第6話 蜂蜜色の髪の女は恩人である

 ソウブルー要塞から遥か北東、ソウブルー地方とアンドウン地方の境界線上。

 サマーダム大学を一望できるあばら家。小悪党がチンケな悪巧みをする拠点に使っていそうな如何にもな場所に吾輩たちは召喚された。


 雲一つない青空の下、いつものように桜吹雪が舞い散る街路樹を優雅に散歩していたら、何の予兆も無く、唐突に寒く、肉球に刺すような冷たさを感じた。吾輩たちは薄暗い空間の中に足を踏み入れていたのだ。

 あまりの落差に流石の吾輩も戸惑いを隠すことが出来なかった。

 幸い、すぐ傍に主がいたので、どうするべきかとお伺いを立てるために見上げると主の目から意思の力が失われていた。

 呆然としていると言うよりは、目を開けたまま立って寝ているような有様で、リードを持つ手も脱力してぶら下がっていた。

 普通ではない。召喚された事よりも、主の異常に吾輩は恐慌状態に陥りかけた。


「使い魔か。余計なおまけが付いてきたが、まあ良い。召喚成功だ」


 訳を知っているような口振りと、吾輩への侮蔑を滲ませる口調のお陰で恐怖は怒りで上書きされた。

 主の変異の原因だとすぐ分かった。許せなかった。これ程の怒りを覚えたのは生まれて初めてのことだった。

 吾輩の怒りを主の言葉に倣って表現するなら「殺すぞ豚」だ。


 憤怒が恐怖を打ち消したことで、漸く頭が回るようになって気付いた。

 猿轡のような物を嚙まされ、打ち付けられた杭に拘束されている老人が一人。

 襤褸切れを纏った老人は、くぐもった悲鳴と嗚咽を漏らし、滂沱の如く涙を流し、ガクガクと震えていて、恐怖に支配されており、別口の被害者であろうことは明白だった。


「よく来たな。私の実験に巻き込まれた間抜けな異世界人よ」


 主への侮辱が許せず、更に殺意が漲る。

 だが、吾輩は動かないことを選択せざるを得なかった。

 召喚者に飛び付き、喉をやれば殺せる自信はあった。


 主の変異の原因が目の前の男であるなら、殺せば元に戻る可能性と希望があった。  

 それと同時に安易な殺害が、主に更なる変調をもたらす危険性と恐怖もあった。


「私は常日頃から思っていたのだよ。神々の住む神界。悪魔の住む魔界。精霊の住む精霊界。死者が転生するまでの時を過ごす天国。転生するに値しない者が罪を濯ぐ地獄。そして、死した英雄たちが生まれ変わるまで魂を研鑽する箱舟。これらを総称して"小"異世界と呼ぶ。では、中規模、大規模の異世界とは何だ?」


 この時の吾輩は自縄自縛に陥っていた。

 こうしている間にも主の変異が進み取り返しが付かなくなる可能性もあるのではないかと思ったからだ。

 同時に、このまま召喚者の独り言が続く内に、主が自力で正気を取り戻すという消極的な希望もあった。

 この時、主と吾輩の立場が逆であったなら、吾輩の主、倉澤蒼一郎ならば、まずは目の前の下手人を潰す。一切の迷いも無く。例え後悔することになったとしても、後のことは潰してから考える。吾輩には出来ない決断だ。


 容易く恐れを踏み潰せる主の潔さを吾輩は憧れている。

 だから狩りの際に相棒を自負することはあっても、矢張り吾輩たちの関係は主従なのだ。

 独りの脆さに自己嫌悪に陥る吾輩とは対称的に、召喚者は上機嫌で饒舌だった。


「学術上の定義は『大異世界は存在しない』だ。いやいやいや、おかしいとは思わないかね?」 


 召喚者が主に問いかけた。主は立つこと以外、何も出来ずにいる状態だ。

 もしかしたら身体だけで、思考や意識その物ははっきりしているのかも知れない。

 結論から言えば、主は帝国に召喚された瞬間から、身体の制御を取り戻すことに狂奔していた。

 それを知ってか知らずか、召喚者は言葉を続ける。


「ならば、何故、小異世界などという呼称が存在する。異世界で良いではないか。そこで私は探した。何をって? いつ、誰が、何のために小異世界と呼び始めたのかをだ。そして見つけた」


 召喚者が得意げに言う。今思い出しても、あの男のドヤ顔には腹が立って仕方がない。

 そんなに知識自慢がしたければ、サマーダム大学の講堂でやれと言うのだ。


「かつて異世界からの侵略を恐れる思想集団がいた。彼らは自分たちよりも優れた力、技術、知能、知性、何より圧倒的な人口を有しながら、自分たちとは違う統一意思による強固な支配体制と、自分たちでは思いも寄らぬ方法により安定した社会を持ち、自分たちとは違う統制された思想、自分たちが持ちえなかった統合された価値観、そんな異世界人たちの共有化された目的意識により、この世界を侵略し、自分たちを隷属する可能性を恐れたのだ」


 要するに尋常ならざる臆病者たちがいたのだ。

 その思想が召喚者の好奇心を煽ったのだから業腹だ。


「その思想集団は既知の異世界を小異世界と呼び、未知の異世界を大異世界と呼んだ。しかし、帝国建国から六千年余。異世界から侵略者は訪れることなく帝国は大陸を制覇し、世界統一を果たした。やがて大異世界という言葉は死語となって忘れ去られ、意味や理由を考えることなく小異世界という言葉だけが残ったのだ。しかし、大異世界の人間がかつての思想集団が恐るべき存在なのだとしたら、敵であれ味方であれ面白いことになるのではないか。私にはそう思えてならなかったのだよ。だからこうして人知れず細々と研究を続け、出来そうだからやってみた。そうしたら出来てしまったというのが事の経緯だ」


 召喚者もまた異世界人を恐れた思想集団の考えに染まっているように思えてならなかった。

 異世界人の侵略の意思に関わらず、既存の支配体制を破壊できるだけの力があると妄信しているところなんかがそうだ。


 主が帝国に帰化を決意して一ヵ月。主が学ぶ横で吾輩も聞き耳を立てていたから洞察する材料も増えた。

 吾輩が思うに帝国による世界統一が成し遂げられる以前は、群雄が割拠し、大陸全土に戦火を広げていたことが考えられる。

 そんないつ終わるとも知れず、未来への見通しも立たないにも関わらず、魔人という全人類の脅威が自由気ままに死と破壊を撒き散らして闊歩する。


 そんな社会情勢で生まれた異世界脅威論とは、警鐘では無かったのだろうかと思うのだ。


 その戦争は本当にやらなくてはならないことなのか。

 人類以上の脅威は魔人だけではないかもしれないぞ。

 異世界という埒外の価値観が我々を侵略しようとしているぞ。


 人類よ、武器を捨て、手を取り合え――と。


 人類同士の戦いを辞めさせる為の脅威論では無かったのだろうか。

 異世界脅威論者の意図とは違っていても結果的に帝国の世界制覇により戦いが終わり、同時に異世界脅威論も役目を終えたのだ。だから大異世界という言葉も失われた。

 話を聞けば犬ですら推測できることを話をした張本人が分かっていないのは、都合の悪い事実には目を背け、耳をふさいで都合の良い虚実に固執しているからだろう。そうでなければ単に頭が悪いだけだ。


 今でこそ現実逃避をしている人間でしか無いと分かるが、この時の吾輩には推論を立てることができても、未だに決断し、行動に移すことが出来ず、ただ足踏みするしかなかった。


「説明は以上だ。都合よく異世界人の召喚に成功した以上、実験を進めねば勿体ない。ここに用意した人間ゴミを最大出力で殺し、その力を私に示してみせろ。そうしたら次はガ・エルを復活させて、サマーダム大学を襲撃する」


 迷っている場合ではない。吾輩は召喚者を殺す決断をした。


 今でこそ帝国の法と価値観に染まり、法と必要性、それと気分で悪党を殺せるようになったが、この時の吾輩には異世界や召喚が何なのか今一つ理解できていなかった。

 分かっているのは、倉澤家に引き取られ、人間社会に馴染んで知り得た、日本の法律と道徳観念上、人が人を殺すのが決して許されない悪行であることだけ。


 主が人として決してやってはならないことを奇妙な力で強要されている。

 一介の柴犬でしかない吾輩は主ほど法律に詳しくない。殺人を強要された者に、どれほどの酌量の余地があるかも分からないのだ。

 既に吾輩の命は主に救われた物だ。召喚者を殺し、それが原因で人間社会から隔離され、保健所で殺処分を受ける事になったとしても後悔は無かった。主が殺人を強要されて人間社会から排除されるよりはずっと良い。


 吾輩が意を決して踏み出そうとした時だった。

 彼女――、カトリエル女史が現れたのは。


「闇雲に暴れても支配は解けない。抗い、立ち向かう意思があるのなら、身体を戒める物を正しく認識し、心を縛る悪意を破壊なさい。あなたにならそれができるはず」


 あばら家の扉を開き、ゆっくりした足取りで主に近付き、涼やかな声でそう言った。

 召喚者がカトリエル女史を止めようとするよりも早く、それでいて警戒も気負いもない自然体で主に近付き、背中に手を触れる。それだけで主の眉間の辺りに乾いた音と共に紫電が走り、目に力が戻った。


「我が支配ベレスを無効化しただと――――!?」


 召喚者は驚愕した。支配ベレスの特性を彼女が熟知していたこともそうだが、自我を取り戻した主が間髪入れずに繰り出した電光石火の拳打にだ。

 カトリエル女史が後押しするかのように触れた主の背中からジェット噴射でもしたかのような勢いで放った拳は、魔力で神経伝達速度を補強しなければ、常人の反射神経では決して捕らえることが出来ない神速の一撃。

 そして目の当たりにした。紙一重で掠めた拳が打撃の圧力だけであばら家の壁が木端微塵に爆ぜて吹き飛ぶ光景を。


 主の拳が紙一重で空を切ったのは召喚者に躱されたからではない。


「外したか。まだ思った通りに身体が動いてくれないな」


 主が手首を回しながら不満げにぼやいた。支配ベレスの強制開放による後遺症で生じた身体制御の齟齬。それが召喚者の命を繋ぎ止める代わりに、絶体絶命の脅威を見せつける結果となったのだ。


「魔力を収束するどころか、魔力すら込めていないただの腕力でこの威力!! 並の帝国人を遥かに凌駕している。流石は脅威論者が恐れた異世界人というわけか!!」


「異世界脅威論ってのは同じ価値観を持った同じ星の人間同士で争っていたら、言葉も常識も通じない奴から支配されるぞっていう警告なんじゃないですかね」


 皮肉にも主は吾輩と同じ感想を抱いていた。

 常識的に考えたらそうとしか考えられないだろうと思うと同時に、主と同じで嬉しい気分になった。

 後は、この無礼な召喚者を殺せば、めでたしめでたしのハッピーエンドだ。


 当然、そうはならなかったわけだが……


「奴らには確信があったのさ!! だから支配者の立場から追い落とされることを恐怖した!! 私の理論は完璧だ!! 人類を脅かす力を持つ異世界、異世界人は存在し、しかも召喚できる!!」


「制御は不可能だがな」


 召喚者が興奮気味に叫ぶが、主は問答無用だ。

 主の打撃の余波で生じた突風が召喚者の衣服と顔の皮膚を剥ぎ取る。

 今になって思えば、あの男も帝国人らしからぬ人間離れした容姿だった。


 カトリエル女史、アーベルト殿、そして召喚者。


 単に美男美女だとか亜人と言うよりも、帝国人とは毛色の違う人種のように思えてならない。

 まあ、それがどうしたのかと言われると別に何でもない。

 ただ、ふと思い出し、そういう共通点に気付いた。それだけだ。


 それは兎も角、その後は一方的だった。


「一つお尋ねしたいのですが」


 主はカトリエル女史に向き直って尋ねた。


「何かしら?」


「この場合、自分がこの男を殺したら、どのような罪に問われるのでしょうか?」


「あなたに何の罪も罰もない。何故なら――」


 結論さえ分かれば、理由などどうでも良かったのだろう。

 主はカトリエル女史の口から語られる無罪となる根拠には耳を傾けず、明確な殺意と共に召喚者に肉迫した。

 帝国の『武を尊び力を貴ぶ』というスローガンを知るのは、もう少し後になってだった。


 主は短慮で、短気で、短絡で、横暴で、粗暴で、乱暴だから敵を前にして無駄口を叩き続けたりはしない。いつもなら呆れるところだが、この時ばかりは主の気質が正しい。

 余裕の表れと言ってしまえば、それまでだが、吾輩ほどでは無いにせよ、主も矢張り混乱と戸惑いの渦中にあったのだ。

 

 異世界に召喚された上に、身体の自由を奪われたのだからある意味当然だ。

 だから最速で根本原因の排除を目指したのだ。

 

「ぬか喜びしたまま死ね。貴様の命も此処までだ。実験も、研究も、論理も、全て無意味に消えて無くなる。俺が消す。お前の命と一緒にな」


 召喚者の胸元に指先を突き刺し、順手から逆手にねじり込み、胸倉を掴む要領で胸骨を掴んで引き寄せ、下腹部に膝蹴りを突き刺す。内臓が潰れたのか、召喚者は勢いよく鮮血を吐き出した。

 主が首を捻って避けたせいで、吾輩は召喚者の吐血を頭から浴びる羽目になった。

 カトリエル女史の方を見ると半歩ずれて、紙一重で躱していた。


 よくよく思い返してみると、あの男のせいで吾輩は異世界初日で風呂に入らなければならなくなってしまった。

 首を嚙みちぎってやれば良かったと思うが、憤怒に駆り立てられた主の攻撃はこの程度では終わらなかった。


 拳を振り上げ、召喚者の顎を砕いて、そのまま振り抜き、肘鉄で砕けた顎に追撃を入れる。爆発的な衝撃力に下顎の残骸が頭蓋から飛び出していた。その凄まじい圧力に召喚者の左目が飛び出した。

 召喚者の顔面に残った右目が驚愕に満ちていた。しかし、顔面の機能の大半を破壊され、言葉を発することの出来ない召喚者はより雄弁な目で語り、主に手を伸ばした。


「お前は殺すぞ」


 召喚者の言わんとすることを理解できなかったのか、それとも理解する気がなかったのか定かでないが、眼前に伸びる両手を乱暴に打ち払う。それだけで召喚者の腕が捻じ曲がって吹き飛び、あばら家の壁を破壊した。

 拘束されていた老人が引きつった悲鳴を短く漏らす。顔面すれすれを紙一重で通過していったのだからご尤もな話だが、主は自らの怒りを優先し、「失礼」と素っ気なく一言呟いて、召喚者の心臓を引きずり出し、握り潰した。


「勝手に異世界なんかに連れてきた挙句、支配しようとするから一方的に殺される羽目になるんですよ、っと」


 主の蹴りで、召喚者の身体が飛び散った。

 粉々になった肉体が壁にへばりつく、返り血は無かった。

 主の左足を頂点に鮮血と肉片が綺麗な二等辺三角形を描いたからだ。


「良し、身体の動かし方は大体わかった」


 主が拳を握ったり開いたりしながら言った。

 恐らくだが、これが初めて解放した主の本気の力だ。


 人体を木端微塵に破壊する化け物じみた膂力。現代社会には使い道のない過剰過ぎる力。遺憾なく発揮する機会は、この時まで無く、帝国に召喚されなければ生涯を終えるまで封じられたままであった筈の力だ。


「貴女のお陰で助かりました。御礼は後で改めてさせてください。まずはこの人を開放しないと」


 召喚者が飛沫に勝るとも劣らないくらい細かく粉々になったのが、思いのほか気持ちよかったらしく、主の怒気が加速度的に薄れていくのが見て取れた。

 頭が冷えた主にとって優先すべきは世間体。拘束具を素手で引き千切るという蛮族じみた力業で救出すると襤褸切れを纏った老人が気まずそうに口を開く。


「あ、ありがとうございます、戦士様。非常に心苦しいのですが、ワシは見ての通りの貧民で、貴方様の格に見合うだけの謝礼をお支払いすることが……」


「いえ、自分は救出のために来たのではありません。御覧になっていたと思いますが、自分も被害者の一人です。謝礼を求めるなんてつもりはありませんよ」


 気まずそうな老人よりも、ずっと気まずい顔をする主。

 主にしてみれば舐めた真似をした奴を殺すついででしかない。

 謝礼云々言われても主にしてみれば何の話だということになる。


 今にも崩壊しそうなあばら家に沈黙が訪れる。老人は目で主からの代案を求めている。

 主が提示した代案が今言った無報酬ということなのだが、到底納得できることでは無かったのだろう。隙間風は気まずさを吹き飛ばしてはくれなかった。


「それで……あなた、異世界人らしいけれど、これからどうするのか当てはあるのかしら?」


 妙な沈黙を破ってくれたのはカトリエル女史であった。


「……元の世界に戻る手段って、ご存知でしょうか? あの男が言うには小異世界ではなく大異世界という所から来ているのらしいですが……」


 恐る恐る聞いた。この時ほど主が恐怖する姿を見たことがなかった。

 恐らくこれから先の生涯でもない。


「無い、わね」


「やっぱり」


 主が一瞬ばかり愕然とした。

 しかし、躊躇いがちとは言え、断言に近いカトリエル女史の直截的な言い方が主が一瞬で割り切る一助となった。


「召喚術で小異世界と接続することは出来るのだけれど……普通の人は大異世界の存在を認識していないのよ。召喚術を学び、極めることができれば、元の世界を認識しているあなたなら大異世界と接続することができる、かも知れない」


「認識し、極めれば、かも知れない、ですか」


 期待を持たせる言い方だが実際には違う。主が元の世界に戻れない理由だ。


「既存の召喚術は小異世界との接続を前提にしているのよ。つまり、あなた自身で元の世界と接続するために独自の召喚術を作り出すしかないのよ。既存の召喚術を極めるのは前提となる知識や技術を身に着けるため。それにあなた、魔力の使い方も知らないでしょう?」


「それは、まあ、魔力なんて物は空想上の力、架空の存在というのが元の世界での認識でしたので……ああ、成程。認識ってそういうことか」


 先月の主は魔力を認識できず、カトリエル女史にとっての異世界――、日本を認識できない。

 日本でもよく耳にした言葉、『理論上は可能』って奴だ。


「認識できなければ存在の有無は関係がないのよ。魔力も召喚魔術も認識できるわたしが教えることができる。けれど、元の世界に戻るには異世界を認識できるあなたでなければ不可能……その筈なのだけれど」


 カトリエル女史が二等辺三角形の血痕に視線を向けると主は落胆した。

 彼女の説明が正しければ召喚者は大異世界を認識していたということになる。

 あの男は、どうやって大異世界の存在を知り、主を拉致したのか。この謎は未だ解き明かせていない。


「殺してしまったのは失敗だったか」


「後からならどうとでも言えるわね。あなたが受けた仕打ちを思えば、殺すしかなかった。到底、許される行いではないもの。当然の報いで、妥当な罰よ」


「そうですか……」


 当然だが、この時は帝国の気風など知る由も無かったので、まるで絶世の美女とも言うべきカトリエル女史に真正面から殺人を肯定されて、流石の主も若干引き気味になっていた。


「では、話を戻しますが、魔力も魔術も知らない世界で生まれ育った25歳の人間が今から召喚術を極め、元の世界に戻るための魔術を編み出すのに要する年月は如何ほどのものでしょうか?」


「…………そう、ね」


 カトリエル女史は気まずそうに主から視線を外した。

 言外に現実的では無い年月を要するであろうことは想像に難くない。

 恐らく、吾輩は寿命を迎え、主は初老とかその辺りだろうか。


 理論上可能だが非現実的。或いは無意味。


「仕方ない。胡桃さん、日本に戻るのは諦めて帝国に骨を埋めるか」


 決断は早かった。主は吾輩を抱き上げて、早々に帰還を諦めた。


「本気?」


「そりゃあ、日本に胡桃さんを残しているとかだったら必死で戻る手段を探したでしょうけど離れ離れじゃないなら、さして問題では無いと言うか……仮に十年、二十年かけて日本に戻ったとしても、社会に居場所が無いどころか排除されるのは決定的なので」


 吾輩としても主と一緒なら何処でも構わないのだが、主の帰巣本能の薄さは犬の何万分の一だろうか。


「だったら……わたしに雇われる気はないかしら?」


「ええ、是非」


「決断が早すぎないかしら?」


「国や世界が違っても生きていくのに金が必要なのは違わないでしょう? 通貨制度はあるのでしょう?」


 絶世の美女とお近付きなれる絶好の機会だ。見逃す手はない。

 帝国に召喚されて一ヵ月が経った今なら兎も角、この時は糧を得る手段が全く無かったのも事実。

 主はいよいよ金に困らない限り働こうとしないニート気質だが、この時は本当に困っていたから一も二もなく飛びついたのだ。特に信用できる相手からの提案であれば猶更だ。


「ええ、それは勿論」


「自分は貴女に命を救われた。助言が無ければ奴の支配から抜け出せず、不本意な殺しに手を染めていた。だったら恩返しも兼ねて雇われることに否はありませんよ」


「恩義を感じる必要なんてないのよ。あの男の潜伏先を特定するのが遅くなったせいで、あなたはこの世界に召喚される羽目になった。あなたには、わたしを恨む権利がある」


「いやいや、無いでしょ。自分たちをこの世界に召還した奴と、あなたの敵が偶然同じだったってだけで」


「……けれど」


「そりゃ、あと僅かでも早く来てくれれば召喚されなかったのは事実ですよ。それくらい僅かな時間差でした。けれど、貴女を恨むのは八つ当たりだ。筋違いが過ぎる。それより、コイツは一体、何者なんです? 確かガエルを復活させて、サマーダム大学を襲うとか言ってましたけど」


「ガエル……邪神の一柱ね。そしてこの男は反帝国組織、氷の団の一員で邪神崇拝の疑いをかけられていたわ。あなたの証言で疑惑は確信に変わったのだけれど……騎士団や衛兵団を動かすには証拠が足りないわね。まあ、邪神ガエルを調べ上げれば潜伏している邪教徒を引きずり出せると思うのだけれど」


「と言うことは自分の仕事は氷の団を皆殺しにして、邪神ガエルを叩き潰せば良いってことですね」


「……あなたは神を恐れないのね」


「邪教徒。要は幻覚を妄信するカルトでしょう? そんな奴等、生かしておいてもろくな事になりません。殺して良いなら自分が疾く潰して皆殺しにしておきますよ」


 この時、帝国に神が実体を持って存在することを知らなかった為、主とカトリエル女史の会話は微妙に嚙み合っていない。

 彼女の目的は、あくまで神殺しだ。邪教徒狩りは物のついでとか結果的でしかない。

 そして、吾輩は神を持たない獣で、主は神や宗教を文化、規範、そして旧世代の支配装置と考える小賢しい現代人。


 主の認識は邪教徒と呼ばれるカルト集団を皆殺しにすることだ。

 しかし、帝国人のカトリエル女史の認識で主の言葉は、帝国で知られている邪神を皆殺しにする発言と捉えてしまったのだ。


 その事に吾輩が気付いたのは、この世界に神が実体を持って存在することを知った時だ。

 そして主は未だに気付いていない為、認識の擦り合わせは未だに行われておらず、主は――この時の発言を多分おぼえていない。

 吾輩が両者の認識のずれを勝手に危惧しているだけだ。


 だが、この認識のずれが主と絶世の美女の間に強い縁を結び付けたのも事実だ。

 こうしてカトリエル女史から神殺しを期待された主は、フリーのモンスタースレイヤーの道へと進むに至った。


 カトリエル女史の都合に合わせることが出来て、それでいて神を恐れず、信頼できる戦力。

 それが我が主、倉澤蒼一郎というわけである。


 この日から一か月。一目を忍んで主の前に姿を現したということは――


「遂に標的が見つかりましたか?」


「ええ、ベルカンタンプ鉱山で邪神ガエルを信奉する邪教徒の動きを察知することが出来たわ」


「そうですか。まずは一柱、ですね」


 理由は定かでないが彼女は、並々ならぬ憎悪で邪神を追っている。

 しかし、一口に邪神と言っても数多く存在する。日本の八百万の神々とまではいかないにしてもだ。

 それにも関わらず、打ち滅ぼさんと闘志を燃やす対象となる邪神の名を彼女は知らない。


「ええ、神殺しの第一歩よ」


 そう言ってカトリエル女史は豪奢な装丁をした本を取り出す。

 匂いからして相当の年代物だ。歴代の持ち主はカトリエル女史を含めても十人。

 もっと多いかも知れないが、それ以上は匂いが飛んでしまっているので吾輩には分からないが、持ち主を代替わりしながら永い時を刻んできたであろうことは柴犬の吾輩でも容易に察せられた。


「その本は?」


未来視センレイブ。千年前の――比較的、新しめだけれど本物の魔導書よ。効果は読んで字の如くね」


「古代語で未来視、ですか」


 魔術や魔導書の類は帝国が建国された約六千年前よりも前の古代文明の言語が用いられる。

 帝国で実用されている魔術関連のほとんどが先史文明によって生み出された物ばかりだからだ。

 だから現代語で名付けられた魔術関連は建国期以降によって開発されたことを意味する。

 カトリエル女史の千年物の魔導書は元の世界の言葉で言うところの場違いな人工物オーパーツということになるのだが、決して珍しいことではない。

 偽物も珍しくないが、今回はそういうことも無さそうだ。


 何故なら勝手に開いた魔導書が狂ったようにページを進め、立体映像を浮かび上がらせ、信ずるに足り得る光景を再生したからだ。

 その映像には我が主、倉澤蒼一郎が邪教徒を根絶やしにせんとばかりに蹂躙し、その屍の中には長耳のエルフの姿があった。吾輩の記憶が正しければ、主はまだエルフを殺していない。


「私が魔導書で見た未来。その全てにあなたがいた。神を信仰しない異端者――神を殺すあなたの姿が。私が追っている邪神がガエルでないことが確定した今でも、あなたがベルカンタンプ鉱山に行くことで何かの変化が起こることを期待している。いえ、きっと起こる筈」


 人形じみた涼やかな表情と静かな声とは裏腹に、強烈な情念が渦巻いている。

 吾輩の鶏もも肉への執着心を上回る程の強烈な熱情だ。

 日本でも帝国でも、これ程の強い意志の表象を感じたことはない。


 ――危険だ。


 柴犬の吾輩でも感じ取れるくらいだ。主も当然、理解している筈だ。

 彼女のお陰で、主は望まぬ大量虐殺を行わずに済んだ。返そうにも返しきれない恩義がある。

 しかし、邪神絡みになると彼女は危うさを噴出させる。


 吾輩は犬である。三日受けた恩は一生忘れない。

 忘れはしないのだが……主を見上げると――ダメだ、こりゃ。


「そういうことでしたら、ちょっとベルカンタンプ鉱山に足を伸ばしてきます。邪教徒を皆殺しにでもすれば、状況の変化に繋がる何かも見つかるでしょう」


「ええ、期待しているわ。何もなかったとしても、邪教徒の討伐はあなたの誉れになる。悪くない未来をもたらす筈よ」


 主は吾輩の心配を他所に、カトリエル女史の依頼に熟慮することなく、二つ返事で安請け合いしてしまった。

 柴犬ですら洞察できる彼女の怨念じみた思惟を微塵も感じ取れていないようだ。

 絶世の美女との縁を途切れさせたくないという下種な目論見が、主の目を曇らせているのかも知れない。


 これでは真面目に考えている吾輩がバカみたいではないか。

 嗚呼、そんなことよりも吾輩の春は一体いずこか。

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