後編 鈍灰
「本陶殿! 路殿!」
尹巴に呼びかけられその方を向くと、地にめり込まんばかりにひれ伏していた。
「県令殿、詫びる必要はありませんよ。彼が我々を試すつもりだったのは最初から何となく察しておりました。ですよね? 由殿?」
「え? ええ、そうですとも! 決して無礼で横柄で尊大極まりないとは思っておりませぬ」
存外彼も嫌味な性格らしい。
「何ですと? あやつがどうして試そうとしていたとわかったのですか?」
「本性であのような行いをするならば、あなたは彼を初めからこの場に呼ぶ気はなかったでしょう? だからこそ彼には何か意図があると読みました」
打算や意図を汲み取るのは仕事柄慣れている。
「その慧眼には恐れ入るばかりです。鈍灰の突拍子のない行動を取るようになったのは過去に原因があるようでして、いつからかあの通り周囲と距離を取って自分が認めた者としか交流しないようになってしまったのです。面倒くさい男ですが、私に免じて許してやってください」
尹巴も気苦労が絶えないだろう。
「私からもお願いします」
耀白も低頭して畏まる。
「県令殿は謝ってばかりですなぁ。まぁまぁここは酒に流しましょう」
「そうですね。客だからってそこまで構える必要はありません。ささ、一杯」
尹巴と耀白の杯に追加の酒を注ぐ。
客の方が主に酒を注ぐ妙な構図になっているが、これもまた交誼の表れであろう。初対面でこれだけ気心の知れた間柄になれた相手は久しぶりだ。
鈍灰が戻ってきた。少々酔いを醒ましてきたらしい。顔の赤らみが先ほどより比較的収まっている。
「何だ。せっかく人が酔いを醒ましてきたというのに」
「私達はさっき飲みだしたばかりだよ。お前は飲み過ぎだったからこれでちょうどいい塩梅さ。どうせ昼間から飲んでいたのだろう」
「おいおい太清よ、そう言いながら顔が赤いではないか」
「私は肌が白いから赤みが目立つだけさ」
鈍灰は不遜な口ぶりは変わらないが、所作は打って変わって艶やかな――男性に用いるべき表現ではないがそう感じる美しさがあった――物腰で空席に座る。色男という見立てはあながちはずれていないかもしれない。
「さて、今宵の賓客が揃った所で改めて詩談を始めるとしましょうか。耀白殿が吟じる寸前に予期せぬ乱入がありましたし」
「呼ばれていたから来たのに「予期せぬ」とは解せんな」
「日頃のいい加減な行いのせいだよ」
耀白と鈍灰は互いに軽口を叩きあう。
「再開第一弾は耀白殿からでよろしいかな?」
「構いません。さて、先の話題は県令の「友」という言葉が端緒となって始まった詩談でした。そこから宇曽殿が典故と孔儒の教えの風を用いて、我が街を讃える漢柳を為して頂きました。ならば私はそれに答える漢柳を以て、遠方からの友に謝したいと存じます」
絶遠聞書声 絶遠に書声を聞く
鴻群越山谷 鴻群は山谷を越ゆ
休休楽風雅 休休として風雅を楽しむ
翼翼結親睦 翼翼として親睦を結ぶ
近体尚綿綿 近体は尚お綿綿たり
柳文亦郁郁 柳文は亦た郁郁たり
吟嘯賑夜寂 吟嘯して夜寂を賑わす
協合如糸竹 協合して糸竹の如し
遠くに詩文を楽しむ声を聞いた渡り鳥が山谷を越えて、その地の者と交誼を結ぶ様を描きつつ、近体詩と漢柳の楽しみを賛美した詩だ。
耀白の人となりをそのまま表したようなさわやかな作品だと私は感じた。
「起句の鳥の鳴き声と詩を賦す声を掛け合わせた辺りが巧みですね。鴻群は友人を例えて使う詩語で、私の詩への返答とここでわかりますね」
「耀白殿らしい詩だと思いました。起句で「書声」、謂わば詩賦、結句で「糸竹」、すなわち管弦のことですな。声と楽を場面の演出に上手く用いている」
尹巴も手放しで賛辞の言葉を贈る。
「そこまでお褒めいただけることに恐縮するばかりです」
耀白は身を低くして返答する。いくら持て囃されていても褒められることには慣れていないようだ。顔が赤いのは酔いのせいだけではなさそうだ。元より人との関わりが苦手な性分なのかもしれない。
「太清よ。褒められるのが苦手なら俺から講釈してやろう」
鈍灰が右から口を出す。
「お前の詩を聞く度に思うのだが、相変わらず息苦しいな。適当に思っていることをぶちまけられるのが漢柳の良さだというのに、近体がどうだの、柳文がどうだの、格調高く見せようと肩肘張っている」
「お前の言うとおり、何でも表現できるのが漢柳の良さだ。だから私は自分の思いを忌憚なく詩に乗せて詠った。目ざとく粗を探して肩肘張っていると批判している辺り、お前の方が逆に格調にこだわっているのではないか」
詩に篤く熱い二人が論を交わす。我々は二人の熱に押され、ただただ傍観するしかない。いや、この町の才子二君の議論を酒の肴にするのも悪くないかもしれない。
「申し訳ございませんな。これもこの町の名物なのです」
尹巴も苦笑しつつ、こちらに詫びる。日常茶飯事なのだろう。たしかに人の論議ほど娯楽になるものはない。誰それがこのような屁理屈を語っていたとか、それを反論されて木端微塵に論破されたとか、痛快な事例には事欠かない。
ただこの二人の場合、議論に終わりが見えない。賢人同士の会話は周囲を渦のように巻き込み、海中に引きずり込んでいく。我々も詩論という渦に引きずり込まれていた。
「聞く分にはなるほどと思えることもあるのですが、話を振られるとこれはまずいですな」
顔路はすでに話についていけていないようだ。
「たしかにあまり我々を放って置かれるのも考えものですな」
そう言うと、尹巴は「これこれ」と二人に呼びかける。
「議論に熱中するのもよろしいですが、今は客人を交えての酒席。ほどほどになされ」
「あ! またしても失礼しました!」
「何だ。俺たちを放置して酒を楽しんでいると思っていたのだが……」
対応が正反対で思わず笑みがこぼれる。
「本陶殿、どうなされました?」
「いや、失礼しました。性は対称的で詩文に対する考え方も対立しているのに、ここまで認め合う仲なのは不思議なものだと思いまして」
「はかりと同じことよ。我々は釣り合うからこそ同じ側に立てないのだ」
鈍灰はふんっと鼻息荒く答える。
「ごもっともな例えです。では耀白殿と釣り合う詩才をお持ちの鈍灰先生の詩をそろそろ聞いてみたいものです。先の戯れ歌で詩腕を測られるのも本意ではないでしょう」
「たしかに先のようなふざけた詩だけで余所者にどうこう言われるのは気に入らんな。良いだろう。漢柳二聖の鈍灰、本懐の詩をここに残そうではないか。おい、筆と墨を」
従僕に筆墨を用意させると、尹巴に確認も取らずに襖に筆を走らせる。良いのかと思ったが、尹巴も何も言わない。
「県令殿よろしいので?」
「ええ、彼は元々この邸宅の襖絵や天井画などの書画や装飾をいくつか任せておりました」
周囲を見回したが、この部屋の襖には何も描かれてはいなかった。「はて?」と思ったがどうやら続きがあるようだ。
「以前、建て替える機会があって、その際、彼に書や画を依頼していたのですが、あの通りぐうたらでしてな。結局、建物が完成しても襖や扉の書画はいくつか空白のままなのです。それに苦言を呈したら、「それなら機会がある時に少しずつ埋めていく」と言い出したので、その通りにさせているのです。」
「なるほど、この部屋には無地の襖しかなかったものですから気付きませんでした」
「また時間があれば屋敷を見回ってみてください。彼の書画はどれも秀逸ですから」
そう話す県令の言葉には友を誇る温もりを感じた。見え隠れする上品な所作にもしやと思っていたが、詩に限らず多芸なのは意外であった。
「さぁできたぞ。読んでみよ」
さらさらと淀みなく記された一字一字に目を通す。
舟行漂詩海 舟行詩海を漂い
浅酌浴潮風 浅酌潮風を浴ぶ
氷輪皓皓顕 氷輪皓皓として顕なり
浮光揺漾融 浮光揺漾として融なり
波平身眩暈 波平らかなれど身は眩暈し
酔脚猶朦朧 酔脚猶お朦朧たり
臨水深無底 水に臨めば深きこと底無く
望天高莫終 天を望めば高きこと終わり莫し
大意を言うならば詩の世界はどこまでも果てしなく、深奥は底がないというところであろう。
詩の海という大海を詩人を乗せた舟は漂泊し、酒を嗜みつつ吹く海風に触れ、くっきりとした明快な詩を詠うこともあれば、水に映る月のようにゆらゆらと不確かなものをしっとりと詠み上げることもある。平穏な中にあってもふらふらと安定しておらず、文筆の世界に酔っている。深遠はどこまでも奥深く、高遠の果ては尚も見えぬ。
「文学賛歌でありますなぁ。詩の道を海原と表現しましたか」
顔路が感嘆する。作者の鈍灰は隣で得意になってふんぞり返っている。
「ははぁ。俺の詩才に恐れ入っているようだな。まぁ宴席の襖に記す書画としてはちょうどよい出来だな」
「読む側に色々と想像させる詩ですな。来客と詩談をする際に、この詩を提起に用いるのも面白いでしょう。ただ……」
尹巴が笑みを含みつつ耀白の方に目配せをする。耀白もそれに応じて述べる。
「作者については話題にしない方が良いでしょうね」
友だからこそ許される揶揄が場を和ませる。くくっと皆で笑い合う。
「俺は自分のことを話題に事欠かない男と分析しているのだが違うのか」
自分の評判について自覚はしているらしい。この町の住民にとって二聖は話題の中心であろうと推測できる。
「だからこそさ。お前の悪行三昧を聞かされる身になってくれ」
「県令殿は民の声を聞くのが仕事だぞ。そして詩は民が意思を発信する為の道具なのだろう?」
優れた詩人は口車も達者だ。彼も例に漏れず言葉の扱いに長けている。
「詩の話に戻りましょうか。作者の人格は置いておいて、この作品からは文人を取り巻く世界の広さを感じさせますね」
「どこか腑に落ちないが、まぁ良いだろう。宇曽といったか。貴殿の言うとおり、こいつの注目点は果てしなく迫力のある世界観だ。だがもう一つ着目してほしい点がある」
すらすらと言葉を並べる鈍灰を耀白が遮る。
「こらこら、言いたいことは尽きないのはわかっているが、まずは私達に講評させろ。もう一つの着目点、それは広い世界を漂う舟だな?」
「うむ、さすがは太清よ」
鈍灰は大きく頷いて同意する。
「広大な世界と矮小な人間の対比……といえばやや陳腐に聞こえます。それをテーマとした詩作は得てして厭世的な雰囲気になりがちです。ただ、彼の作品は違う」
耀白の評に熱が入る。一愛好家として彼の作品が好きなのがよくわかる。
「と、言いますと?」
「この詩はとことん前向きな作品です。舟は漂っているけども惑ってはおりません。安楽して酒を楽しみ、海から吹いてくる風、これは謂わば言葉の海から吹き立つ作品達を表しています。次の三、四句目で詩の世界が醸す多面的な風景を描きます。続いて五、六句目。波が穏やかなのに船酔いしたのかと思えば、実はあまりの楽しさに酒が進んで酔ってしまったことに気付くのです。そして最後の二句に繋がり、この天も海も見えぬこの世界を究めたいと締めるのです」
「たしかに鈍灰殿の性格を想えば、最後の二句は「果てしないなぁ」と嘆いていると読み取るより、そちらで解釈するのがよろしいかもしれませんな。私は酔ってこの世界に耽溺したいという風に読み込んでいました。いやはや私は作詩は下手な方ですが、やはり読むのは色々な話を聞けて実に楽しいですなぁ」
実際、顔路の詩の腕は怪しい。官吏の任用試験に及第した時、本人が誰よりも驚いていた程である。
ただ、これは私の個人的な所感ではあるが、彼は作詩以外の実務能力に関しては誰よりも優れている。本人の談によると、学業は程々にして道楽で商売まがいのことをして、そこそこ成功していたらしい。おそらくその辺りの評判が当時の試験官――その中でも実務重視派の人物――の耳に入ったのだろう。詩一作考えるのにひと月はかかっていたという当時の彼が、あの試験を突破するのは通常ありえない。
「路殿もこの機にもう少し作る方に努めてみるのも悪くないのでは? ここでは気軽に詩を楽しめますし」
「顔路殿は作詩が苦手なのですかな?」
尋ねる尹巴に任用試験でのことを語る。
「ははは! なるほどそういうことがあったのですか」
「とほほ、尹巴殿も笑わないでくだされ。宇曽殿も恥ずかしい過去話を掘り返すとはお人が悪い」
顔路もしゅんと縮こまり、酔いと羞恥で顔がかっかと燃えているようであった。
「そこまで壊滅的ならば反対に興味が湧くな」
「失礼な。これでも多少は進歩しているのです」
「二週で一作程度には成長してますね」
私の茶々入れに皆がどっと沸く。
「やや、失礼失礼。真面目な話にはなりますが詩作の早さに関しては遅くても良いのです。大事なのは作品に心情を込めることなのですから。私は路殿が読む楽しさを知っているのに、作ることを諦めているのが気がかりだったのです」
実際、私は過去にこのような歓待の場で彼が詩を為せないことを馬鹿にされてきたのを知っている。お節介かもしれないが彼の悔しさを理解しているだけに、何とか手助けしたかったのである。
「宇曽殿のご憂慮ももっともなことですが……」
「何も恥じ入ることはない。この町に詩作下手を笑う者はいない。それにこの漢柳二聖に師事できるのはこの町の者でもそうそうないぞ」
「鈍灰よ。私を勝手に入れるな」
「何だ太清? お前は反対か?」
「そうではない。師事ということに引っかかっただけでむしろ大賛成だ。。顔路殿、朋友として共に詩作を楽しみましょう。もちろん宇曽殿も」
「もちろんだ」と私も頷きを返す。
「ささ、路殿。包囲網を敷かれた以上、もう逃げられますまい」
「いやはや宇曽殿には敵いませんなぁ。この顔路、苦を楽に変えるべく精進致します」
顔路もくしゃっと表情を綻ばせてどうにか観念してくれた。
「固いことはもう言いっこなしだ。さて、尹巴よ。ここは友の立志に銘酒で応えようぞ」
「お前は良い酒を飲みたいだけであろう。まぁ良い。おーい、あれを持ってきなさい」
呼ばれた侍従が新たな酒を持ってきた。大事そうに封をされた瓶には「桃園」と銘が記されている。杯に注がれた液体は混じりけがなく透き通っており、精悍な若者の芯の強さを想起させる。鼻腔をくすぐる香りは甘く、ほのかに果実の匂いも感じられ、気品と愛嬌を備えた淑女の如き麗しさを感じさせる。
「では、よろしいですな?」
尹巴の音頭に皆、杯を持つ。
「乾杯!」
ぐっとひと飲み、そしてふうっと嘆息が漏れる。
少し間を空けて微笑。互い互いに顔を見合わせ、気持ちを同じくする。
歓談は尽きることなく夜は更けていく。
外を見ると、月光に照らされた鳥達が止まり木で安らかに眠っていた。
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