愛犬と一緒に異世界転移

芥川一刀

第一章 新世界の日常

第1話 吾輩は犬である

「殺すぞ豚」


 開口一番に飛び出した直接的な暴言に誰もが目を白黒させている。

 暴言を放ったのは凶相を顔に浮かべる長身の青年で、近所の人々からは『子供の頃から物腰が柔らかく、いつも笑顔で、礼儀正しく、優しい良い子』ともっぱら評判の好青年。


 だが、それは表向きの話。


 この男は犬派でありながら、けしからんことに猫を被るのだ。

 それも一つや二つどころではない。十重二十重と念入りに被る。

 同年代の近しい者たちからの評価は内弁慶ならぬ外弁慶。

 好青年ぶった仮面の下は、有り体に言えばチンピラとかゴロツキと呼ばれる人種に近しい暴力的な本性が隠れている。


 今回に限れば、全く隠れていないわけだが。


 姓は倉澤、名を蒼一郎。


 ご近所のマダムたちからは幼少の頃からニコニコ蒼ちゃんと呼ばれているそうだ。

 歳は25歳で日本の都会とも田舎とも言えない中途半端な地方を根城にしている雇われのバーテンダーである。


「ンだとゴラァ!! いきなり出てきて何を上等抜かしてやがる!!」


 暴言を吐かれたのは髭ダルマ然とした小太りの男で、まだ幼さの残る少女の手首を引っ掴んでおり、その足元には二人の少年が蹲って咳き込んでいる。

 手首を掴まれている少女も青ざめた表情で目尻には涙が浮かんでいて、明らかに尋常ではない様子だ。

 暴言を吐いた方も吐いた方だが、吐かれる方も吐かれるだけの理由がある。


「あァ? 下等生物がイキってんじゃねェよ、ボケてンのか? ボケてンなら死にやがれ。殺してやるから死ねよ豚」


 暴言から間隙のない先制攻撃。


 カフェのテラス席に設置された六人席用のテーブルを左手一本で難なく持ち上げると、蒼一郎チンピラが情け容赦なく喧嘩相手チンピラの頭に叩きつけた。

 細身のシルエットからは想像も付かない剛腕に驚く暇もなく響く轟音。


 それなりに頑丈な筈の金属製のテーブルが衝撃でひん曲がり、地面に押し潰されたチンピラの頭は、まるで床に落としてしまった卵のようだ。

 割れた殻から出てきたのは黄色の卵黄では無く、赤黒く染まったうどん玉のような脳味噌だが。


 相手に重度の障害が残るかも知れないとか、まかり間違って殺してしまうかも知れない。そんな人として当たり前に備わっているはずの躊躇や、その後の社会的な制裁や社会からの排除を恐れる恐怖心――すなわち真面な神経の一切が欠如した無慈悲な一撃。

 勇気や度胸では無く、蛮勇。紛れもない蛮行である。


 彼等にとって不幸なことに倉澤蒼一郎は有言実行の男だ。

 殺すと言ったのだから、殺す。絶対に殺す。何がなんでも殺す。

 殺さないのなら殺すなんて言わない。事実、もう殺した。もう死んだ。


 そして何より此処は平和な現代の日本では無く、異世界の帝国。

『武を尊び、力を貴ぶ』をスローガンに掲げ、力こそが正義と信じてやまない脳筋万歳の軍事大国だ。


 正当な理由があれば人を殺しても――今回のケースが正当な理由にあたるかどうかなんて現代日本の常識的な価値観は置いておくとして、まあチンピラ程度なら殺してしまっても無罪。万が一、有罪になったとしても騒乱罪による罰金刑が精々だ。

 だから殺すと言うのは現代社会における一時の勢いや冗談、脅しでは無く、「お前はクソだから生きる権利を剥奪する」という宣告なのだ。


「もう大丈夫。さ、危ないから離れてなさい」


「は、はい」


 打撃の瞬間、すかさず三人の少年少女を左手一本でまとめて抱きかかえ、無残な死体と化したチンピラに背を向け、人の好さそうな笑みを浮かべ、如何にも優しそうなお兄さんといった感じの声色で避難を促す。

 だが、それも女子供の前だけでの態度だ。


「ンだよ、まだいたのか。いるってことはやるってことで良いンだよなァ!?」


 いや、一瞬で仲間を殺されたので目の前の状況を受け入れることが出来ていないだけだ。

 暴言を吐かれ、色めきだって取り出したナイフの切っ先も今は地面の方を向いている。完全な戦意喪失である。

 それもその筈、平和な商業地区の昼下がり。唐突に暴行殺人事件を起こした男の眼前で、未だにチンピラらしい振る舞いが出来るなら、それはある種の勇士と言って過言ではない。

 尤も、小さな子供相手に暴力を振るい、少女を拐かすのが関の山であるチンピラにそれを求めるのは酷な話だが。


「あ、いや……」


「肝っ玉のちいせぇ。ビビったンなら次にやることは決まってるよなァ?」


 空っぽになった頭を蹴飛ばし、骨が砕ける音を響かせ道の脇に転がすと、勢いのあまり鮮血が弧を描いて地面を叩いた。


「ヒッ……!!」


 小さく悲鳴を漏らしたチンピラの仲間に詰め寄り、胸倉を掴み、頭突きで額を叩き割って恫喝する。

 叩き割ると言うよりは顔面が陥没していて、ぐったりとしている。即死したようだ。

 どうやら蒼一郎チンピラにとっても、それは想定外だったらしく、舌打ちして地面に叩き付けるようにして投げ捨てる。叩き付けられた衝撃で骨が粉々になったらしく、クラゲみたいになっている。


「謝れ」


「す、すいません」


「俺に謝ってどうするんだボケカスが!!」


 前蹴りが文字通り、腹に突き刺さり、外れた背骨が背中の皮膚を貫いた。

 こりゃ内臓が潰れて死んだな。


「謝る相手はこの子達だろうが!!」


 声を漏らせば殺されるし、対応一つ間違えても殺される。

 最早、チンピラよりも性質の悪い悪党の振る舞いだが、誤解を恐れずに言うなら人助けだ。


 一応、人助け――。


「え、ええ……」


「あァ!?」


 意気消沈したチンピラの胸倉を掴み上げて、目線だけで人を殺せそうな眼光を放っているが、人助け。その筈だ。


 切っ掛けは些細だ。田舎から出てきた仲良しこよしの三人姉弟。

 子犬よりもヤンチャ盛りの二人の少年が生まれて初めての都会、帝国第二の要塞都市、ソウブルー要塞の威容に浮かれはしゃいでいるところを、このチンピラ連中にぶつかってしまい、「なんだこのヤロー」「テメーこのヤロー」と使い古されて錆び付いた台詞と共に詰め寄られているところを姉が現れ、謝罪。

 彼女が必死に蓄えたであろう金銭で解決を図ろうとしたところ、見目の良さが仇となり、誘拐の憂き目に遭う。

 いくら帝国が力の国とは言え、全ての無法が罷り通るわけではない。


 寧ろ、帝国が標榜する『武を尊び力を貴ぶ』とは、力さえあれば何をやっても良いということではない。

 生粋の帝国人ですら勘違いしている者が多いが、地球の諺で言うところの『大いなる力には大いなる責任が伴う』に近しい。

 責任を取るにしても、正しいことをするにしても、何をするでも大きな力が要る。力が無ければ正しいことが出来ない。

 だから力が尊貴の象徴とされているのだ。


 蒼一郎チンピラにそこまでの深謀遠慮があったかどうか定かではないが、子供を恫喝し、金銭を巻き上げ、未だ幼さの残る少女を手籠めにしようと誘拐を企てる下卑た男が五人――今は二人だが――見紛う事なき悪党だ。

 倉澤蒼一郎という男は短気で、短慮で、短絡的で、乱暴で、横暴で、粗暴で、ご近所様の目が無い所での振る舞いは見紛う事無きチンピラだが、か弱き人々にとっては不幸中の幸いにも本質的には善性の人だ。

 子供たちを犯罪者から救出するためとは言え、躊躇なく殺しに行くし、人を殺しても後悔や反省も一切無く、嘘くさいが何と言われても善性なのだ。

 また遵法精神に篤く、『帝国法で悪党はぶっ殺しても良い。可能なら見つけ出してぶっ殺せって定められているんだから別に殺したって問題ないでしょう?』と合法だからと言って悪びれず、良心の呵責に苛まれることなく殺人を実行する男で、とても信じ難いかも知れないが善人なのだ。


 そして、善人だから悪人とはすこぶる相性が悪い。


 一目見るなり状況を把握し、少女の救いを求める声なき声に応じ、迷うことなく介入を決め、まず手始めに少女の手首を掴んでいた男を殺傷せしめた次第である。南無阿弥陀仏。


「どうする? この子達に金を返して、謝罪して、ついでにこの死体の後片付けと、清掃、最後に衛兵団に自首して監獄に行くか、このまま全員ぶっ殺されるかだ」


 最後通牒と共に、先端から血の雫が垂れるテーブルをチンピラの額に突き付ける姿は、さながら伝説の剣を携えた勇者のよう――と言うのは流石に無理があるのだが、帝国的な価値観で言えば、その無理が道理になる。

 多分だが、テーブルの歪みの修繕と血糊の清掃は自分でやるのだろう。

 加えて、お人好しと短気が入り混じって乱入したものの、最初の一人殺したらスッキリしてしまったし、何かもう面倒臭くなってきたから全員殺して終わらせようと考えているに違いない。

 とんだ勇者様だが、この男からしてみれば、残り二人を殺すくらい大した労力ではない。三人殺すも五人殺すのも労力に大差ないのである。


 そして残念なことに吾輩には短絡的な殺人に及ぼうとする彼を止める術がない。


 何故ならば――


 吾輩は犬である。姓は倉澤、名は胡桃。

 我が主、倉澤蒼一郎が右手に持つリードに繋がれた超イケてるオスの柴犬。


 ――それが吾輩だ。

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