第21話 帝国の礼服はアレである
朝になり、主の足の上で目を覚ます。
人の気配がする。柑橘と薬草、鉄と火の匂い。カトリエル女史の匂いだ。
それに何か美味そうな匂いがする。
主を前足で叩き起こすことにした。
昨日は一日中戦いっぱなしだったせいか眠りが深いようで、一発二発叩き込んだ程度では微動だにせず、一定のリズムで寝息を立てている。
仕方がない。主は後回しだ。ベッドから飛び降りて、寝室のドアを押し開ける。
採光できる窓がない為、一階に続く階段は真っ暗だが、カーテンを開けることを思えば、まだ楽な方だ。
恥ずかしい話だが、吾輩がやるとカーテンを開けると言うよりは引き千切ることになってしまうのだ。
いや、別に恥ずべきことでもないか。人間ですら得手不得手の一つや二つあるのだから吾輩にも得手不得手があって然るべきなのだ。
一歩一歩、慎重に――と言う程ではないが油断なく、そしてテンポ良く階段を降りて、二本足で立ち上がり、玄関のドアを開ける。昨晩、すっかり忘れていたようで鍵はかかっていなかった。不用心だが、まあ不法侵入した奴が死ぬだけなので、無施錠でも問題は無いのかも知れない。
玄関の軒先には両手で鍋を抱えたカトリエル女史が所在なげに立ち尽くしていた。
「あら、あなた……えっと胡桃さんよね? あの人は……まだ寝ているのかしら」
尻尾を振りながら、くしゃみをする要領で首肯して、彼女の足元をぐるぐる回って歓迎のあいさつだ。
ノックもしてもいないのに、吾輩が気配を感じてお出迎えに現れたのを彼女はすごく驚いている。
サプライズ成功だ。朝から実に気分が良い。日本にいた時もこうして来客と眠りから覚めない主を幾度と驚かせたものだ。
「まだ寝ていたら悪いと思って待たせてもらっていたのだけれども、入っても良いかしら」
千切れる勢いで尻尾を振り、鼻先で彼女の脛裏を押して中へと促す。
「ちょっと、くすぐったいわよ」
それはそうだろう。主も声を裏返らせてくすぐったがるので、よく知っている。
「ぐっすり眠れたみたいで良かったわ」
テーブルの上に鍋を置いたカトリエル女史が出窓を開き、外の光を採り込む。
「あなたたちは枕やベッドが変わっても平気みたいね」
彼女のような人が言うには、あまりにも幼稚な発言が飛び出した。吾輩が人間だったら噴き出していたかもしれない。
「それにしても……」
カトリエル女史が吾輩の顔をしげしげと見つめる。
柴犬の中の柴犬。超絶イケメンの雄犬。それが吾輩だ。好きなだけ刮目すると良い。
「あの時の召喚術師は使い魔と言っていたわね。ここじゃ幻獣使いなんて呼ぶ人もいるけど……でも、あなた動物よね? 知能が高すぎて、動物とは思えないのだけれど」
ご明察。しかし、これは吾輩の懸念が的中してしまったことを意味するのだろうか。
「文明の発展により生活が豊かで便利になるにつれて、人間は進化の必要性を失い、技術の進歩に合わせて人の精神は洗練されるかと思いきや逆に劣化していった。その一方で動物は高度な人間社会に触れたことで意識の変革が起こり、高い知能と気高い精神を宿し、人間との知性と精神の差を埋めつつある。元の世界にはそういう説がありました。なるべくしてなった天才ですよ、彼は。飼い主としても鼻が高い」
漸くお目覚めか主よ。
あくび交じりに持論を披露するが、結局言いたいことが吾輩が天才であるということだ。
事実だし、嬉しいが、主の親バカっぷりには少し気恥しくもなる。
しかし、それどころではない。
「飼い主、ね。その、折角ご主人様から大絶賛されているのに顔が……」
吾輩の顔が何だ? どこからどう見てもイケメンだ。
ただ、ちょっと今は物凄く気分がブラックなだけで。
「あー……何と言うか、こちら側の世界じゃ嫁さん探しが出来ないって度々ショックを受けているんですよ。犬って動物をご存じありませんか? 向こう側の世界じゃ人類最古の友達なんて言われてたりするんですけど。この際、狐とか狼のイヌ科でも構いませんが」
狐と狼……いや、ここまできたら大型犬だとか小型犬なんて言っていられないのかも知れない。犬のぬいぐるみを嫁として与えられるよりはずっと良い。
「申し訳ないのだけれど、この子のような形をした動物は見たことがないわね」
終わった。
世間知らずや物知らず、教養無し、無知な者たちの言葉ならまだチャンスはある。
しかし、彼女のような才媛からそれを言われてしまったら、この世界に犬が存在する可能性は皆無だ。
いや、薄々気付いてはいたのだ。どうしても認めたくなかっただけで。
「あ、諦めるなって胡桃さん! こっちには小異世界って別世界もある! まだチャンスが完全に途絶えてなくなったわけじゃないんだ!」
吾輩が普通の天才犬ならば、その言葉を真に受け、希望を見出すことも出来ただろう。
しかし、吾輩は天才中の天才。人間に匹敵、あるいはそれ以上の知性を持つ超天才犬だ。
もしも、小異世界に犬がいるのだとしたら、召喚術を修めたカトリエル女史が犬の存在を知らないのは、とても不自然なことだ。
「もしかしたら、箱舟にならいるのかも知れないわね」
――どういうことだ!?
「おおっと、胡桃さん。いきなり元気になったな。で、どういうことです?」
「あなた、いぬは人類最古の友人と言ったでしょう? 帝国文明は第一人類史ではない。帝国建国以前に一度、世界は滅びを迎えている。その時にこの世界のいぬも絶滅に近い危機を迎えたと思ったのよ」
「そうか。死した英雄が魂を鍛えるための小異世界、箱舟。そこに英雄と共に転移した犬がいる可能性がある」
「ええ、こちら側と向こう側の世界で共通する動物や植物。果物や野菜があるのなら、そういう可能性もあると思ったのだけれど……どうかしら?」
「わん!!」
意外なところで朗報がやってきた。元の世界に戻ることを諦めたとは言え、主は召喚術の習得を怠っているわけではない。魔術を覚えておらずとも学術自体は身に着けようとしているのだ。
そして親ばかな主のことだ。これまで以上に気合を入れて箱舟への接続方法を学ぶに違いない。
「ま、胡桃さんがシニア犬に入る前までには何とかするさ。どちらにせよ箱舟には自分も用事があったからな」
「あなたが箱舟に?」
浮かれてばかりもいられない話だ。
何故、主が箱舟に目を付けたのか洞察するのは容易い。
「自分の宗教観は帝国の価値観にそぐわないでしょう? 神殺しを続けていく内に異端として社会を敵に回す可能性がある。しかし、帝国は武を尊び、力を貴ぶ。社会から尊ばれる人間になる為に魔人と戦ってみようと思いまして」
主と吾輩、一人と一匹なら社会を敵に回しても致命的ではない。
しかし、カトリエル女史が巻き添えになったり、借り腹の儀のことを知られ、排斥や迫害の対象となる可能性を主は強い懸念と恐れを抱いている。
決してカトリエル女史を批難する意図は無いが、巻き添えになるのは彼女ではなく主の方だ。
しかし、主からしてみればそんな事はどうでも良いことで、ただ兎に角、排斥や迫害を防ぐための最大にして必要不可欠な一手であると考えているようだ。
「あなた、正気……?」
「ええ。正気で本気ですよ。龍殺しを成し遂げた自分が魔人とも戦う。ここまですれば神への不敬と相殺できる筈。ですので、ちょっと箱舟に乗り込んで、英霊たちから助言の一つか二つでもらってこようかなと」
ライゼファーの言葉を信じるなら魔術師や魔術兵装をかき集めても意味がない。
ただの与太話か、彼自身も魔人だから知っているのか、それとも可愛い姪に近付く馬の骨を遠回しに始末するのが目的なのか定かではない。
だが、もしも主が魔人と戦える側の人間だとして、何故、主なら戦えるのか吾輩たちは何も知らない。
だったら知っていそうな者に、何なら過去に魔人の討伐に成功した張本人。即ち、過去の英雄たちに教えてもらえば良い。
回りくどいやら力業が過ぎるやら――だが、主にならそれが出来る。
そのついでに吾輩の嫁探しもしてくれれば尚良い。
しかし、カトリエル女史を守るために必要な事とは言え、神を信仰せずに済む可能性があるなら、危険過ぎる選択肢であっても、これ幸いにと言わんばかりに選んでしまうのだから、主の神嫌いは筋金入りだ。
「そう……けれど、まずは目の前のことからね」
「目の前のことですか?」
「まさか、あなた……その恰好で皇帝陛下の御前に?」
「…………あ」
謁見に着ていく服がない。
と言うか、主の服だってまともに洗っていない。
基本的に水路に服を着たまま川に流されることが主の洗濯だ。
召喚された時に着ていた日本の服も、今となっては薄っすらと残った返り血で無残な有様だったのに、昨日のドラゴンの返り血は他のモンスターや人間とは比べ物にならない程、しつこ過ぎる汚れとなって、最早破棄するしかなくなってしまった。
「帝都招集の通達は通信魔術では無く、使者が直接伝えにくるとは言え、あまり時間の猶予は残されていないわよ。礼服を用意したから使者が到着するまでに着慣れておきなさい。本当だったら、あなたの身体に合わせて手直しも完全にしておきたかったのだけれど、向こうもフリーのモンスタースレイヤーに完璧を求めはしないでしょう」
そうしてカトリエル女史が鍋と一緒に持ってきた包みの中には真っ黒な服が一式。
矢張り、新しい服にはテンションが上がるのだろう。興味深そうに主が覗き込むも、一瞬。顔を顰めた。
向こう側の世界と幾つかの共通点を持つスーツはまあ良いとしよう。
日本でも礼服と言えば黒だ。中に着るワイシャツのような服も黒でホストっぽく見えなくも無いが、主の日本での職業も――言ったら怒られるかも知れないが――似たようなものだ。
そこに合わせるのがロングブーツ、ゴツめのグローブだが、シルバーのリベットが大量に打ち付けられており、マントの様な腰布には金の刺繡で大きく模様が描かれている。
日本の礼服とは遠くかけ離れている。ハロウィンとかで偶に見かける妙に気合の入ったコスプレ衣装。
それが帝国的価値観における華美すぎず、地味過ぎない、極めて無難で面白味のない礼服であった。
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