第2話 漢柳二聖

前編 耀白

 宴場に至ると、そこにはすでに容姿端麗な青年が下座についていた。青年はこちらに気付くと慇懃に礼をする。

「おお、耀白ようはく殿、もう到着しておられましたか。多忙な所ご足労いただき申し訳ない。面を上げてくだされ」

「県令、こちらこそ都からのお客様との宴席にお召しいただき、ありがとうございます」

 耀白と呼ばれた青年は構わず、伏したまま挨拶の辞を述べる。なかなかに実直な人物のようだ。

「お二方、こちらにおわすのが、律にこの人ありと言われた漢柳の名手、耀白殿です。まだお若いですが科挙にも及第し、当地の官吏として活躍しております」

「耀白です。字は太清たいしんと言います。気兼ねなくこちらで呼んでいただければと存じます。都には科挙で訪れたことはありますが、華やかで思わず嘆息が漏れたことを今でも覚えております」

 顔を上げ、真っすぐこちらを見つめる視線は力強く、話振りも丁寧でいかにも好青年だと見て取れる。これほどに擦れていない若者は都にはいない。

「太清殿、こちらこそよろしくお願いします。私は張本陶ちょうほんとう、字は宇曽うそうです。こちらが顔路、字は由。堅苦しくせず、我々のことも字で呼んでください」

「顔路でござる。いやはやお若いのに立派な方で感服いたした」

 我々も礼を取って応える。

「ささ、ではそろそろ料理も到着するでしょうし、席についてくだされ」

 尹巴の招きで各々座席に座る。間もなく料理が運ばれ、杯に酒が注がれる。これから彼らのような者と詩を談ずることができると思うと、自然と気分がうきうきと高揚してきた。

 だが、肝心の尹巴はそわそわとしきりに従者に何か確認している。もしや私達の視察に疑問を抱き、何やら良からぬ企みを?

「県令殿、如何した? 落ち着かぬ様子だが」

 顔路がすかさず尹巴に問う。

「いや、これは失礼しました。実はもう一人、漢柳の名手を召していたのですが、未だ姿が見えないようでありまして……。言うなれば耀白殿と並んで「漢柳二聖かんりゅうにせい」と呼ばれるほどの才人です。ただ何分、気難しい人物でして、色々こちらも気を配らなくてはならない者なのです」

 おろおろした様子を見るになかなかに難物のようだ。堅物か、あるいは歌舞伎者か……いずれにしても厄介な人物のようだ。

「県令、二聖などと、それは我々には過ぎた賛辞です。それはさておき、彼には私からも話を通しておりますし、酒食が出ると伝えてあれば、いずれ馳せ参じるでしょう。あれはそういう男です」

 耀白殿の口ぶりからすると歌舞伎者の方か。彼とは真反対の人物のようではあるが、お互い認める仲なのだろうか。少々の勝手も許される程度には優れた者なのかもしれない。

「ふむ……。まぁ仕方ありませんな。お二方にはいらぬ気を遣わせてしまいましたな。振る舞いには少々難があるものの、詩については卓越した才をもっているので、是非紹介せねばと図ったのですが……。せっかくの機会に水を差してしまいましたな。申し訳ございませぬ」

「県令殿、気を落とさないでくだされ。それほどの才人に見えぬことは惜しいが、我々にこれほどまでにご配慮をしていただいていることにすでに恐縮千万でござる」

「そうです。ご厚意はすでに充分いただいておりますし、お気になさらないでください」

「左様でございますか。ならばその者の紹介はまた別の機会にでも致しましょう。では料理も冷めてしまいますし、そろそろ頂くことにしましょうか。では杯を……」

 各々酒を注がれた杯を持つ。揺れて波紋を浮かべる水面から芳しい香りが漂ってくる。

「乾杯!」

 尹巴の音頭に応えて「乾杯!」と返して、ぐっと飲み干す。長旅で疲労した体に美酒が染みわたる。

「いやはや、これは乙な味ですな」

 顔路も酒の味にううんと唸る。秘境には酒と珍味が付き物と道中で固く主張していたが、口に合う物と出会えたようで何よりだ。

「この土地の地酒です。こちらの川魚の煮物が良い肴になります」

「ハハァ、魚が肴になるのですな。県令は早くも酔いが回っているようですな」

「久方ぶりに遠方より友が来たものですから、口も達者になってしまっているようですね」

 県令も随分と機嫌が良い。ここは彼の人当たりの良さにこちらも応じるのが筋だろう。

「私達のことを友とまで称していただけるのは至極光栄ですね。ならば私もそちらの文を以て、応えましょう」

 先ほど概略を聞いただけだが、今の県令の一言でふと思いついた漢柳がある。杯を置き、呼吸を整えて詩を吟じる。


 長旅遥遥到桃源 長旅遥遥として桃源に至る

 山谷森森入城門 山谷森森として城門に入る

 番兵剛而知礼儀 番兵剛にして礼儀を知る

 往来民和達恭温 往来の民和し恭温達す

 婦人添夫助推敲 婦人は夫に添いて推敲を助く

 老若好文談詩論 老若は文を好み詩論を談ず

 見遠方友亦至楽 遠方の友に見え亦た至楽なりと

 厚賓主交是謝恩 賓主の交わりを厚くし是に謝恩す


「……如何でしょうか」

 内容的には褒めちぎっていて相手におもねりすぎた感覚を拭えないが……。

「これほどまでに絶賛頂けるとは、この街の代表として恐悦するばかりです。この詩を聞けば、誰しもこの街が都にも劣らぬと誇るでしょう。即興でここまでの作品を為されたのは素晴らしいです」

 尹巴は袂でさりげなく顔を拭った。そして、改めて杯を掲げて曰く。

「友の良き詩に乾杯」

 ぐっと酒を飲み干したので、我々もそれに続いて同じく杯を傾ける。

「いやはや、先の県令殿の発言は孔論こうろんからの典故だったのでしょうが、そこから詩に孔論の文句を用いたのは流石の本陶殿ですな」

 孔論とは先にも述べた華国の国教、孔儒の教えの経典のことである。それには「遠方より来たる朋有り。また楽しからずや」という文句があり、先の詩の七句目はそれを細工して取り入れたのである。県令の「遠方から友がきた」という言葉もこれから借りたのであろう。

「ええ、典故に一句丸々使うのは従来の詩には難しいですが、漢柳だと容易にできますね」

「そこが漢柳の醍醐味でもあります。これだけで表現の幅は大きく広がるのです。本陶殿の詩を見るに、五句目もまた面白いと私は感じました」

 挨拶を交わしたものの、これまで口数が少なかった耀白が爛々とした表情で語りかけてきた。詩の話になるとうずうずしてきたのであろう。

「五句目と言いますと、「婦人は夫に添いて推敲を助く」という詩句ですな」

「はい。この五句目には推敲という故事も用いています。前四字の婦人が夫に寄り添うという点は孔儒の教えを踏まえた内容にもなっており、一句に典故を二つ盛り込むような形になっています。これでも十分に優れた句だと存じますが、「婦人添夫」の四字を「淑女添逑」と変えれば『儒詩じゅし』の「みさごの歌」からの典故と明示され、より技巧の入った句となるのではと思いました。典故を重ねるのはくどいように感じますが、二つの故事を掛け合わせて新しい意味を紡ぐこともできます。すなわち、これでもかと内容を詰め込めるのも、また漢柳の良さなのです。無論、簡潔にまとめるのも詩人の腕なのですが……。」

 推敲も有名な故事だ。詩を為す際、「推」の字か「敲」の字のどちらが良いか悩む者の逸話から、文章の校正を指す言葉として用いられる。『儒詩』は孔儒の教えの経典に数えられる書物で古代の詩集である。

 それにしても彼も詩の話となると居ても立ってもいられない質なのだろう。先ほどまでの物静かさから一転、饒舌に詩論を語っている。なるほど彼の言うとおりたしかに難解なものから簡潔なものまで、幅が広い詩作が可能なのは強みであろう。

「耀白殿も興が乗ってきたようでありますね。やはり詩と聞くと燃えたぎるものがあるのですね」

「あっ! これは差し出がましい真似をしました。初対面にも関わらず詩の添削までして不躾にも詩論を語ってしまい……」

 青年はおずおずと身を縮こめて詫びる。聡明な若者ではあるが必要以上にへりくだる所を見るに、周囲と壁を作る性格なのかもしれない。

「いや、気にしないでください。杯を交わした時点で私達は友です。詩は詠みと読みの語り合い。作者と読者の意を以て、より良きものを織りなすのもまた楽しみの一つです。それに我々は漢柳に関しては素人ですし、先達にご教授いただけるのはありがたいばかりです」

「太清殿のご指摘ももっともでありましたしなぁ。私も五句目に関してはその方が良いとは思っておりましたよ。ええ。」

 顔路が話に乗っかる。本当はそんなことには微塵も気付かなかっただろうに。

「では耀白殿、本陶殿らも貴殿の手腕をご覧になりたいでしょうし、ここは一つ詩を為してみては如何でしょうか」

「わかりました。県令からのご用命とあらば……。そうですね。今の詩に合わせて一作吟じましょう」

 今のわずかな沈黙の間に詩を為したというのであろうか。漢柳二聖と呼ばれるのも伊達ではないようだ。

 耀白が姿勢を正し、ふっと息を吐き、さぁ吟じようとする。

 ――が、がしゃんと大きな物音が鳴り響く。

 女官の悲鳴の後、どすどすという足音がこちらに近付いてくる。物音の主は何やら歌っているようだ。近付くほどに歌の内容も明らかになってきた。


 京華至絶遠 京華より絶遠に至る

 野人畏誠懇 野人は誠懇を畏る

 何用来此地 何を用てか此の地に来るか

 以為疑隠遁 以為おもえらく隠遁を疑う


 わめくような歌声を響かせて、薄汚れた容姿の男が宴場に侵入してきた。どうやら泥酔しているらしい。酒席にもかかわらず、ぷんぷんと酒の匂いがこちらにまで漂ってくるのがわかる。ただ、無作法な中に上品な所作が見え隠れする辺り、本当はなかなかの色男なのかもしれない。

 侵入者の姿を認めるやいなや、尹巴は額を手で覆って天を仰いでいる。「あちゃー」という心の声がありありと伝わってくる。耀白は「やはり……」とでも言いたげに慣れた調子で静座している。

「何者だ! いきなり入ってくるとは」

 顔路が詰問する。

「何者も何も、ここに呼ばれていたから来ただけなんだがなぁ。お前が都から来た勅使とやらか……。なるほど世俗からの隠遁でもなく、閑職で無理くりこんな辺境に飛ばされたと見える。大方勅使というのも出まかせであろう」

「な、な、何と無礼な……」

 顔路はわなわなと怒りにうち震えている。顔の紅潮も酔いのせいではないようだ。

「顔路殿、落ち着きなされ。県令殿らの反応を見るに、その方が例の――」

「誠に申し訳ございません。仰る通り、その者が先に話に出た、二聖の片割れの鈍灰どんはいでございます。振る舞いに小人の相あれど、このような真似を為すとは露とも知らず……。無礼千万でただただお詫びするしかありませぬ」

 尹巴は地に額を擦り付けんが如く謝り倒す。男はそんなことを気にする様子もない。

「尹巴よ。そんな都の腐れ役人共にへつらう必要はないぞ。この地に視察吏が来るなどいつ以来だというのだ。勅使というのも虚言に決まっておる。」

「ば、馬鹿者! 印綬も書もれっきとした天子公認のものであったわ。あれを複製できるのであれば、職人としてお上に召し抱えられておるわ」

 あまりに慌てているのか、尹巴も言葉が荒くなっている。

「ははぁ。まさか本物だったのか。楼台から覗き見ていたが、てっきり山賊かとばかりに――」

「貴様ぁ!」

 顔路が飛びかからんとしたので、急いで抱きかかえて止める。

「放してくだされ宇曽殿! 私だけではなく貴殿まで中傷されたのであれば黙ってられませぬ!」

「由殿、我々は天子から命を与えられたのです。何と言われようと下手な騒ぎは起こすものではありません」

 小声で改めて窘める。

「今この酒席を壊せば後々困るのはこちらです。漢柳の知識をしっかり得る為にもここは堪えてくだされ」

 漢柳が国の文筆を乱すことはないとわかった時点で仕事を半ば放棄するつもりだったが、都への報告をする為にも材料はある程度必要だ。

 こちらの意図を汲んでくれたようだ。ふうふうと息を荒げながらも、顔路は座席に戻った。私は鈍灰に向かって詫びる。

「こちらの連れが失礼しました。勅使に見えぬみずぼらしい格好で誤解させたようですね。長旅にあっても君子であり続けるのは実に難しいものだと痛感するばかりです。今ほど大声で歌っておられた詩にも聞いた通り、随分と都のことをお嫌いな様子ですが、そのことを責めるつもりはありません。その詩も貴殿の心の声なのでしょうから」

「嫌味ったらしい物言いは好まん。はっきり言え」

 そう言うと、鈍灰は空いていた席にどかっと座る。扉越しにこちらを窺う下僕に向けて「酒!」と吐き捨てた後、こちらをじろりと睨みつける。

 その眼には相手の力量を測る意思を感じられたが、都でさんざん見た打算含みのものとは少し異なる気がした。物的な損得を抜きにした、交わりをもつに足る人物なのかを見抜こうとする真摯な眼に思える。

「都嫌い役人嫌いに物申すつもりはありません。ただ、今のあなたの行いは県令殿らの面に泥を塗るような愚行です。我々やご自分に迷惑を被る分にはお好きに為せばよろしいですが、お二人の徳を失わせるような真似をすべきではありません。詩には人格が表れます。あなたの詩才については少々聞き及んでおりますが、これ以上愚人の振る舞いを続けるのであれば、あなたの詩になど価値はありますまい」

「はったりでもなく、それが汝の考えか?」

 鈍灰は視線により力が込めて、こちらに問う。私も「無論だ」と頷く。

「隣のお前もか?」

「無礼な御仁と語る舌は持っておりませぬ」

 顔路も憮然として答える。

 沈黙が続く。和気藹々とした宴席は一転して張り詰めた緊張感が満ちた空間となる。

「この地で名を知られるようになってから、横柄な態度を取ってもどいつもこいつも俺の詩をありがたがったものだが、それでは価値がないと言ってのけたのはそこの二人を除けばお前達が初めてだ。どうやら詩を語るに足るようだな。尹巴、水場を借りるぞ」

 返事も待たずに鈍灰は立ち上がって一旦その場を後にする。

 どうやらお眼鏡には適ったようだ。


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