中編 柳蒼言
茶の二杯目が注がれ、私達の前に差し出された。底には濁りが溜まり、水面からは湯気に乗って芳しい香りが立ち昇っている。
私はそれを軽く口に含んでから話を始める。
「律の歴史を語るのに、欠かせない人物と言えば柳蒼言でしょう」
柳蒼言、都では存在の有無すら曖昧な謎の人物だった。だが、律においては漢柳の祖であり、この地域の文化の礎を築いた人物である。
当初の尹巴の話では、ここに官吏として赴任したことが始まりだったとされているが……。
「都においては彼を知る者はほぼ皆無です。ここに赴く際に事前調査を行なっていた私達でさえ、彼のことを知りませんでした。過去の文書に彼の名が残っておりませんでしたからね。これほど律で知られた人物にも関わらず、用意した資料には一切情報がなかったのです」
「ここから一つ考えられるのは、都では記録を抹消されたということでしょうな。無いもの扱いの秘境と言えど、官吏が赴任した記録は必ず残すでしょうから」
私達の推理に尹巴も同調する。
「交流は頻繁ではありませんが、文書や記録がなければここに辿り着くのも難しいでしょう。たしかに辻褄は合います」
私達はなおも話を続ける。結論はさらにその先にある。
「それともう一つ考えられることがあります。そもそも彼は公文書に載らない形で律に来ていたということです」
「お待ちください。こちらの記録によれば、蒼言は官吏としてこちらに赴任したという事実が明確に記されておりますが?」
「その通りです。ですから私達はある仮説を立てました。これから官吏としての記録が抹消されていることと、非公認で律に来ていたことの両方を実証します」
これから私達が話すことは、律の人間にとっては突かれたくない不都合な真実だ。
しかし、それでも前に進む為にはこれに触れておかなければならない。
「県令は私達が耀白殿と鈍灰殿に初めてまみえた時のことを覚えておられますか?」
突然の話題にも尹巴は難なく返答する。
「ええ、それはもちろん。特に鈍灰の粗忽振りにはほとほと手を焼かされました」
「それです」
「え?」
「その時のやり取りを詳しく覚えておられますか? もう随分前のことになりますが、私ははっきりと覚えています」
「あ、私めも覚えておりますぞ」
「由殿はちょっと黙っていてください」
肩を落とす由殿を放っておいて、話を先に進める。
「あの時、鈍灰殿は私達に「勅使というのは出まかせだろう」と言い、貴方はそれを即座に否定した。一見不自然な点がないやり取りですが、内心焦ったはずです。彼が言ったのは私達を柳蒼言に見立てた皮肉だったのですから」
「ふむ……。たしかにそのようなことがありましたな」
尹巴はわずかに泳いだ視線を、湯飲みを呷ることで隠した。
私は特に気にせず、話を続ける。
「皮肉というより私達に向けた示唆というのが正しいでしょう。彼は久しぶりに外部の人間がやってきたことを知り、今まで暖めていた計画を実行することにした。それがこの前の耀白殿と詩耽さんの件です。そしてさらに、私達が都の役人だとわかると、計画が成った後の始末もつけようと考えた。これがこれからの律の体制の変化に関わることです」
律の住民の一大関心であった耀白と詩耽の恋模様、鈍灰はかねてよりそれを後押しできないか考えていた。
しかし、彼も尹家に後継がいなくなることを懸念していた。いずれ訪れる体制の変化、それを乗り越えるには、都の、それも天子に奏上できる人間の協力が必要であった。巡察にきた文官に目を付けるのは妥当な流れだ。
「これから話す推理が確かならば、柳蒼言は律の誇りですが急所でもあります。都の者達は律の弱みを握る為に、古の咎を蒸し返すでしょう。帰還した私達をあれこれ詮索するでしょうし、視察の数も増やすはずです。その結果、難癖つけてこの街の権利を剥奪しにかかるでしょう。それに対するには、今真実に向き合わなくてはならない。私達が辿り着いた柳蒼言の真実、それは……」
先を述べることに逡巡したが、ここまで来てはもう戻れないと思い直し、私は言葉の矢を尹巴に射かける。
「彼がとある大罪を犯しているということ」
強い秋風が屋内に吹き込み、戸がガタガタと揺れる。
「大罪……」
風で尹巴の白い両
「それは……勅書の捏造です」
放たれた一矢に、尹巴は無言を以て応じる。
「蒼言は律に赴任する命を受けていない。そもそも官吏であるかもあやふやですが、記録が抹消されているという想定に基づくならば本当なのでしょう。ただ、彼の律訪問が官命によるものではなかったとしたら? 彼が何を思って、都からここへ至ったのかは今や知る術はありません。結果として辿り着き、文化的な都市を作り上げたのは揺るぎない事実ですが、彼がここに来る前の明確な足跡は見つかっていない」
勅書の捏造が記録を抹消された理由だったとしたら、あまりに処分として軽すぎる。
経緯から考えるに、ここでは職務放棄からの除籍処分辺りが順当だ。
「役人が職務を捨てて出奔したとしたら当然、除籍の処分が下されます。官吏を輩出するほどの家柄ならばその失態を恥じて、もう存在しない者として扱うでしょう。故に都で彼のことを知る者はいなくなった。しかし、貴方達は知っている。出奔騒動に隠された彼の犯した罪を。そして、その証拠を持っている」
なおも言葉を発さぬ尹巴に向かって、私は滔々と言葉を投げかける。
「律には蒼言の輝かしい功績を刻んだ碑がそこかしこに建ててあります。でも、いずれも内容は律に来てからのことばかりです。彼がここに来る前、どんな家柄に生まれ、どういう経緯で官僚となり、何の仕事をしていたか、全く触れていない。それに違和感を抱きました。
律出身者は各地に居て、言うまでもなく都にもいた。その中の幾人かが環の国への渡来事業に参加した後、その経験を携えて故郷に戻ってきた。
ここに来た当初、尹巴本人が語っていたことだ。
「出奔による蒼言の存在の抹消、その裏にある真実を私達が隠していると? 不都合な出来事が記録から外されてよくわからぬままというのは、古今多々あることかと思いますが……」
押し黙っていた尹巴が口を開く。放たれた問いに私はすかさず反論する。
「宮廷が彼の罪を知っていれば、私達がここに来ることもなかったはずですから。というか県令、そう仰るということは「蒼言の生い立ちに勅書の捏造に関わる秘密がある」と言っているようなものでは?」
「あっ……」
私がしたり顔で指摘すると、尹巴は「しまった」という表情を浮かべる。
「いやいや、今のは世に往々にしてあることを言ったまでです。この話とは関係がありません。たとえそうだとしても、それを証明できるものはあるのですか?」
「それについてはこれからお話しましょう」
うろたえる様子に手ごたえを感じつつ、私は話を続けることにした。
「県令が以前お話した通り、蒼言は住民を教化し、漢柳を確立させた。役人として培った知識がここで役立った訳です。でも、これは勅書捏造の根拠には乏しい。彼がそんなことを成せたのは、技術をもっていたからです。これは県令が思わずしてしまった発言を思い出して閃きました」
「私の発言……?」
思わず漏れ出た彼の問いに私は答える。
「これも歓待の酒宴でのことです。私達を偽りの使者だという鈍灰殿に対して、貴方は勅書が本物であること、そして、それを複製できるならば職人として召し抱えられていることを仰った」
「出まかせからした発言ですが、それが関係あると……?」
訝しむ尹巴に由殿が声を掛ける。
「県令、「よくもまあそんな詳しく覚えているものだ」とでも言いたげですな。安心なさってください。私もそう思いましたから。まあまあ続きを聞いてくだされ」
「もちろん、これはあくまできっかけです。しかし、何か思う所があるようでしたので、妙に引っかかっておりました」
発言の裏にある意図を汲むという官僚の病癖にも、今だけは感謝できる。
「そんな些細な発言を取り上げて、貴方がたは一体何を――」
「公邸の建て替え」
差し挟んだ言葉に尹巴の口が止まる。
「公邸の建て替えを私達が来る前になさったのでしたよね? 鈍灰殿が装飾の書画をさぼって未だに完成していない、この屋敷の建て替え工事です」
「それが柳蒼言の生い立ちと何か関係が?」
「大いに関係があります。山中ということもあって、ここは有用な木材には事欠きませんが、この屋敷は完全な新築ではなく、一部に古い資材も使われていますよね? それを隠す為に鈍灰殿に内装の装飾を依頼した。なぜ隠すか、簡単なことです。見せたくない物があるからです」
「見せたくない物ですか……。それなら古い物は完全に処分した方が確実かと思いますが、そうしなかった理由があると?」
予め記されていた台本をなぞるように、尹巴が問う。
「ええ、その理由は単純明快です。見せたくないけど残しておきたいからです。誰に見せたくないか。外部、特に都の人間です。都の人間に見せたくないけど残しておきたい物、すなわちそれが……」
「蒼言の生い立ちを記した物という訳ですか。この公邸のどこかに、都ではすでに霧散した彼の生き様が隠されていると」
「そういうことです。さらに付け加えるなら勅書捏造の証拠もその中にあると見ています」
私は追及の手をさらに押し進める。由殿が半ば蚊帳の外になっているが、気にしている余裕はない。
「実に面白い推理をなさりますね。では、この公邸の建て替えが柳蒼言の秘密にどのように関わってくるのでしょう?」
脳内で点と点を繋げながら私は話を進める。
「それには木材の使途の話に戻ります。この街には建材とは別に特有の使い道がある。それは何か。答えは版木制作です。記録によれば、蒼言が技術を住民に教え、都から持ちこんだ書籍の版を作らせ、良質な書を自給自足させた。それから版木の制作は律の産業になったとあります。これが律の文化水準を劇的に向上させたといえるでしょう」
「たしかに蒼言が興したこの一大事業のおかげで、律では今でも出版が盛んに行なわれております」
「それ故に私達の手元にもこれが届きました」
懐から出された一冊の書籍、整った字体で綴られた詩が私達をここまで導いてきたのだ。
「漢柳集……!? 随分読みこまれた物のようですが、どうして貴方がたがそれを?」
「都の漢柳支持者がこれを持っていました。それはさておき、これほど質の良い印刷物を作れるのは、わが国では都の省庁や指定を受けた特区の機関くらいです。普通なら辺境の集落で作れるものではありません。そして巻末の出版印ですが、これに関してもここまで精巧な物は数少ないでしょう」
我が国では版元である証明の為、書籍に朱印を押す習慣がある。それには彫りの技術の高さを示す為に、印も精巧に作る傾向がある。
私が開いた『漢柳集』の巻末には、その例に漏れず、非常に繊細な筆致を再現した印が押されていた。
「これほどの物を作れるのは官朝の御用機関だけ。柳蒼言はそんな技術をここの住民に伝えた。彼は一体何者なんでしょうね」
勅書の捏造には下文の校正、そして天子の印の複製が必要である。いずれにも高度な知識と技術が求められる。
故に絶大な効力を発揮し、偽物を疑うことさえ許されないのである。
「酒宴での私の発言を取り沙汰したのはそういうことですか。彼は捏造を可能にする能力を十分に兼ね備えていたと」
「普通なら協力者の存在を想像する所でしょうが、そのような大罪を犯すことに協力する物好きはそうそういませんし、彼が一人でここに来たことはそちらの記録でも明らかです」
そもそも協力しても見返りが全くない。漂泊するから財産を全て託すと言われても、事が露見すれば一族郎党死罪は免れない。
「なるほど……。ここまでを踏まえた上で、貴方がたは柳蒼言をどのような人物と推理しておられるのでしょうか?」
「おそらく官吏の中でも珍しい経歴をもった人物だというのは想像に難くないでしょう。その中で私達が行きついた答えは「都でも有数の職人の家系に生まれた官吏」です。創造性豊かな文筆、実用的な手技、実務に関する知識、そして秘境への憧れ……。これらが絡み合った結果が、彼をここへ導いたと考えております」
「…………」
沈思黙考。尹巴はじっと眼を閉じ、何か考え込んでいる。
応接にひんやりとした空気が流れる中、私達は固唾を飲んで彼の返答を待つ。
「私達は――」
目を開いた彼は静かな口調で胸中を述懐する。
「自分達の街を守る為、天に対する不義を働こうとしています。貴方がたは今その場にまみえておりますが、如何なさるおつもりでしょうか?」
これが解答といって良いだろう。彼の真心に対し、私達も誠心を以て応える。
「先祖を敬い、兄弟朋友を守らんとする心が天意にそぐわぬとは思いません。私は国に仕えているのではなく、天命人道に仕えている身ですから」
「同じく、利を欲する者に与するつもりは毛頭ありませぬ」
格好付けたことを言ったが、要は心を通わせた友を放っておけないというだけだ。
耀白、鈍灰、詩耽、街の住民達、誰も彼も気が良い人達ばかりだ。
彼らの力になりたい。ただ、単純にそう思っただけのことである。
「わかりました。貴方達に全てを託しましょう」
「え?」
「全てをお見せします。確証を得られぬ状況にありながら、よくここまでお考えになりました。その熱意に応えたいと思います」
尹巴が立ち上がり、屋敷の奥へと誘う。
いよいよ柳蒼言の秘密が明らかになる。真実を知った所で、私達は果たして律を守ることができるのか。それはまだわからない。
しかし、都で手をこまねいて待っている佞臣共に対抗するには、論を固めなければどうにもならない。
天子の心を動かす為の一手を見つける為に私達は前に歩きだした。
〈第5話 中編 ――了――〉
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