第7話 文の華

前編 故郷


 かつて通った長い道のりを遡り、再び洛鳳らくほうの門をくぐった。懐かしき都の風が私達を出迎える。

 往来の人々が厚い上衣に首を埋めながら、屋台から立ち昇る湯気に群がっている。大きな通りは人馬が絶えず行き交い、袖が触れあったことなど微塵も頭に残らなさそうなほどに人で溢れ返っていた。

「この活気は変わりませんね」

「年の瀬も近付いていますからなあ。誰も彼も忙しそうにしていて、私もそわそわしてきましたよ」

 季節は冬を迎えようとしていた。律から都への道程は予定よりも少々遅れがあったものの、危険な目に遭うこともなく全員無事に辿り着くことができた。完全に雪で覆われる前に山谷を越えることができたは良かったが、道中の関を抜けるのにしばしば難儀した。

 私と顔路は密命で公に知られていない秘境に向かった謎の文官であるし、尹巴にしても国籍を持たぬ謎の人物の扱いになるし、鈍灰も昔に隠者となって身分を失っている。そのような一団が現れたのならば、当然当局としても一通り取り調べを行うものだろう。ただ、行きは任命書を見せればすんなり通れた所を帰りはこうも難航したのを見るに、この時から都の佞臣共の妨害があったとも考えられる。

 何はともあれ、私達は遥かなる道のりの末、ようやく帰京を果たせたことに安堵を覚えていた。

「ふーい。やっとこさ着いたか! 着いた途端、今までの疲れがドッと出て来たぜ。本陶やい、さっさと休もうぜ」

「鈍灰殿、そうはいきませんよ。すでに関から私達のことは宮廷に情報が伝わっているでしょうし、すぐさま帰還の報告に向かわねばなりません。下手に出頭を遅らせると相手につけ込まれる隙になります」

「へいへい。相変わらず官僚って奴は息苦しい世界に生きてんだな。重箱の隅を突くようなことをして他人を陥れた所でどうにもなるまいというのに」

「概ね同意しますが、それ、宮中で言わないでくださいよ」

「同意するのかよ……。そんじゃあ、さっさと行くか。都のことは嫌いだが飯と酒は律に劣らず旨いからな。ほれ、ちゃっちゃと用事済ませようぜ」

 鈍灰との初対面の時を思い出す。乱暴な口振りとはうらはらに詩談の折には端正な物腰をしていた為、上流の人間だとすぐに気付いた。それに加えて大の都嫌いだということから、都で何か転機があったというのも容易に想像できていた。律を発つ直前に語られた、彼の出自がとんでもない事実だったのは後々明らかになるだろうからここでは語るまい。

 数十年ぶりの都の光景に彼は何を思っているのだろう。今の軽快な振る舞いは彼なりの思いやりなのだろうか。

「鈍灰殿は腹が据わってますなぁ。私はこれからのことを考えると食欲も落ち、酔おうにも酔えませんよ」

 由殿も調子の良いことを言うものだ。貴方に限ってそれはあり得ないでしょうに。

「道中の宿でバカスカ飲み食いして腹を壊したのはどこのどなたでしたかね……。無駄話もこの辺にして行きましょうか」

「都に来たのは遠い昔のことですし、私はお二人に任せます。今回の件に関して、味方になってくれる御仁がいれば良いのですが……」

 私達が気の抜けた会話をする一方で、尹巴が物憂げな表情を覗かせる。老体の彼には今回の旅がなかなかに堪えたようで、さらにはこれからの困難を想像してか、口数もやや少ない。

「これから報告に向かう相手がその最大手になるでしょう。かの御方は今回の律文問題に際して、激高した天子を諫め、まずは文官である私達を派遣するよう取り計らった人物です」

 天子とその周囲が乱文によって風俗が荒れることを懸念し、都の文人の間でひそかに流行し出していた漢柳を弾圧しようとしたのがそもそもの発端だ。その渦中で、先走る漢柳容認派を抑えこみつつ、天子を宥めた人物がいた。それが今回の文官派遣の責任者であり、ひいては今回の任における私と由殿の直属の上司であった。また、本来は私達のような下っ端が関わることがない立場の人間でもある。

「その方とは?」

「中書令の曹齢然そうれいねん様です」

 中書とは勅書の起草などを執り行う省庁で、令はその長官を指す。いわば皇帝の側近中の側近だ。皇帝に直接意見できる数少ない人物と言える。

「律にも彼の名は伝わっております。機密を巡っての政争ともなれば、かのような殿上人の名が挙がるのも不思議ではありませんね」

「まるで他人事のような口振りですなあ。尹巴殿、お疲れですか?」

 煽るような口振りで由殿が尹巴を叱咤する。尹巴もにこやかに言葉を返す。

「ははは。ご心配には及びませんよ。ここまで大事になると一周回って冷静になると言いますか……。覚悟を決めてここまで来ておりますから少々のことでは驚かないだけです」

「いやはや頼もしい限りですな。然れば則ちいざ宮城に向かいましょうぞ」

 朱雀門の向こうでは何が待ち受けているのだろうか。いや、何があろうとも乗り越えてみせる。それができるだけの手札はすでに揃ってある。後はそれを適切に切っていけるかだけだ。

 一同は気持ちを新たにし、意気揚々と大路を進んでいった。



 秘書官に用件を伝え、通された奥の間で待つこと暫く、その男はやってきた。

「よい。面を上げよ」

 立場が佇まいを作るのか、佇まいが立場を呼び寄せるのか……。

 質の良い着物に身を包み、風格と気品溢れる所作は場の空気を一変させる力を感じさせる。詩人や学者とはまた違った、政治家の威容だ。

「此度の視察の任、大儀であった」

「はっ!」

 私達は中書令曹齢然の労いに最上の敬礼を以て応じた。

「県令達も律からよく参った。長旅で疲れただろう」

「ありがたきお言葉を賜り、恐悦の極みでございます」

 尹巴と鈍灰も厳かな態度で応対する。鈍灰が何か無礼なことをしないかひやひやしたが、さすがの彼も場の空気を読んだようだ。

「ん……?」

 早速任務の報告に移ろうかという所で、曹中書が鈍灰を訝しむような目で見る。

「如何なされました?」

「すまない。本題に入る前に少し気になることがあるのだが……。鈍灰と申したな?」

 腹の底まで貫き通すような眼力が向けられる。良からぬ空気を感じ、私は咄嗟に口を挟んだ。

「彼は律の文学に明るい博士として、私が……」

「本陶よ、構わん。どうせしょうに会えば明らかになることだ」

 昌とは天子の本名だ。通常は目下の者が呼んではならない習わしである。

「卑賤の身に落ちてもなお天子の名を軽々しく……。昔に比べて雰囲気は少し変わっているが、本性は今も変わっておらぬようだな……。姓を変え、名を変え、染濁などという字まで付けて過去を捨てた癖に今更どういうつもりだ」

 口振りからして、中書はすでに鈍灰の正体に気付いているようであった。鈍灰は臆することなく飄々と受け答えした。

「あ奴が見られなかった世界のあり様を、俺の言葉を通して教えてやろうと思ってな」

「それは陛下が望まれていたことか? 陛下のお気持ちをまたお前は……!」

 曹中書は表情を変えていないものの、机上の拳はかすかにわなないており、相当の力がこめられているようであった。

 彼は一寸目を閉じ、小さく息をついてから私達にこう告げた。

「……取り乱してすまない。来てもらってすぐで申し訳ないが、気分が優れないので報告はまた後日にしてほしい。……それとその男は今後宮中に連れてこぬように」

「お待ちください。長官は律の処遇が穏便に収まるよう、此度の文官派遣を進言なされたと聞いております。これを実現するには彼の力が不可欠です!」

「どうやら貴殿らはこ奴の過去をすでに知っておるようだな。だが、まだ知らぬこともあるようだ。元の名を捨てたいきさつを知れば、天子の御前、いや宮中にさえ居られては困るということが重々わかるはずだ。とにかく今日の所はもう引き取ってくれたまえ」

「わかりました。では先にこちらだけお返し致します」

 私は一冊の書物を差し出す。それは律への視察に当たって、中書から手渡されていた品であった。

「『漢柳集』か。見るに随分と熱心に読んでいたようだな。それは君が持っていたまえ」

「いいえ、お返し致します。差し当たってご報告したいことはそこに全て収められています」

「左様か。別に君達がそのまま持っていても別に構わんのだが……」

 曹氏は手持無沙汰にパラパラと書をめくる。

「……わかった。これを以て諸君からのひとまずの報告としておく。明日以降のことについてはまた人を寄こす。今日の所はご苦労であった」

 どうにか『漢柳集』は受け取ってくれたものの、こうも態度が硬化すれば後は取り付く島もない。私達は大人しくこの場を後にするしかなかった。鈍灰もかつての知己に拒絶されたことが堪えたのか、沈痛な面持ちで黙りこくってしまっている。

 応接の間を出る寸前、曹氏の表情をちらりと窺おうとしたが、彼はすでに背を向けており、感情を探ることも叶わなかった。



 宮殿を出て、私達は途方に暮れる。一刻にも満たぬ会談は私達に先行きの不安を植え付けるには充分だった。

「どうするんですか! これでは律は」

 眼前では苛立つ由殿に鈍灰が頭を下げるという珍しい光景が繰り広げられていた。

「……すまんな。隠していたつもりはなかった。齢然は俺が都にいた頃の友人でな……いや、あの感じだと、あいつはもうそう思っていないか。都を去ってもあいつならわかってくれるだろうと、当時は受け入れられなくても時が経った今なら俺の行いを許してくれるんじゃないかと甘えていたのかもしれん。色々あったが水に流して、当面の問題を優先してくれるだろうと……。まあそりゃそうだよな。名を変えて出自を捨てた所で、あいつらからしたら俺が姿を消したことはまだ終わっていない問題だよな……」

「何をぶつぶつぶつぶつと……。いつもの憎まれ口はどうしたのです。鈍灰殿がしっかりしないと……!」

「まあまあ、今は染濁を責めた所でどうにもなりますまい。事情を整理するにも積もる話になりそうですし、どこかで腰を据えて聞く必要がありそうですね」

 余裕がない二人の様子を慮ってか、尹巴は仰々しく腰を叩きながらさらに言葉を続ける。

「というよりも年のせいもあってか、長旅で体がガタガタでして……。じ、実は先ほどから……腰から下が崩壊しそうなんです……。腰を据えて話を聞く前にその腰の方が逝かれそうで……どこか休める所を……」

 冗談かと思ったらわりと本心だったらしい。表情は普段通りを装っているが、よく見ると体が小刻みに震えている。三割冗談、残りは本心といった所であろうか。

 頃合いを見ていた私はここで休息の提案をする。

「ここで取り乱していてもどうにもなりませんしね。それでしたら私の家は如何でしょうか。せっかくの帰郷ですし、由殿もご家族をこちらに呼んで、今夜は各自の無事をゆっくり労い合いましょう。後のことはそれからです」

「宇曽殿、先ほどから妙に落ち着いていますが状況をわかっておられるのですか?」

「中書令への報告は済ませましたし、出張帰りの暇も頂いているのですから休める時に休んでおくべきです。それに……まあ詳しいことは後で話しましょう」

「うーむ、何やらまた良からぬ企みをしたようですな。後で必ず話してくだされよ」

 そう言い残して由殿はドスドスと大きな体を揺らして自宅の方へ向かっていった。

 さて、久しぶりの我が家だが、妻や子ども達はどうしていることだろうか。帰京道中の関所から都度手紙を寄こしているが、それでも気にはかかるものだ。

 私は尹巴と鈍灰を連れて自分の邸宅へと足を向けた。



 椅子に深く腰掛け、机上に置かれた一冊の書物に相対する。今日はもう側仕えの者も帰したので、執務室はしんと静まりかえっている。

 私は書物を手に取り、はらはらと紙面をめくっていく。真ん中ほどまで進んだ所で書を大きく開くと、折り畳まれた書状が挟まれていた。

 日中の面会にて渡された際に気が付き、「ここまで細工するのならば」と仕方なしに受け取ったものの、本当にこれに「差し当たって報告したいこと」が記されているというのだろうか。

 書状をおそるおそる開いてその文面を眺める。

――ここに律県および本官の志あり。天子への献策を求む。

「何だ? これは……」

 拍子抜けなことに記されていたのはこの二文のみであった。文面によれば挟まれていた頁に彼らの主張が表されているようだ。

 開きっぱなしになっていた書物に視線を移す。よくよく見ると、書状を抜き取った後も挟まっていた場所がわかるように、そこが開きやすいように癖がつけてある。随分念入りなことだ。

 見開きには一つの詩が載っていた。

「詩集だから当たり前か」と胸の内で呟きながら文字を追う。


 焚書折筆文不絶  書を焚き筆を折れども文は絶えず、

 謡口憶耳詞弗滅  口に謡い耳に憶えて詞は滅せず。

 刻石彫金鎚打鑿  石に刻み金に彫り鎚はのみを打ち、

 削木束竹帛亦裂  木を削り竹を束ね帛もまた裂く。

 覆実捏虚芽萌生  実を覆い虚をぬれども芽は萌生ほうせいし、

 埋簡蔵版鳥啼血  簡を埋め版を蔵せども鳥は啼血ていけつす。

 暗智鈍思愚与空  智を暗くし思を鈍くし愚にして空なるよりは、

 明志敏道賢溢渇  志を明らかにし道に敏たりて賢にして渇をみたさん。


 脚韻と対句だけ踏んで、後の規則は無視した技巧の無い詩だ。従来ならば、この詩もこの書物に収められた他の作品も評価の対象にすらならないだろう。

 しかし、時代は変わり、これを評価する者達が現れ出した。公に表明していないが私だってそうだ。だからこそ必死に天子を諫め、彼らを現地に派遣した。

 何も詩に惚れたからだけではない。律は先祖の故国でもある。旧来より当家の者は都と律を行き来して研鑽を積み、曾祖父の代に完全に都に移ったという歴史が存在した。縁のある土地が危機にあるとなれば、立場を脅かされようとも動かざるを得なかった。

 そうした背景を孕んだ律への文官派遣はどうやら予想以上の成果を挙げたようだ。ただし、あの男が律に居て、且つ都に戻ってくるのは予想外だった。

 奴が家を捨て、身分を捨て、名を捨て、洛鳳を去ってからもう数十年経っている。その間に再び都の門をくぐったという話は聞いていない。奴がここに戻ってきたのはそれだけの覚悟をもってのことだろうか。

 開かれたままの詩集に視線を落とす。

 人は文学を捨てられない。

 書と筆がなければ歌を。

 文字を石へ、金属へ、樹木へ、布切れへ。

 真実は隠せず、表現への意欲が失われることはない。

 愚鈍に無為のまま生きるよりは真理を求めて満ち足りた生を。

 技巧は皆無にして、内容は説教臭い。されど今の私の心に重く響く。なるほど、今の都人にないものがこれにはあるのかもしれない。おそらく奴もこの価値を理解しているからこそ……。

 窓辺に夕陽が射し、部屋を赤く染める。沈みゆく太陽を眺めながら、かつてと語り合った時を回顧する。

 あれから世の中も私も随分と変わってしまった。だけどお前は変わっていなかった。それが苦々しくもあり、喜ばしくもある。私は国家に殉じ、時にはその為に己の意思を押し殺してきた。それでも宮中は少しずつ腐敗堕落し、良からぬ方向へ進もうとしている。これに歯止めをきかせられるのはお前のような者なのかもしれない。

 天子の血縁、いや友である、お前の力が……。



〈第七話前編――了――〉

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