後編 連理の合作
それから数日が経った。
私と由殿は街の査察と並行して詩会の企画を着々と進めた。そして、尹巴殿や鈍灰らの協力もあって、ついに開催に至る。
とはいうものの、当初はこじんまりとした身内の会にするつもりが、大規模なものになってしまった。
事の始まりは住民の耳にも詩会が話題になり始めた所からである。どこからか噂が漏れたのか、一旦小火が点き始めるとあっという間であった。
「二聖の漢柳を同時に聞けるまたとない機会」だの、「詩耽さんが表に出るのでは」だの、噂に尾びれ背びれが付いて広まり、街を巻き込んだ騒ぎとなった。
我々はこの事態を受け止め、尹巴殿に相談した結果、彼の計らいで県令邸に住民を招待することになった。それからというものの、お祭り騒ぎにますます拍車がかかり、街を挙げての催しへと変じていった。
県令邸の中庭には小さな舞台が建てられ、その周りには豪奢な絨毯が敷かれていた。そこでは招待を受けた住民達が座して、今か今かと開始の刻限を待ちわびていた。
「いやはや、まさかこれほどの催しになるとは思いもしませんでしたな」
由殿が控え室から緊張した面持ちで中庭の様子を覗いている。
「それだけこの街の住民が娯楽に飢えているということなんだ。律はお祭りが大好きな国柄でな。何か面白そうなことを見つけたら皆で盛り上げようとするのさ」
鈍灰が眉を掻きながら言葉を返す。
私はこれがあの二人にとって、重荷とならないだろうかと不安になった。たしかに彼女らは参加してくれるが、このような大勢の前で愛の告白などできる訳がない。事前に通達した詩題を変えた方が良いかもしれない。
「あいつらなら即興でも詩はできるだろうが、まあここまできたら成り行きに任せようぜ」
「鈍灰殿は呑気と言うか、悠然としているというか……」
「そうじゃねえよ。男と女なんて決定的な場面を作れば、あとは勝手にくっつくもんだろ」
そうだった。彼女達は「男と女」だ。形はどうあれ恋愛のあり方は我々と変わらない。今日という日を良ききっかけにすればあとは成り行きが決めてくれるだろう。
「おはようございます。外は随分すごいことになっていますね」
しばらく待っていると、耀白が控え室にやってきた。表情に寝不足の気が見受けられた。
「耀白殿、おはようございます。街でもみくちゃにされませんでしたか?」
「県令が迎えを寄こしてくださったおかげで何とか。それにしても、屋敷に着くまでの間、色々な方に暖かい声をかけてもらいました。ここまで注目されたのは初めてのことで驚きましたよ」
彼は不思議と落ち着き払っていた。強い決心をひしひしと感じる。
「お三方とも、何故そうも落ち着いていられるのか不思議でなりませぬ。私は今日は進行役と言えど、膝が笑っておりますのに」
由殿は詩の力量が間に合いそうにないので、今日は司会を務める尹巴殿の助手をしてもらうことになっていた。
「おいおい、由よ。お前が気負ってどうすんだよ」
鈍灰が由殿の背をバシバシと叩いて叱咤する。この二人もこんなに仲が縮まるとは思いもしなかった。
「どうも。皆さん、お揃いの様ですな」
尹巴殿が室の戸から顔を覗かせる。詩耽もその後ろに控えているようだ。チラッと見えた髪飾りや衣が華やかで、美しく着飾っているのがわかった。
耀白の様子を横目で観察すると、彼女に向けてさりげなく目礼したような気がした。
それから一同で中庭の舞台に向かい始めた。その間も彼女達は言葉を交わすことはなかった。あれから今日まで言葉を交わすどころか、顔を合わせることすらなかったので無理もない。
屋内から中庭に出て舞台に歩みを進める。観衆から賑やかな歓声と拍手で出迎えられる。舞台に昇って各々の席に着くと、尹巴殿が慇懃な礼を以て開幕の辞を述べた。
「此度は天気にも恵まれ、諸君らの暖かい支援、協力もあって無事、詩会を開催する運びとなりました。まずはそのことについて感謝を述べたい」
聴衆からわあっと歓声が上がり、拍手が中庭にこだまする。尹巴はそれに頷きを返しつつ続ける。
「さて、ただ今この街では知らぬ者のいない、三人の詩の英才が一堂に会しました。今更かと思いますが、一言を以て紹介させていただきましょう。まずは耀白殿、我らが街の詩聖です。巧みな技巧と情緒を織り交ぜた詩は多くの者を魅了しております」
――キャー! 太清様!
――今日も格好良いです!
――今日は頑張って!
――律の誇りですぞー!
「ありがとう! 今日はよろしくお願いします」
「続きましては鈍灰殿、耀白殿と双璧を成す詩仙と言えましょう。広大な発想と確かな学識から打ち出された詩は一級品です」
――うおお鈍灰だああ!
――この前の金返せ!
――ちっとは働けー!
――うちの子に変なこと教えないで頂戴!
私の「散々ですね」という言葉に鈍灰は「いつものことだ」と邪悪な笑みを返す。
「そして三人目は……。皆様に色々とご心配をおかけしておりますが、此度は是非ということで参加する運びとなりました。尹詩耽、私の娘です。未だ体調が優れぬ所もあります故、優しい目で見守っていただければと存じます」
――詩耽様!
――詩耽様だ!
――ああ、息災なご様子を見られて嬉しゅうございます……。
――すごい綺麗だよ! また公園で遊ぼうねー!
聴衆から歓喜の声が沸き起こる。それを目の当たりにした詩耽は席から起立し、深くお辞儀して応える。面を上げる際には垂れた髪飾りを気にする素振りをしつつ、目もとを軽く拭った。
「ありがとう」という彼女の謝辞も、大歓声にかき消されてしまう。
「暖かいご声援に感謝します。私からも改めてお礼を申し上げます」
歓声が落ち着いた所で尹巴は先を述べる。
「では引き続きまして、参加者をご紹介致しましょう。皆様の間でもここ数日で関わり合いになった方もいるでしょう。都からの客人です。彼らは帝の命を受け、こちらにお越しになりました。漢柳の自由な詩作を都でも取り入れるべく、今回の詩会を企画して、準備に奔走してくれました。張本陶殿と顔路殿です」
盛大な拍手に迎えられ、私と由殿は共に深く礼をする。尹巴から「何か一言」と水を差し向けられたので、私が代表して謝辞を述べる。
「ご紹介に預かりました、張本陶と申します。我々は詩は作れど、漢柳は未だ達せざること甚だしく、こちらの三名に及ばないかと思いますが、皆様と楽しみながら詩を為したいと存じます。それと、こちらの大男は作詩が苦手なものの、見る目は確かなものがあるので今回は進行助手を務めさせていただきます。見渡せば美人が多い故、少々緊張しておりますが、どうぞよしなに」
聴衆から笑いとまばらな拍手が起こる。
「本陶殿、ありがとうございます。それではこれより漢柳詩会を開催致します!」
開催の辞を以て、いよいよ詩会が始まった。
「早速ではございますが、今回の詩会では参加者には二つの詩題を予めお伝えさせていただいております。まず、第一の詩題を皆様にもお伝えして、それに則った作品を鑑賞していこうと思います。漢柳の詩形については五言か七言か、四句か八句かは制限しておりません。では顔路殿」
「はい!」
尹巴に促され、由殿が額に収められた書を観客に向けて広げる。
「第一の詩題は「出会い」です!」
「ほお」と唸る者、黙って成り行きを見守る者、「ありがちだな」とほくそ笑む者、聴衆の反応は様々だ。ざわざわと喧騒が中庭に吹き込む風と入り混じる。
「出会いという題を選んだ理由ですが、まさにこの場に相応しいと思い、決定しました。この地では一つ一つの出会いが貴重なものです。都と律、長大な距離の末に出会った我々の縁を祝してこれを定めました」
出会いと別れは詩によく取り上げられる題材だ。それだけに腕の良し悪しが問われる。
「ここは俺から行こう」と鈍灰が挙手する。
「お、先陣を切るのはこの男ですか。それでは鈍灰殿、お願いします」
「俺とこの二人の出会いは最悪なものだった。しかし、今はこうして仲を取り持つことができた。都嫌いの俺にとってはまずまずの進歩だ。こいつらのおかげで俺はさらに進化できた。これはその情を込めた詩だ」
彼がどうして都の人間に良からぬ感情を抱くのか。こうして詩を談じる仲となってからも未だ聞けていない。
だが、私も中央官吏の窮屈さにうんざりしていた所もあったので、何となく察することはできる。彼が時折見せる所作、学識、多芸はそこらで簡単に得られるものではない。
静寂の中に鈍灰の伸びやかな朗吟が響く。
京華至絶遠
野鄙匿雲霞
共吟垂詩酒 共に吟じて詩酒を垂る
自開顕騰蛇 自ら開きて
「ほう、これは」と私は唸った。最初の句は彼が私達に対して乱雑に歌った、あの問題作と同じではないか。しかしながら、そこから全く別の装いの詩へと展開されている。
由殿も気付いたようで感嘆しきっている様子だ。師の凄さを目の当たりにした弟子のようである。
「男性陣が唸っている所を見るに、これはなかなか含みのある作品のようですね」
詩耽はあの場にいなかったので知らない。尹巴が観衆にも向けて簡単な補足を加える。
「この男は以前、我々の前で同じ初句を用いているのですよ。その後の内容は客人に対して甚だ無礼な戯れ歌だったのですがね」
耀白も一言添える。
「だからこそ感心したのです。同じ初句から全く異なる展開を紡いだのは見事ではないかと」
「ちなみにその時はどのような詩を……?」と詩耽が尋ねるも、男共は愛想笑いを浮かべてごまかす。
「そ、それはともかく、具体的な内容について鑑賞していきましょうか」
「そうですなあ! そうしましょう!」
「それでしたら本陶殿からお聞きしていきましょうか」
このやりとりを詩耽はあどけなく口を尖らせながら見ていた。私は構わず話を続ける。
「この詩の重点は「野鄙」と「騰蛇」という二語に尽きます。ご存知かと思いますが、騰蛇は我が国に存在する神獣ですね。謙遜はしているけれども、雲霞を払えば自分達の中には確固たる自負があるという気骨を感じます」
耀白も私の話に同調する。
「そうですね。細かく言えば「垂」の字も個人的には好みです。私の解釈ですが「雲霞にお酒を垂らしたら、それが晴れて神獣が姿を現した」と想像すると神秘的な趣きを感じます」
「ふはははは、さすが耀白、そこに気付くとはさすが我が好敵手よ」
鈍灰はふんぞり返って高笑いする。ここまで振り切っていると嫌味すら湧かない。
「ただ、私なら別の字を用います」
詩においてはただ褒めるだけでは終わらないのが耀白だ。
「ほう? 面白い。言ってみよ」
鈍灰も「売られた喧嘩は」と言わんばかりに乗っかる。
「例えば……」
「ダメだ。その字では……」
「いや、それはお前の……」
「それを言えばお前だって……」
「それはこれとは関係が……」
「あーだ……」
「こーだ……」
場は一時、彼らの独壇場となる。訪問初日の夜のことを思い出す。あの時も彼らの詩談の渦に知らず知らずの内に飲みこまれていた。これを眺め続けるのも面白いが、そうもいくまい。
尹巴殿もそう思っていたようで、機を見て口を挟む。
「なるほど、語ることが尽きませんが、時間の都合もありますし、そろそろ次の作品に移ろうと思うのですが、よろしいですかな?」
「またやってしまった」という耀白と「もう終いか」という鈍灰の反応もあの時と変わらない。観衆はいつもの予定調和と和やかに見ているし、詩耽も二人の友の会話を慈しむように眺めていた。会場は闊達な雰囲気に満ちていた。
「二聖のお二人も興が乗ってきたようですし、その流れで次は耀白殿の作品を鑑賞することにしましょうか」
「わかりました。私もこの場に並々ならぬ思いを背負って臨んでおります。染濁に負けぬ素晴らしい詩をご覧に入れましょう」
めらめらと対抗心を燃やす耀白は高らかに詩を詠み上げる。
孤鳳仮幽人
清貧奏仙楽 清貧にして仙楽を奏す
双鷺越関河
風雅厚惇朴 風雅にして惇朴を厚くす
鶯燕生桃源
協睦親文学 協睦して文学を親しむ
哢吭漸累累
詠嘯愈濯濯 詠嘯愈々濯濯たり
「ははぁなるほど、孤鳳は鈍灰殿、双鷺は私と宇曽殿、鶯燕は――」
「ええ、仰る通り、私と詩耽を指しています」
「おお?」と会場が少しざわつく。名前を出しただけでこうなると、彼らも少々居心地が悪かろう。
「たしかに各々にぴったりとなぞらえていますね。ばらばらの土地から集まって、それぞれが特徴をもっている。そして、それらのさえずりが重なりあえば、和して雅やかな歌声となる。交わりの美徳を歌った良い詩だと思います」
私の感想に一同が頷く。
「鈍灰殿、如何です?」
尹巴の問いに鈍灰は答える。
「鳳か。そこまで言われると悪い気はしない。お前の詩は「吟」だの「嘯」だの、その手の字がよく入っているが、ここでもそれを用いるとは本当に詩を詠じることが好きなんだと感心するよ」
「たしかにその傾向があるかもしれないな。まぁ私の生活は全て詩に繋がっているからね。ついつい詩の賛歌を作ってしまう」
「やはりこの街一番の詩狂いだな。だがたまには違った趣向のものを見たくなるな」
鈍灰は含み笑いを浮かべる。耀白もそれに対して真っ向から受けて立つ。
「まぁそれは後のお楽しみさ」
再び火花を散らす両者に仲裁の手が入る。
「いやはや、お二人の迫力に圧倒されてしまいますな。しかしながら我らが宇曽殿も負けてはいません。都の代表としてここは一つ、会場の皆様をあっと言わせる作品を発表していただきましょうか」
やたらと壁を高くされた感じが否めない。
「由殿、いくらなんでも適当が過ぎますよ」
「いえいえ、場を盛り上げるのが私の務めですから。ささ、早く発表してください。律の皆様が首を長くしてお待ちですよ?」
――大夫さーん、頑張って!
――おい、都のあんちゃん、ビビるなよ。皆、応戦してるぞ!
――大夫様の作品、楽しみにしてまーす!
壇上から改めて周囲を見渡す。囲む観衆の多さに驚くとともに、こうして集まってくれた彼らに敬意を抱く。
「皆さん、ありがとうございます。先の二人には及びませんが、この地に至って感じたことを思うまま、詩に込めました。では、参ります。」
一字一句を逃さぬようにしんと静まった聴衆に向けて、私は詩を詠唱した。
天険絶境人無牆 天険絶境人は
一視同仁徳在傍 一視同仁徳は傍らに在り
館灯笑語忘旅情 館灯の笑語旅情を忘る
懐中贈序惜離觴 懐中の贈序
険しい峰々に阻まれた土地だが、人の心には何も遮るものがなく、差別なく仁愛を施せる。この街で幾日か過ごし、住民の徳の深さに感服した。
そうした人の温かさが談笑に表れており、旅先であることを忘れてしまっていた。
そして今、胸の内で送別歌の序文を考え、別れの杯を交わす時のことを想像すると、なかなか筆を執ることができなかった。
当初は適度に辺境の文化を楽しみ、仕事をこなせばよいと軽く考えていた。都に息苦しさを感じていたが、それは余所の芝が青く見えているだけで、実際はそれ以上の街はないと思っていたのだ。
しかし、この街の人々と深く関わっていく内に考えが変わった。老若男女が真剣に文筆を談じ、酒食の時を楽しみ、他者の苦楽を己のことのように思える。このような街は他にない。
気付けばここを離れることを惜しむ自分がいた。この詩はその思いをありのままに記した作品だ。
「悔恨の絶唱かな。いや、お見事です」
尹巴が一言を以て嘆じる。
「いやはや、高くした壁を軽々と越えましたな」
由殿も手放しに賛辞を述べる。
「出会いには別れが付き物……。たしかに我々と本陶殿らに残された時間はあとわずかです。そのことをここまで想っていただけていることに胸が熱くなりました。一視同仁、律の国柄を示す言葉だと思います」
耀白も緊張気味だった顔を綻ばせる。
「一視同仁」の字句には彼だからこそ感じる所があるのかもしれない。それに同意して詩耽が講評を述べる。
「私達の国は他所との交わりの少ない土地です。だからこそ一つ一つの出会いを尊び、そこで語られる言葉に真摯に向き合わなくてはならないと思います。これは出会いは柔らかく、別れは固くありたいと思わせてくれる。そんな作品だと思います」
熱のこもった各人の講評に会場の一同が聞き入っている。ピンと張りつめた弦のような緊張感が観衆の間に走っていた。
「俺も元は外の人間だ。この国の奴らの馴れ馴れしさには驚かされた。だがその分、土地を離れる者に対する思いも強い。あんた達が感じていることはここの皆も感じているはずだ。大将、あんたの詩、痺れたぜ」
鈍灰はさらに言葉を続ける。
「まぁ、何だ。ここまでの詩を作っちまったら、別れの時が大変だな」
彼の憎まれ口をいなして、私は反撃する。
「ふふっ。「良い送別歌ができるまでここにいろ」とでも言いたげですね。寂しいなら素直にそう言えばよろしいのに」
「ば、馬鹿を言え! 往年の知己ならともかく、出会ってひと月も経っていない貴様らのことなど……」
照れ隠しもこうもあからさまだと、からかいがいがあるものだ。耀白も加わって彼を茶化す。
「そうか? 本陶殿達と居る時のお前はいつになく楽しそうだし、この前も上機嫌で私に彼らのことを語りかけてきたではないか。その様と言ったら、まるで恋する乙女のようだったぞ?」
舞台の上で繰り広げられる軽やかなやりとりに、観衆から笑いが起こる。
鈍灰は照れのせいで、すっかり顔が真っ赤になっていた。だが、彼もこれで終わるつもりがないようだ。私は彼が勢いのままにとんでもないことを言い出さないか、内心ひやひやしていた。
「太清よ。人のことを煽って墓穴を掘るとは、貴様も抜かったな。「恋する乙女」というが、貴様とて人のことは言えぬであろう?」
「え……? ああ、そうだな。わ、私も彼らのことをしきりに話題に出していたな」
耀白は核心を撫でる鈍灰の言葉に一瞬、窮したものの、どうにか切り返す。
観衆が「お?」と身を乗り出した所を透かされて「ああ」とかすかに声を漏らした。
たしかにこの機会に耀白と詩耽をどうこうしようと画策していたが、こうも矢面に立たせる必要はない。つつがなく進行すれば、これをきっかけに自ずと彼らは自分の望みを叶える為に動くだろうに……。
「そうではないだろう? 俺達は茶番を用意した訳ではない。由、もう次の詩題を発表しろ。尹巴も構わんだろう?」
尚も事を強引に進めようとする鈍灰に、私は尹巴殿と共に待ったをかける。
「待て待て、まだ発表されていない詩があるし、そう焦るでない」
「そうです。時間はまだありますし、今しばらく――」
「構いません」
声の主に一同の視線が突きささる。
詩耽だ。
「皆の関心が私達の動向にあることは承知しています。それならばそれをはっきりさせた方がよろしいでしょう。このまま地に足が着かぬまま詩を語るようでは、為された作品に失礼です」
決意の込められた力強い言葉、彼女もまた、この舞台にただならぬ思いを抱いていたのだ。
「太清もよろしいですね」
詩耽は真っすぐに耀白を見据える。彼も腹を括ったようだ。無言の頷きを以て、彼女に応じる。
「顔路様、詩題を」
「はっ」
由殿が次の詩題が記された額を掲げる。
「これは」と観衆も息を呑んで紙に注目する。彼らとて野次馬根性でこの詩会を見物しに来たのではない。親のような心境で見守っていたに違いない。
掲げられた額には「恋」の一字が収められていた。
「そう、第二の詩題は恋です。これは私達から提案させていただいた題です」
そうだ。これは彼女らから提示されたものだった。参加者から主題を募った際、詩耽と耀白から強く推された言葉だ。
「今回の催しは、元は私と太清の為に与えられた場でした。しかし、皆様のご厚意もあって、今や律一円を巻き込んだ催しとなりました。人の悲喜苦楽を己のこととし、思いあえるからこそ成せたことだと誇りに思っています」
街の民にとって憧れの存在、いや憧れだけではないだろう。誇り、敬意、親しみ、彼らは希望の象徴であり続けた。それ故に、街の者は彼らが悩みにさいなまれた時、その助けになりたいと望んだのだ。その結果がこの盛況である。
壇上に立ち、堂々と語りかける詩耽の表情は明るく、声は伸びやかで張りがある。耀白も彼女の手を取って隣に寄り添っている。
「恋は人の感情の中でも唯一、他者と接触しなければ発生しない感情です。孤独では起こりえません。私達は孤独に陥ることもなく、社会の中で生かされ、無事にこの感情を抱くに至りました。ただし、少し手違いが起こりました。大よそ世の人々は男の体だったら自分を男だと思うでしょうし、女の体だったら女だと認識するでしょう。そして、自分と異なる性別の人を好きになるでしょう。しかし、私達はそうではありません。心は男女の組み合わせでも体は女同士です」
由殿がぎょっと目を見開いて、こちらに何か言いたげに口をパクパクさせている。
「あとで話すよ」とだけ手ぶりで示して無視をする。
「太清の事情については、皆様も昔からご存知のことでしょう。当初は戸惑いから色々と衝突も起こりましたが、今ではこの街を支える立派な男性として、受け入れていただいています。私は幼い頃から彼と共に遊び、学び、笑い、泣き、生きてきました。恋は他者と接触することで起こる感情です。そして、好きになる相手に限りはありません。私は一人の女性として耀太清という男性を愛しています」
ついに彼女の意思が示された。露わとなった真っすぐな主張に会場がざわつく。隣に寄り添う彼に一同の視線が集まる。
耀白は詩耽を一瞥した後、観衆に向けて胸中を明かす。
「私は生まれつきは女ですが、心は男です。幼い頃はそれを歪みだと言われ、疎みや蔑みの対象になりました。そんな私に手を差し伸べてくれたのが詩耽でした。彼女は自分よりずっと大きな男子、果ては大人にも、おかしいことはおかしいと言える強い子でした。小さい頃はそれこそ、雲の上の存在で憧れていました。齢を重ね、彼女と文筆の腕を競い、学問を深めあい、今日に至るまでの中で、私の感情は少しずつ変化していきました。彼女も同様でしょう」
滔滔と語られる彼の言葉に群衆は引き込まれていく。
「私は彼女のように強い人になりたいと思っていました。過ちに果敢に立ち向かう勇気、誰にでも公平に接する仁義、これが彼女の強さの根幹なのだと」
律がこのような徳が行き渡った街になったのも、彼女の人徳があってのことなのかもしれない。
「彼女の支えと周りの尽力もあって、私は女性であることを忘れ、男性としての生活を得ることができました。しかしそれによって、私は新たな課題にぶつかりました。それは人として当たり前の感情で、生物として逃れられぬ命題です。とはいえ、私にはそれを理解することができませんでした。いえ、理解しようとしなかったという方が正しいでしょう。それを理解しようとすれば、自ずと自分が女性であることに向き合わねばならないのですから」
己の性に向き合うこと、それには彼にしかわからない葛藤があったことは想像に難くない。古の賢人でもこの難題に明確な解答は出し得ないだろう。
「でも、同じように彼女も悩んでいた。とんでもない人間を好きになってしまったと。女の体の男と、どう生きていけばよいのかと」
晴れやかな空に響く熱弁は人々の瞳に雨を降らせる。人々の袖には濃色の水溜まりができ、鼻をすする音もまばらに聞こえる。
「そんな私達を後押ししてくれたのが友でした。うじうじと悩む私達に、彼らはただ「詩を為せ」とだけ言ってきました。おかしな連中だと思いませんか? でもそのおかげで今ここに立てているのです」
「おかしくて悪かったな」と鈍灰がぼそっと呟いた。
「やっぱり散々な言われようですね」
「まぁいつものことだ」
そう語った彼の笑みはいつもより誇らしそうであった。
「詩は心の移ろい、世界の営みを写します。曇れば則ち濁り、晴れれば則ち澄む。私達のような詩狂いには、これしか意思表示する方法はありません。長々と語るよりはあとは詩で示した方が良いのかもしれません」
耀白が詩耽を見やると、彼女も微笑みを返す。
彼女達は尹巴の方を振り返る。彼は目を手で覆って、すっかり泣き崩れていた。
「もう! 父さんったら、気が早いんだから」
「すまないなぁ、二人共話せて良かったなと思うとなぁ……」
――県令、おめでとう!
――本当に良かったな!
笑顔と涙が入り混じった観客席から祝福の声が飛ぶ。尹巴はそれに応えようとするが、すっかり涙声になっていて要領を得ない。
「県令殿はもう無理そうなので……。顔路殿、よろしいですか?」
「何と……。何と胸が熱くなる話でしょう! 宇曽殿の浮ついた恋愛話とてんで違う、まさしく真実の愛の物語! こんな話を聞いたら私はぁ……」
やれやれ、彼もこうなっては致し方ない。
「今は司会陣が使い物にならないので、このまま行っちゃってください」
「本陶殿、わかりました。詩耽、行くよ?」
「ええ」
二人は息を合わせて、一つの詩を唱和した。歌声は美しく交じり合い、連理の枝の如くどこまでも伸びやかに絡み合う。
玉兎愧赧陰思慕
金烏空啼欲馳赴
墨痕灌涙濡紫毫 墨痕涙を灌ぎ
懐抱寄書綴詩賦 懐抱書を寄せて詩賦を綴る
紙筆不絶重逢瀬 紙筆絶えずして逢瀬を重ぬ
情話無尽湛白露 情話尽きること無くして白露を湛う
昼夜雲雨蜜両人 昼夜の雲雨両人を蜜にす
霽後日月果会遇
嗚咽混じりのわずかな静寂の後、心打たれた者達による万雷の拍手が鳴り響いた。
〈第五話に続く〉
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