第37話 彼らは意外にも常識的である

 つむじ風をも巻き起こす主の斬撃が走った。

 空間さえも断裂してしまいそうな程に鋭い閃光が一瞬白く視界を染め上げる。

 世界の色が元に戻った時にはガ・エルの首と、グァルプの手首が宙を舞っていた。

 そして、虚空を刻む残光は太陽を思わせるほど朱く、主の斬撃で生まれたつむじ風は炎の渦へと姿を変えて、グァルプとガ・エル、二体の魔人を飲み込んだ。


「舐めやがって」


 一撃で二体の魔人に手傷を負わせるという歴史的快挙にも関わらず、主の口から出たのは屈辱感だった。

 忌々し気な主の視線を追って、目を凝らして炎の渦の中を覗き込むと、グァルプは首の無いガ・エルの上半身を無造作に投げ捨て、薄ら笑いを浮かべていた。炎の中で身動きを取らないのが、やせ我慢でないことは吾輩でも分かる。


「流石は異界の純粋種だ。八雷神の加護を手厚く受けた上位モデルのオウラノでも、この威力は中々出せるものではない。この星が真の意味でオウラノの物ならば、この星を貴様の物にする事とて出来たであろうよ」


 グァルプの口ぶりは、本当なら既に、この星を掌握できていた筈なのに、たった十九人しかいない同胞の意思すら統一出来ていない苛立ちと、そのせいで七千年もの間、停滞に停滞を重ねる事しか出来なかった言い訳をしているように思えてならなかった。

 だから主の力を認める言動をする一方で、主の力でも何も出来ない事を予期したのは、『何故ならワタシが出来ていないのだから』と自らの言い訳を幾重にも補強する意図があるのだろう。


 だが――


「諦め癖で七千年サボってた奴等に言えた事かよ。俺が行く道の踏み台になれるかどうか……それがてめェの器だ。今度こそはなんて言葉は好きじゃねェが、今度こそ殺してやる」


「大した自信だな、倉澤蒼一郎よ。一見すると貴様の力の増大には限界が無いように感じるが実際は違う。貴様は我々を人間の一個体として認識しているから、ルカビアンが圧倒的な力を見せ付けようとも人間の所業と認識し、同じ人間に出来るなら自分にも同じように出来るのが道理だと自己認識を改革させているに過ぎん」


「莫迦が。んな事ァはどうだって良い。俺が強かろうが弱かろうが関係ねェ。俺が殺すと決めた。だからてめェは俺に殺されるんだ。それ以上でも、それ以下でもねェ」


 ――グァルプは自らを人間と定義し、主のことも人間だと認めているからこそ、主とルカビアンの間にイデオロギーの差異がある事に気付けていない。

 現代日本の社会を知っている吾輩からしてみれば、ルカビアンの十九魔人を現代日本風に言うなら意識高い系の人だ。もしくは自分のことを意識が高いと思い込んでいる人。

 決して意識が高いわけでは無いから言い訳ばかりして何もしない。それどころか、何もしない事の言い訳を正論だと妄信して、他人さえも巻き込み引きずり込む。

 それに引き換え、主はやるべき事はやるし、いざという時は頼りになる。

 逆に言えば、自分がやらなくても良いなら怠けるし、いざという時にならなければ到底頼れる人間ではない。良く言えば、物事の取捨選択のバランスの取り方が上手い。だから後悔しないし、言い訳もしない。

 悪い言い方をするなら、何も考えていない意識低い系だ。

 意識高い系のグァルプと、意識低い系の主。同じ言葉を交わしていても、言葉の解釈の仕方も違えば、用途も対応も変わる。


 ――だから、敵となる。


 主が地を蹴り、自ら生み出した炎の渦ごとグァルプの身体を一刀両断にする。

 レーベインベルグの切っ先は、まるで豆腐を切るかのように何の抵抗感も無く、グァルプの頭蓋に食い込み、拍子抜けするほど容易く、股下へと通り抜け、真っ二つになった身体は呆気なく崩れ落ちた。主が切り飛ばした手首と一緒に。


「何を勿体つけていやがる。てめェらがこの程度で死ぬタマかよ。自殺願望ならこのまま縊り殺してやるから大人しくしてろ」


 脳を破壊されて尚、不気味な笑みを浮かべるグァルプの姿に違和感を覚え、空を見上げる。ガ・エルの首はどうなった? グァルプの手首が落ちてきたのなら、ガ・エルの首だって落ちてくる筈だ。

 吾輩の不信感を皮肉るかのように、グァルプの断面から伸びた触手が結合し、ガ・エルの首が形作られていく。殺した相手の魂を複製する能力によるものだ。ガ・エルがグァルプに殺されたことを意味する。しかし、主の剣は間違いなくガ・エルの首を斬り飛ばした筈だ。


「意外と常識的な判断をするじゃないか、倉澤蒼一郎。心臓を貫いた? 脳を破壊した? 首を斬り落とした? 我々ルカビアンがその程度で殺せるとでも思ったか?」


 一刀両断にされたグァルプが平然としていられるのなら、ガ・エルが首を刎ね飛ばされても死なないのは当然。結果的に主の攻撃はグァルプのガ・エル殺しを手助けしたようなものだった。だからと言って、主が動揺する筈も無いのだが。


「だったら細切れにして焼き払うまでだ。細胞の一欠片に至るまで灰にしてやれば死ぬだろ。それでも死ななきゃ別のやり方でぶっ殺す。実際に討伐事例があるんだ。だったら俺に殺せない筈がない。しかも、復活するのに二百年以上の歳月を必要とする不完全な不滅。世間で言われている程、完全無欠でもねェ」


 切断されたグァルプの半身から溢れ出る触手の数が増え、更に膨張と結合を繰り返し、巨大な肉の塊へと変貌する中、ガ・エルの首は巨大な胎児に姿を変えた。


「この姿を見ても、まだ我々が人間だと認識できるか?」


 ――成程、嫌な手を使う。


 魔力や神の加護に依存する事無く、科学的、生物学的限界を圧倒的に凌駕する力を持つ主は日本の現代社会に適応する為に、力を封じて普通の人間を装って生きてきた過去がある。

 過去から続く悪癖のせいで主は全力の出し方も知らなければ、己の限界も知らない。

 魔人たちがルカビアンという人種の人間であるという認知が、彼らの圧倒的な力を現実の現象として受け入れ、人間には思っているよりもずっと凄い力が宿っていることを知り、認識を増大させる。

 それがガ・エルと殺し合っている最中に、主が力を変革させ続けた原因だ。

 だとすれば、ルカビアンは人間ではないと認識させれば、これ以上の力の革新を起こせなくなる。

 どれ程、主に舐め腐った態度を取っていようとも、恐怖心にも似た強い警戒心を隠し切れていないように思えた。奴の言葉を引用するなら『意外と常識的な判断』だ。

 グァルプは自分が無計画な賭けに出たという自覚が無いのだろう。主が人間は化け物にだって変身出来るものなのだという認識を持たせ、変身能力を持ってしまう可能性は十二分にある筈だが――常識的な思考をしているが故の判断なのだろう。


「莫迦が。センスの欠片も無い悪趣味なガワを被ったってだけで、てめェらの本質が変わったってわけじゃねぇだろうが。何度も言わせるな。俺が殺すって言ったんだ。殺すって決めたんだ。だから、さっさとくたばりやがれ!!」


 荒々しい言葉とは裏腹に剣閃の残光は三日月を思わせるほど流麗で、どんな化け物じみた異形であろうとも主の斬撃を阻むことは出来なかった。

 だが、ガ・エルと真っ二つにになったグァルプの口から出たのは絶叫でも驚愕でも無く、ハモる哄笑だった。


「どうした、倉澤蒼一郎よ。体力が戻らんか? 血が足りぬか? 随分と精彩を欠く斬撃では無いか。一閃して終わりか? それで終わりなら今度は此方の番だな」


 巨大な胎児と化したガ・エルの口腔に今まで見た事も無ければ、感じた事も無い程の膨大な量の魔力と尋常では無い殺気が収束されていく。今となっては奴もグァルプによって複製された傀儡。矜持によって封じられていた本当の力を遺憾なく発揮しようとしているのが見て取れた。

 今、正に放たれようとする魔力の奔流に対し、主はガ・エルの顔面を蹴り上げ軌道を逸らす。収束された魔力光の束は容易に岸壁を切り裂き、空さえも貫いた。

 強いて言えば、灼熱の炎ドラゴンブレスに似た光景だが、比較にもならない程の濃密な殺気に、思わず吾輩の尻尾が股間を巻き込んでしまう。

 人間一人を殺すには過剰な威力だが、グァルプがどれだけ主を脅威に感じているかの裏返しでもあった。矢張りこの男、警戒心が強い。


「外れだ、莫迦。じゃあ、次は俺の番だな」


 主がレーベインベルグの柄を両手で握り込み、肩で担ぎ上げ、狙いを澄ますかのように姿勢を低く構え、鋭く踏み込み肉薄し――グァルプは、その姿からは想像も付かない程、機敏に間合いを広げる。触手の花畑と化したグァルプの巨体に埋まるガ・エルの口腔に再び魔力が収束されていく。

 主の踏み込む速さよりも、僅かに奴の方が早い。あの出鱈目を極める魔力砲の軌道を逸らせず、両サイドの岸壁のせいで有効範囲の広い攻撃を躱す術はない。


「攻撃に順番などあるわけがあるまい? 考えが足りんな」


 主の眼前に魔力の束が迫る。万事休すか――吾輩の危機感とは裏腹に主は速度を緩めることなくレーベインベルグの切っ先を突き出す。漂う気配と匂いから自暴自棄では無いのはすぐに察することができた。

 信じ難い事に、岸壁を切り裂き、天をも穿った魔力砲を貫き、防ぎ切れるという確信が主に自然体の一撃を繰り出させていた。

 その一撃は確かに魔力の結合を破壊したが、破裂した魔力の残骸が岸壁を破壊して地滑りが起こったかと思えば、魔力を内包し、触れる物全てを切り裂く竜巻が発生し、更には魔力の残骸が花火のように飛び散り、規則性のない魔力の暴走が主に襲いかかる。それら全てを難なくやり過ごす。

 安全地帯探しに吾輩が難儀している間に、間合いを詰めた主が横一文字の薙ぎ払いでガ・エルごとグァルプの巨体を切り裂いた。


「別に一対二で負けるとも思わんが、その鬱陶しいガ・エルの生首を叩き落してやる」


 大きく跳躍した主が、巨大な胎児と化したガ・エルの肩に着地して斬撃を落とそうとすると、拳大程もある鋭い爪が付いたグァルプの触手が主の顔面に打ち込まれる。

 刀身を盾にして防ぐも二発、三発、四発と打ち込まれ、五発目で体勢を崩し、足を滑らせ身体が宙に浮いたところで六発目の触手が主の顔面を打ち据えた。

 鋭い鉤爪が付いた触手だ。貫通し、目や脳味噌をぐちゃぐちゃにかき回されたかも知れない。吾輩の常識的な心配と、凄惨な攻撃手段は裏腹に、主は岸壁に叩き付けられた。

 一見、槍のように鋭い刺突攻撃だったが、主の姿を掻き消す程の大量の砂埃が舞い上がり、衝撃の激しさは打撃と呼ぶに相応しい。

 砂埃が巻き上がる一瞬前、主の眼球は潰れておらず、しかも顔から血の一滴も流れていないのは確認できた。面の皮が厚いなんてレベルではないが、一先ず安心だ。

 更に吾輩の安心を後押しするかのように砂埃を貫いて、主が飛び出す。レーベインベルグを構える両手には、しっかりと力が籠っている。


「本気でワタシに勝つつもりか? 傲慢さだけは一人前だな!」


 撤退する素振り一つ見せない主の姿にグァルプの声色に含まれるのは嘲弄だけでは無かった。僅かな苛立ち、そして更に僅かな困惑が明らかに滲んでいるのが見て取れた。

 だからだろうか。カウンター気味に触手を再び顔面に打ち込まれ、その衝撃の激しさから吾輩が吠えると主が軽く首を反らし、紙一重で躱して「大丈夫」と言う以上に、グァルプが歯噛みする気配を感じ取ることが出来たことの方が吾輩の安心材料に繋がった。

 明らかにグァルプの計算に狂いが生じている。

 主は自らの限界――と言うよりも人間の限界を知らず、魔人をその指標にしようとしているから、グァルプは複製した魂で再現したガ・エルと共に化け物の姿になった挙句、合体までやってのけた。主の力の自覚と改革、革新がこれ以上、起きる筈が無い。奴はそう読んだし、吾輩もそれが主の弱点だと考えていた。しかし、結果はこれだ。


「臆病者らしい言い草だな。てめェが逆の立場なら俺と同じ事をすると思ったんだが、どうやら俺の買いかぶり過ぎだったな。人間の可能性ってのは無限大なんだが知らなかったのか? ああ、知るわきゃねェか。てめェは人間じゃねェしな」


 人間である事の否定。それは魔人に対するアイデンティティの否定だ。

 オウラノは人間では無く人工生命体で、ルカビアンは魔人では無く人間。

 その意識から生まれたのがヒトモドキという蔑称。


 しかし、主の言動は罵倒だけでは無く――


「それとも人間じゃないのは見た目だけか? お前の心は強靭な人間か。それとも脆弱な化け物か。どっちだ?」


 主の宗教観に照らし合わせるなら、神も化け物も等しく人間が生み出した絵空事。人間こそが造物主。それは上位の存在に見守られ、手を差し伸べられ、導かれ、救いを得られるという期待や甘えの一切を許さない。善きに流れるにしろ、悪きに流れるにせよ、それら全ては自らの意思で選択しなければならない。だからこそ人間は強く、選択の結果、地べたを這いずり汚泥に塗れ、赤貧に喘ぐ事になろうとも強くあろうとしなければ人間ではないという哲学が主にはある。

 主の意思が込められた魔力の拡散により、主の思惟を受け止めたグァルプは痛い所を指摘されたらしく、問いかけに二の句が継げないどころか、その動きを完全に止めてしまった。

 直接攻撃よりも効果的に突き刺さる精神攻撃。主からしてみれば、手足は忙しくとも口は暇なので、適当に罵倒して逆上させる事が出来れば、集中を乱すことが出来るかも知れない程度の期待でしかなかった筈だ。

 偶然生まれた隙を主が見逃す筈も無く、三角飛びの要領で壁面を縦横無尽に飛び交い、グァルプの頭上を取るとガ・エルの頭頂部めがけてレーベインベルグを投擲。串刺しにすると爆炎を召喚し、その反動で素早く地面に着地してガ・エルの眼球に拳を突き入れ、引き抜く。


「一対二に見せかけた一対一。フツーのタイマンだな」


 魂の複製によって再生されたガ・エルに自我は無く、グァルプの操り人形だ。何の矜持も無いから最大出力で魔力砲も放てるが、その制御はグァルプがやっている。

 超至近距離から肉弾戦でグァルプは二つの身体を平行して操っているようなものだ。

 そのせいでグァルプの触手は主に有効打を与えられているもののガ・エルの方は一呼吸分、反応や動作が遅れ、攻撃の全てが対応されてしまっている。グァルプは荷物を抱えて戦っているようなものだ。如何にルカビアンの十九魔人とは言え、主を相手するには致命的だ。数万数十万の帝国軍相手なら、それも通用しなのかも知れないが。

 それを悟り、屈辱的な事実を受け入れたらしくグァルプが二呼吸早く動く。恐らく、主の予備動作から先読みしたのだろうが、暴力や殺し合いにかけては主の方が一枚上手だ。

 グァルプの心理や感情、そして何より本能的な先読みで読み合いに打ち勝った主は見当違いな方向に攻撃を誘引し、自らは悠々とグァルプの無防備な巨体に精霊弓を撃ち込む。グァルプの身体から火の手があがった。

 触手を鞭のように撓らせ主に叩き付けるも、身体を逸らし、飛び退き、姿勢を低くして連撃を凌ぐ。歯噛みするグァルプの唸り声が漏れる。

 奴にも自覚が生まれたのだろう。触手攻撃が見切られつつある。躱すだけでは無く、槍の様に鋭く突き出された触手が遂に主の鉄拳で弾き返された。

 一本だけではない。次々に打ち込まれる触手の数々を全て殴り返したのだ。

 面の皮の厚さだけではない。拳まで鋼のように固くなっている。グァルプの力を目の当たりにして力の革新を引き起こしたのではない。出来そうだからやった。やったら出来た。そんな乱雑な論理が主の身体を再構築しているように思えてならなかった。


「どうした? 情けねぇな。不滅の魔人の力はこんなモンかよ」


 触手を束ねて掴み上げ、投げ飛ばそうとして、新たに生えた触手が主の背中に突き刺さる。そりゃそうだろと柴犬ながらに呆れるが、背骨の損傷は不味い。心配しかけて――主の拳がグァルプの巨体に爆発と共に突き刺さる。主の背中に刺さった触手は決して深くない。主の背骨が破壊できずに四苦八苦する触手が身体に巻き付き、何度も地面に叩きつける。

 そして、グァルプの巨体が飛び跳ねた。そのまま主を踏み潰す気だ。

 身体を捩り、避けようとする主の姿を落下の衝撃によって生じた砂煙が隠した。


「いっ……てぇ、な!!」


 主がガ・エルの顔面を膝蹴りで貫く。右手には、それまでガ・エルに突き刺さったままのレーベインベルグがあったが、左腕は肩口と肘から先が明らかにおかしな形に捻じ曲がっていた。

 複数個所の骨折を痛いの一言で済ますのもどうなんだと思ったが、全身から魔力光を走らせる主の斬撃は防御姿勢のグァルプの巨体をゴルフボールのように吹き飛ばし、壁面に叩き付ける。壁全体に亀裂が走り、土砂崩れと共に追撃する主に触手が殺到するが、その全てを斬り飛ばす。主の動きを緩めることすら出来ない。

 眼前に押し寄せる触手を真正面から飛び込み、僅かな隙間に身体をねじ込ませて、眼前に躍り出た主が剣閃を走らせる。グァルプがカウンター気味に触手を撃ち込む。狙いは折れた主の左肩。

 深々と刺さって血肉と骨が飛び散るが、重要な臓器への損傷は小さいようで主の斬撃は止まらずガ・エルの首を切り落とした。


「決死の一撃のつもりか? 貴様が斬ったのは、ガ・エルの魂を複製して作ったワタシの端末の一つでしかない。ワタシには何の痛痒も感じられない」


「何言ってんだ、テメェ。記憶力ゴミかよ。そのでけェ首、鬱陶しいから叩き落してやるって言っただろうが。そんで、テメェをぶっ殺すのは今からだ」


「その満身創痍の身体で何ができる?」


 グァルプが含み笑いを漏らす。額は割れ、左腕も砕け、背中も裂けている。

 確かに満身創痍だ。絶体絶命だ。奴からしてみれば、血達磨となった姿でレーベインベルグを突き付ける主の姿を見ても、ただの強がりにしか思えないのも無理はない。


「満身創痍? ほんッッッッとうに、てめェはクソ雑魚メンタルだな。てめェにとっちゃ今すぐ逃げ帰りたくなるような致命傷なんだろうが、俺とてめェは今、何をやっている。殺し合いだろうが。この程度のかすり傷で逃げる? 諦める? どう考えたって損切のタイミングじゃねェだろうが。勿体ねェ。安かねェんだよ、てめェの命は」


 矢張り、そうだ。主はグァルプの命を狙い、感情任せの罵詈雑言を吐き散らかしながらも、ある一定の敬意がある。敬意があるからこそ罵倒の中には失望が込められている。そして、その言葉は前時代じみてパワハラ的だが、確かに奴の心を奮起させようとする意図があるように思えてならなかった。今から殺す相手にそんな事をして何になるという話だが、多分、深い考えは無いと思う。

 吾輩はヴァルバラからルカビアンの十九魔人の本質という物を聞かされているが、主は違う。何も知らない筈だ。あの時、盗み聞きをしていたのでは無いのだとしたら、ライゼファー、ヴァルバラ、ガ・エル、グァルプが口にした言葉や態度から類推したのだろう。

 主は吾輩のような天才犬と違って、頭を使うことを不得手としているが、戦闘中に限れば妙に頭と勘が働くところがある。命の奪い合いという極限状態が脳の血流量を増やし、思考を加速させ、彼らが抱える葛藤に口出しせずにはいられなくなったのかも知れない。


 ――今、この場で殺す敵が相手であろうとも。

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