁ」

 促され、家へと向かって歩き始めるカツ。

 振り向くとユーナスは馬にまたがり、来た道を戻って北門へと向かっていた。

 ――大丈夫だよね、ひな姉ちゃん。

 北門を抜けていくユーナスのことを見ながら、カツは胸にわき上がってきた不安を打ち消すことができなかった。

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