第2話 主は住所不定である
「あ、あの……」
主がチンピラたちを蹴り転がし、衛兵団の詰め所に文字通り蹴り飛ばすと、襲われていた少女がおずおずと控えめに声をかけてきた。
相手が吾輩の主、しかも命の恩人とは言え、いきなり他人を大きなテーブルで殴り殺すような危険人物に声をかけるのは些かどころでは無く、極めて危機感が足りないと見えるが、どうやら帝国の民の習い性のようだ。
天下の往来で堂々と行われた恫喝、恐喝、誘拐に誰もが驚き、戸惑い、恐れた。
衛兵に通報することすらままならない中、吾輩の主、倉澤蒼一郎だけが躊躇することなく、颯爽――と言うには、あまりにも荒っぽすぎるが、何はともあれ助けに入った。
日本ではゴロツキ同士の抗争にしか見えない乱闘も、帝国では英雄譚から飛び出した現実のヒーローの活躍だ。事実、一部始終を見ていた人たちは声援をあげている。
「はい。さっき盗られていたお金です。お返ししますね」
「あ、ありがとうございます!」
そして、これだ。
主が外行用の好青年然とした爽やかな笑みを浮かべ、少女の手を両手で包み込むようにして財布を渡す。
雰囲気だけで言えば、白馬の王子様といった具合だ。
――頬から耳たぶにかけてへばり付いた返り血が無ければ、だが。
人間はよく、人によって態度を変えるのは良くないことだと言う。
吾輩としては変な言説であると思うが、主の多重人格にさえ見える病的なまでの態度の変貌ぶりを子犬の頃から見てきた身としては、確かにそれを肯定せざるを得ないと認めている。
「君たちもこれからは周囲に気を付けて。それが結果的にお姉さんを守ることになる。分かりますね?」
主が身を屈めて少年たちに視線を合わせて優しく諭す。
二人の少年は本から飛び出した英雄を前にしているかのように目を輝かせている。
興奮しながら何度も頷く少年たちに、主は満足したように「いい子だ」と頭を優しく撫でる。
主のしたことは百歩譲って子供にやさしい無頼漢といったところだが、彼女たちには強きをくじき弱きを助けるヒーローにしか見えていないようだ。
と言うか、この光景を遠巻きに見ていた人々の殆どが、そういう風に見ている。
『武を尊び力を貴ぶ』という帝国のスローガン。
つまるところ間違った暴力を振るうチンピラを、
言うは易く行うは難し。この行為が帝国民の心を掴んで離さないのだ。
そして、それは一般大衆に限った話ではない。
「今日も今日とて力が有り余っているようだな。倉澤」
「アーベルトさん」
衛兵団の詰め所から現れた金髪碧眼の美丈夫、アーベルト。
年の頃は主と変わらないように見える。それにも関わらず、彼はソウブルー地方の帝国衛兵団を統括する男で、更には帝国最強の一角と目されている。
帝国人離れをした怜悧な顔付をしているが白銀の鎧と金の刺繍が入った真っ赤なマントのお陰で主よりも白馬の王子様然としている。
目の肥えた女子などは二人が並ぶと非常に絵になるなどと息巻いているので、人間的にはそそる魅力に満ち溢れて見えるのだろう。
とは言え、主の表情はあまり芳しくない。あからさまに気まずそうにしている。
「別に殺すなとは言わん。何なら探し出して一人残らず始末してくれて構わんが、街の景観を損なうような処理の仕方は、あまり褒められたものではない――と、度々口にしている筈なのだがな?」
殺しを咎めるどころか更に推奨するアーベルト殿の言いたいことはこうだ。
『もっとスマートに殺せ』
アーベルト殿からしてみれば常日頃から絞め殺せ、首を圧し折れ、出血の少ない部位を刺せと助言しているのだから苦言を口にもしたくなるの無理なからぬことだった。
先程の戦いでも分かるように主の殺しは骨や臓器が飛び散り、血の海を作るのが日常茶飯事で、スマートさからは遠くかけ離れている。日本なら猟奇殺人犯扱いされても仕方のない有様だ。
忖度で主を庇うわけでは無いが、無理もない話なのだ。日本にいる時は暴力は兎も角として殺人に縁がなかったのだから。
どんなに暴力慣れしていようとも、暴力による結果的な殺人と、能動的な故意の殺人は全くの別物だ。
殺人に関してはキャリア一か月前後の未熟者の主を見ていれば一目瞭然。
スマートに殺せるようになるまでは今しばらくの月日を要するだろう。
「ええ、いえ、承知しているつもりではあるんですよ? ただ手近な得物がテーブルくらいしか無かったものでして」
「殴り倒すくらいなら椅子でも十分だろうに……」
「いえいえ、椅子では確実性に欠けます。反撃されて怪我をするのもバカバカしいですし、何よりそれで胡桃さんがケガでもしようものなら……まあその時は全員挽肉にしますが」
まったくもって過保護な主である。
主の過剰すぎる攻撃性の半分は、先程の少年少女らを守ることではなく、吾輩に対する過保護からきている。
残りの半分は当然、短気、短慮、短絡、乱暴、横暴、粗暴によるものだ。
しかし吾輩は今でこそ倉澤家に引き取られ、愛玩犬として主の下で禄を食んでいる身だが、元はコンクリートジャングルを根城に縦横無尽跳び回っていた野犬だ。
血統書付きの軟弱な犬とは一味も二味も違うということをいい加減に理解してもらいたいものだ。
尤も、人間にそれを伝達する
吾輩は犬であるが故に、である。
「それで? 感情の赴くままに暴れるのは止めにして、その力を帝国衛兵団で活かそうという気にはまだならないのか?」
「あー……」
主が困った様子で空を仰ぎ見る。
ソウブルー要塞には我が主、倉澤蒼一郎を正義のヒーローと認識し、その力を掌中に納めんとする三つの勢力が存在する。
帝国騎士団、
主を己が陣営に加えようと目論見、顔を合わせる度にこうして勧誘するのが常であった。
我が主、倉澤蒼一郎は一人しかいない。先着一名様の早い者勝ちだから当然だ。
「もう暫く自由を満喫していたい今日この頃です。なー、胡桃さん?」
そう言って主はしゃがみ込んで吾輩の頭を撫でる。
あーそこそこ。眉間のところも――いや、有り難いが、この場合、愛情表現と言うよりは思考放棄、並びに現実逃避と言った方が適切だろうか。
主は感情に忠実な男だ。帝国に来てからその傾向がより強くなった。
だが、秩序を軽視することを良しとしていない。寧ろ、法と秩序に拠って立つ男だ。
あの粗暴さからすると嘘みたいだが事実だ。日本では法律が殺しを許さなかったから殺さなかったし、帝国では法律が殺しを推奨する場合があるから殺す。
道徳的な理由で殺しをしないのではなく、また暴力性で殺しをしているのでもない。
殺すも殺さないも全ては法が基準になっており、それはある種の機械的な冷酷さを感じさせるが、治安維持を目的とした武装組織を統べるアーベルト殿にしてみれば、主の精神性に高い適正を見出すに十分過ぎる程の評価点となっていた。
法令順守の殺人マシーンの一面がある一方で、吾輩の主は現代の若者ならでは怠惰さを十二分に備えている。だから秩序を重んじはしても、秩序の中枢に立つのは絶対に御免なのだ。
堅苦しそうだし、面倒臭そうだし、何より休日が少なそうだから。
勤勉を美徳とする日本人らしからぬ今時の若者らしい情けない惰弱な発想だが、主の休日が減ると吾輩のお散歩タイムも減る。これは由々しき事だ。
しかし、しかしだ。
帝国衛兵団。日本で言うところの自衛隊と警察を足して更に積極的な攻撃性を持たせた軍事組織、所謂、公務員である。
所詮、我々は身元の定かでない異邦人。何より主は帝国では住所不定。
ホームがレスなフリーター。野良犬ならぬ野良人。野犬ならぬ野人なのだ。
ここは一つ彼のスカウトを受け入れ、真っ当な社会的地位を得るのが先決であると吾輩は愚行するが、主は将来的・人間的な安定よりも目先の自由を捨てきれないでいた。
きっと完全に後が無くなるまで変わらない。
だから未だに
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